鞦韆院落

北京で過ごすインディペンデント映画な日常

瀝滘村 その2

2014-05-31 08:00:11 | 広州散歩


桟橋からすこし北に歩くと、やや開けたところに大きな門が見える。
これが衛氏大宗祠である。
1615年に完成したという歴史ある建物で、瀝滘に残る多くの宗祠の中で飛び抜けて大きい。
衛氏は明朝の皇帝と遠い血縁関係があったとかで、建物には皇帝の一族でなければ使えない「燕子斗拱」と呼ばれる梁の斗組みの意匠が施されている。
瀝滘にある他の宗祠は全て移築もしくはスクラップされることになるというが、衛氏大宗祠だけは1993年に広州市によって文化財指定されたこともあり、この場所で保存されることが決まっている。

その保存に向けてか、現在は改修工事が行われているようで、足組が作られていた。
内部には観光客用の展示やパネルなどがあるらしいのだが、工事のためか中に入ることはできなかった。


正面の外壁には、アヘン戦争時にイギリス軍によって砲撃された跡というのが残っている。
一部色が変わっているところがそうらしい。


言い伝えによれば、衛氏大宗祠があまりに立派だったため、イギリス軍がここを両広総督府と勘違いして砲撃したのだと言う。
しかし、両広総督府からはだいぶ離れているし、周囲の風景が違いすぎるので、やや信じがたくはある。
それだけ立派な建物だと言いたいのだろう。

この砲撃跡について説明が書かれた石碑が、改修工事にともなってか、半壊していた。
説明文は繁体字で書かれている。
広州人は繁体字が好きでよく使うが、政府は繁体字を使用しないので、これは地元の人が立てた碑だったのだろう。
政府が改修するのに伴い、簡体字のものにでも作り直されるのかもしれない。



瀝滘のメインストリートである瀝滘東街を北へ進んでいく。
道の東側は用水路で、西側に小さな商店などが並ぶ。
いずれも古い建物ばかりで、繁体字の「税務所瀝滘駐征組」という字が残っている建物などもある。
時の流れが止まっているかのような風景だ。


進むに連れて道幅も広くなり、路面もアスファルトで舗装されてきたあたりに、石崖衛公祠という建物がある。
これも衛氏の宗祠のひとつであろう。


どうやら現在は瀝滘の都市開発計画について展示する会場になっているようで、開館時間などが書かれているが、今はちょうど昼休みで中に入ることができなかった。
おもてに開発後のイメージのポスターが貼ってあった。
今後、瀝滘はこんな面白味のない場所なってしまうのだろうか。実に嘆かわしい。



志宇衛公祠と書かれた建物を見つけた。
これも宗祠だが、今は書画培訓中心という看板が掲げてあって、子供たちのための習字と水墨画の教室になっている。
こういう場所で学ぶと、気分が出てよさそうだ。

更に先へ進むと、衛国尭紀念小学が見えてきた。
村の英雄、衛国尭の名前を冠した小学校だ。


中国で個人名が学校に付けられることは非常に珍しいが、この人は共産党員として抗日戦争で戦い、戦死した革命烈士なのでこういう扱いを受けている。

衛国尭は1913年に瀝滘村衛氏の家に生まれた。
広州で学んだ後、21才になった1934年から日本に留学している。
留学先は東京帝国大学という説もあるが、「日本東京法政大学」と書かれている文献も多い。
法政大学のことかと思われるが、専攻は「政治経済学」となっていて、そういう学部は当時の法政大学にも東京帝大にもないから、よくわからない。
公的な資料と言ってもいいであろう「番禺党史網」の記事によれば、彼は日本東京法政大学に通いながら、明治維新以降の日本の歴史やマルクス,レーニン主義の本を読みあさり、また大学の学長である岡山万之助が翻訳した『史的唯物論』を中国語に翻訳し、翻訳本を康敏夫というペンネームで上海神州国光社から出版したという。
また、同時期に彼は郭沫若の講座を聞きに行ったり、中国共産党東京支部による文化座談会に参加し、革命活動を始めたとのことである。

