鞦韆院落

北京で過ごすインディペンデント映画な日常

瀝滘村 その2

2014-05-31 08:00:11 | 広州散歩


桟橋からすこし北に歩くと、やや開けたところに大きな門が見える。
これが衛氏大宗祠である。
1615年に完成したという歴史ある建物で、瀝滘に残る多くの宗祠の中で飛び抜けて大きい。
衛氏は明朝の皇帝と遠い血縁関係があったとかで、建物には皇帝の一族でなければ使えない「燕子斗拱」と呼ばれる梁の斗組みの意匠が施されている。
瀝滘にある他の宗祠は全て移築もしくはスクラップされることになるというが、衛氏大宗祠だけは1993年に広州市によって文化財指定されたこともあり、この場所で保存されることが決まっている。

その保存に向けてか、現在は改修工事が行われているようで、足組が作られていた。
内部には観光客用の展示やパネルなどがあるらしいのだが、工事のためか中に入ることはできなかった。


正面の外壁には、アヘン戦争時にイギリス軍によって砲撃された跡というのが残っている。
一部色が変わっているところがそうらしい。


言い伝えによれば、衛氏大宗祠があまりに立派だったため、イギリス軍がここを両広総督府と勘違いして砲撃したのだと言う。
しかし、両広総督府からはだいぶ離れているし、周囲の風景が違いすぎるので、やや信じがたくはある。
それだけ立派な建物だと言いたいのだろう。

この砲撃跡について説明が書かれた石碑が、改修工事にともなってか、半壊していた。
説明文は繁体字で書かれている。
広州人は繁体字が好きでよく使うが、政府は繁体字を使用しないので、これは地元の人が立てた碑だったのだろう。
政府が改修するのに伴い、簡体字のものにでも作り直されるのかもしれない。



瀝滘のメインストリートである瀝滘東街を北へ進んでいく。
道の東側は用水路で、西側に小さな商店などが並ぶ。
いずれも古い建物ばかりで、繁体字の「税務所瀝滘駐征組」という字が残っている建物などもある。
時の流れが止まっているかのような風景だ。


進むに連れて道幅も広くなり、路面もアスファルトで舗装されてきたあたりに、石崖衛公祠という建物がある。
これも衛氏の宗祠のひとつであろう。


どうやら現在は瀝滘の都市開発計画について展示する会場になっているようで、開館時間などが書かれているが、今はちょうど昼休みで中に入ることができなかった。
おもてに開発後のイメージのポスターが貼ってあった。
今後、瀝滘はこんな面白味のない場所なってしまうのだろうか。実に嘆かわしい。



志宇衛公祠と書かれた建物を見つけた。
これも宗祠だが、今は書画培訓中心という看板が掲げてあって、子供たちのための習字と水墨画の教室になっている。
こういう場所で学ぶと、気分が出てよさそうだ。

更に先へ進むと、衛国尭紀念小学が見えてきた。
村の英雄、衛国尭の名前を冠した小学校だ。


中国で個人名が学校に付けられることは非常に珍しいが、この人は共産党員として抗日戦争で戦い、戦死した革命烈士なのでこういう扱いを受けている。

衛国尭は1913年に瀝滘村衛氏の家に生まれた。
広州で学んだ後、21才になった1934年から日本に留学している。
留学先は東京帝国大学という説もあるが、「日本東京法政大学」と書かれている文献も多い。
法政大学のことかと思われるが、専攻は「政治経済学」となっていて、そういう学部は当時の法政大学にも東京帝大にもないから、よくわからない。
公的な資料と言ってもいいであろう「番禺党史網」の記事によれば、彼は日本東京法政大学に通いながら、明治維新以降の日本の歴史やマルクス,レーニン主義の本を読みあさり、また大学の学長である岡山万之助が翻訳した『史的唯物論』を中国語に翻訳し、翻訳本を康敏夫というペンネームで上海神州国光社から出版したという。
また、同時期に彼は郭沫若の講座を聞きに行ったり、中国共産党東京支部による文化座談会に参加し、革命活動を始めたとのことである。

大学の学長の名が分かればどの大学に通ったかがはっきりすると思い、調べてみたのだが、岡山万之助という名前はネットで調べても出てこなかった。
ただ、山岡萬之助という人はいて、1934年当時日本大学の総長を務めている。
となると、「日本東京法政大学」は日本大学の間違いだったのかとも思ったが、山岡萬之助は検事出身で刑法が専門であり、『史的唯物論』を翻訳したという記録は無い。
中共広州市宣伝部が運営している「中国広州網」の衛国尭のページでは、衛国尭は“岡山万之助”から直接指導を受け、この本を翻訳するために連日努力し、そのため肺病にかかり、血を何度も吐きながらも休むことをせず、1937年に帰国して上海の出版社に原稿を送った書かれている。
山岡萬之助は当時日大の総長であっただけでなく、東京弁護士会会長、関東庁長官、日満法曹協会会長なども兼任しており、とても一留学生に直接指導をするほど時間があったとも思えず、まして満州を統治する関東庁の長官が、マルクスの本を中国語に訳させていたとも考えにくい。

中国社会科学院歴史研究所が1982年に作った資料を見てみると、確かに上海神州国光社から康敏夫という人が訳した『史的唯物論』なる本が出版されている。
だが、出版年は1949年となっており、原稿を提出したのが1937年であるという説明や、衛国尭の没年が1944年であることと照らすと、やや不自然に思われる。

こうなると、彼の日本での経歴は非常に怪しいと言わざるをえない。
中国共産党からすれば、彼の抗日の事実こそが重要で、それ以前の細かいことはどうでもよく、いちいち揚げ足を取るなということになるのだろうが、ここまで不正確だと「血を何度も吐きながらも休まず頑張った」といった描写は何を根拠にしているのか甚だ疑問だ。

さて、衛国尭は帰国すると国民党の募集に応じて軍に入り、将校になる一方で、地下で中国共産党にも入党して活動をはじめた。
1942年からは地元の瀝滘に戻り、同郷の仲間たちと“十老虎”と呼ばれる抗日ゲリラを組織した。
伝説では、あるとき吉田なる日本人小隊長が村に偵察にやって来て、日本通の衛国尭がいることを知って彼を訪ねた。
吉田は衛国尭と話すうちに、衛国尭が東京帝国大学(話によってはこれが東京法政大学となる)の先輩にあたることを知り、すっかり心を許してしまい、衛国尭は吉田を利用することで戦況を有利に進めることができたという。
こういう話を聞くと、もしかすると衛国尭は根っからの大嘘つきで、日本での経歴も彼が偽装していたのものではないかという気がしないでもない。

彼は1942年に瀝滘に小学校を作り、自ら校長になった。
公的な身分を持つことで、ゲリラ活動は非常に有利になったと中国広州網などには書かれている。
隠れ蓑として作ったのかもしれないが、この小学校は彼が亡くなった後も続き、これが現在の衛国尭紀念小学となっている。

彼は1944年に番禺人民抗日義勇大隊の大隊長になり、市橋にいる日本軍を攻撃すべく部隊を率いていたとき、日本軍に見つかって囲まれた。
番禺党史網によれば、「革命の力を温存させるため、彼は自らが突破口を作って部隊を脱出させようと、病気で高熱を出しているにもかかわらず指揮を取り、その戦闘の最中に被弾し、犠牲になった」という。享年31才。
こうして彼は英雄となり、今では小学校の中に記念館があり、銅像や記念碑もあるというが、そこに書かれているエピソードが、こんな客観性に欠くものばかりというのは、少々悲しい気がする。

小学校を更に北へ進むと、高架の高速道路が通っていて、その下が市場になっている。
ここでは食品や衣料品、家電製品など何でも売っている。
なぜかミラーボールなんかも売っていて、そのチープな感じがとてもいい。