大学の学長の名が分かればどの大学に通ったかがはっきりすると思い、調べてみたのだが、岡山万之助という名前はネットで調べても出てこなかった。
ただ、山岡萬之助という人はいて、1934年当時日本大学の総長を務めている。
となると、「日本東京法政大学」は日本大学の間違いだったのかとも思ったが、山岡萬之助は検事出身で刑法が専門であり、『史的唯物論』を翻訳したという記録は無い。
中共広州市宣伝部が運営している「中国広州網」の衛国尭のページでは、衛国尭は“岡山万之助”から直接指導を受け、この本を翻訳するために連日努力し、そのため肺病にかかり、血を何度も吐きながらも休むことをせず、1937年に帰国して上海の出版社に原稿を送った書かれている。
山岡萬之助は当時日大の総長であっただけでなく、東京弁護士会会長、関東庁長官、日満法曹協会会長なども兼任しており、とても一留学生に直接指導をするほど時間があったとも思えず、まして満州を統治する関東庁の長官が、マルクスの本を中国語に訳させていたとも考えにくい。

中国社会科学院歴史研究所が1982年に作った資料を見てみると、確かに上海神州国光社から康敏夫という人が訳した『史的唯物論』なる本が出版されている。
だが、出版年は1949年となっており、原稿を提出したのが1937年であるという説明や、衛国尭の没年が1944年であることと照らすと、やや不自然に思われる。

こうなると、彼の日本での経歴は非常に怪しいと言わざるをえない。
中国共産党からすれば、彼の抗日の事実こそが重要で、それ以前の細かいことはどうでもよく、いちいち揚げ足を取るなということになるのだろうが、ここまで不正確だと「血を何度も吐きながらも休まず頑張った」といった描写は何を根拠にしているのか甚だ疑問だ。

さて、衛国尭は帰国すると国民党の募集に応じて軍に入り、将校になる一方で、地下で中国共産党にも入党して活動をはじめた。
1942年からは地元の瀝滘に戻り、同郷の仲間たちと“十老虎”と呼ばれる抗日ゲリラを組織した。
伝説では、あるとき吉田なる日本人小隊長が村に偵察にやって来て、日本通の衛国尭がいることを知って彼を訪ねた。
吉田は衛国尭と話すうちに、衛国尭が東京帝国大学(話によってはこれが東京法政大学となる)の先輩にあたることを知り、すっかり心を許してしまい、衛国尭は吉田を利用することで戦況を有利に進めることができたという。
こういう話を聞くと、もしかすると衛国尭は根っからの大嘘つきで、日本での経歴も彼が偽装していたのものではないかという気がしないでもない。

彼は1942年に瀝滘に小学校を作り、自ら校長になった。
公的な身分を持つことで、ゲリラ活動は非常に有利になったと中国広州網などには書かれている。
隠れ蓑として作ったのかもしれないが、この小学校は彼が亡くなった後も続き、これが現在の衛国尭紀念小学となっている。

彼は1944年に番禺人民抗日義勇大隊の大隊長になり、市橋にいる日本軍を攻撃すべく部隊を率いていたとき、日本軍に見つかって囲まれた。
番禺党史網によれば、「革命の力を温存させるため、彼は自らが突破口を作って部隊を脱出させようと、病気で高熱を出しているにもかかわらず指揮を取り、その戦闘の最中に被弾し、犠牲になった」という。享年31才。
こうして彼は英雄となり、今では小学校の中に記念館があり、銅像や記念碑もあるというが、そこに書かれているエピソードが、こんな客観性に欠くものばかりというのは、少々悲しい気がする。

小学校を更に北へ進むと、高架の高速道路が通っていて、その下が市場になっている。
ここでは食品や衣料品、家電製品など何でも売っている。
なぜかミラーボールなんかも売っていて、そのチープな感じがとてもいい。




ガードを越えると大通りにぶつかり、そこに瀝滘村の門がある。
広州の村には、どこもこうした門が立っているが、ひときわ立派である。


門のあたりは道が開けていて、大きなスーパーもあるし、ファーストフード店もある。
ちょうど門の後ろに見える赤い建物がファーストフード店で、その名を「麦肯基(MCK)」という。
マクドナルド(麦当労)とKFC(肯徳基)から付けているネーミングがまたチープで、村の雰囲気にマッチしている。
開発が進めば、この門も壊されてしまうのだろう。
その前に、もう一度くらいこの村を訪れてみたいものである。