ガードを越えると大通りにぶつかり、そこに瀝滘村の門がある。
広州の村には、どこもこうした門が立っているが、ひときわ立派である。


門のあたりは道が開けていて、大きなスーパーもあるし、ファーストフード店もある。
ちょうど門の後ろに見える赤い建物がファーストフード店で、その名を「麦肯基(MCK)」という。
マクドナルド(麦当労)とKFC(肯徳基)から付けているネーミングがまたチープで、村の雰囲気にマッチしている。
開発が進めば、この門も壊されてしまうのだろう。
その前に、もう一度くらいこの村を訪れてみたいものである。

瀝滘村 その1

2014-05-30 08:57:56 | 広州散歩
梅雨にうんざりしつつも、毎日閉じこもっているわけにもいかないので、どこか近場で散歩に良さそうなところは無いか探していると、瀝滘村のことを書いている文献を見つけた。
瀝滘(Lijiao)はちょっと読みにくい字だが、「瀝」はしずくがポタポタ落ちる様を表す字。
「滘」は主に広東あたりで使われる字なのだが、水の流れる場所を意味し、「漖」とも書く。「滘」や「漖」は川の多い珠江デルタでは地名の中でよく使われている。
天河から番禺へ走る地下鉄3号線には瀝滘駅があって、いつも通過している私にとっては馴染みのある地名だったが、どういう場所かはまったく知らなかった。

かつての広州城の南東、珠江のほとりにある瀝滘村は、対岸の番禺へ渡る交通の要所であり、珠江にある大きな港のひとつだったりもしたので、集散地として賑わっていたらしい。
必然的に商業も発展していて、村には多くの豪商がおり、特に衛氏は「挙人」や更にエリートの「進士」を歴代の王朝で何人も輩出するなど、名門としてよく知られていた。
村内にはこの衛氏の大宗祠をはじめ、多くの宗祠(祖先を祀る廟)があって、その数は多い時で30を越えていたという。
村とは言っても、ただの漁村とは違うのだ。

広州は改革開放後すぐに都市開発が着手された地域だが、開発は農地など人家の少ない場所から行われ、立ち退きが必要となる人口密集地は後回しにされた。
そのため、高層ビルが立ち並ぶ一角に、昔ながらの集落が残された「城中村(都市の中の村)」があちこちに生まれた。
最近ではそうした城中村にも開発の手がつけられ、だんだん少なくなってきた。

瀝滘村は広州市内に現存する「城中村」としては最大級であり、面積は151万平米ある。
逆に言えば、ここを開発すればかなりまとまった土地が手に入るため、大規模なプロジェクトが可能になる。
そこで、広州市は瀝滘村の開発計画を打ち出した。
いま伝えられているところでは、地下鉄瀝滘駅は今ある3号線の他に、新たに5本の地下鉄が交わるターミナル駅になり、川岸には新しい港を作って香港などともつなぐ市内最大級の水上バスの拠点とし、また長距離バスターミナルも作られる。
もちろん、それを取り巻くように居住区や商業施設なども設ける予定で、総工費は23.8億ドルだという。
すでに村の外側では大掛かりな工事が進められている。
ただ、村には人口も多いため、立ち退きは進んでいないらしい。

城中村というのは、下町というよりもっと垢抜けない“村“らしいところがあり、それが味になっていて面白い。
2000年代初頭までは広州や深センに城中村がたくさんあって、中にはスラム化して治安が悪くなっているところもあった。
整然とした北京の胡同とは違って、道は入り組んでおり、汚かったり何か出てきそうな怖さもあり、カオスな雰囲気がたまらなかった。
今自分が住んでいる場所から近い瀝滘に、まだそんな城中村が残っていて、しかも間もなく無くなってしまうと知り、これは一日も早く行かなければと、雨の中を出かけていった。

地下鉄で最寄りの駅から3駅乗ると、もう瀝滘駅である。
駅の出口はEとFしかない。これからA~Dが作られるということだろう。
エスカレーターを登って外にでると、なんだか変な光景だった。
普通は道路に出るはずなのに、出口の周りが壁で囲まれているのだ。
そこには電動三輪タクシーが並んでいて、盛んに客引きをしている。


普通の車が通れるような幅の道はなく、地元の人と思しき人たちが次々とこの三輪タクシーに乗って路地の中に消えていく。
私は事前に地図を確認していたのだが、いきなり地図にもない細い路地だらけの場所に出てきてしまい、しかも入り組んでいて方向もわからず、道路はガタガタで水たまりだらけとあって、途方に暮れてしまった。

とにかく南に向かっていけば珠江にぶつかるはずで、そこにはかつての桟橋があるはずだ。
路地をひとつ選んで、あてもなく進んでいくことにした。


まだ午前中だが、朝食も食べてなかったし、店があったら何か食べておこうかと思っていたら、さっそく小さな店を見つけた。
武漢熱干麺と書いてある。
あとで分かるのだが、瀝滘村には湖北料理の店がとても多い。
湖北から来た人が多いのだろう。
壁に掛けられたメニューを見ると、熱干麺が4元と書いてある。焼きビーフンでさえ5元である。
うちの団地にある焼きビーフン屋は16元もするというのに。
べらぼうな値段に吹き出しそうになっていると、女将さんと目が合って、向こうも笑っているので、店に入ることにした。


奥に長い、4人がけテーブル3つほどの小さな店だ。
すでにカップルが1組いたが、私と入れ違うように出て行った。
私は熱干麺だけ注文した。
味はなるほど値段並みであった。
外は雨で暗く、店内には花弁の形をした蛍光灯がぽつりと点いていた。


店を出て先に進むと、路地はますますレトロな雰囲気になってきた。
今は中国の都市で見かけない小さな裁縫店が当たり前のようにいくつもあるし、家内制手工業の繊維工場なんかもある。
広州だからドアも壁もなくて、工場が路地から丸見えなのだが、工員の風貌までもが現代人ぽくない。


家賃がかかっていたら不可能な商売だから、たぶんこの人たちは持ち家で、昔ながらの家業を続けているのだろう。
飲食店が安いのも同じ理由だろう。
いや、もしかしたら家賃も安いのかもしれない。
さっきの熱干麺の店は、飲食店にも関わらず水道がなかった。
この村には上下水道などのインフラも整っていないのだ。


こうした不便さが、昔ながらの生活を維持させているとも言える。
それにしても、この村には車が入れる道がほとんど無い。


昔は生活の要であったであろう水路も、今ではただの濁ったドブだ。
だがそこにも水上生活者はいて、船上のバナナ屋さんなどもいる。
なるほど、こんな生活に水道なんてあるはずもない。


かつて広州には「疍民(たんみん)」と呼ばれる水上生活者が多くいた。
1932年の統計では、広州市には疍民が10万人ほどいたとされ、当時の広州の人口の1割ほどが疍民だったことになる。
その後、政策で陸地に定住させられたこともあって、現在は黄埔にいる程度である。

水路を南下していくと、かつての桟橋に出る。
今は「碼頭公園」になっている。
ちなみに、最寄りのバス停は「瀝滘大埗頭総站」という。「埗(bu)」とはこの辺りの言葉で桟橋のことである。


ここには地元の人が樹齢500年とも言うガジュマルの巨木がある。
その横に立っているのが、「広州市界」と書かれた石碑である。


これは1930年に行政区画が変更され、南海県と番禺県の一部が広州市に編入された際、新しい境界線を示すために各地に立てられたもののひとつで、側面には「中華民国十九年立」と書いてある。
石碑は全部で46個立てられたのだが、そのうち現存するものは博物館にあるものを含めて9個しかなく、中でも瀝滘のものが最も完全な姿を留めている。
実は1930年以降も広州市は次々と拡大を続けたため、立てられた多くの石碑はすぐに意味を持たなくなったわけで、失くなったものが少なくないのも当然といえば当然であった。
一方、この石碑の川向うの番禺は、ずっと番禺県もしくは番禺市として広州市に含まれず、広州市に含まれたのは2000年とごく最近のことだった。
つまり、この石碑だけは最近まで現役で、それゆえに残っていたということだろう。


招待状

2014-05-20 00:37:09 | 其他
趙大勇と食事をしながら「最近どう?」などと話していたところ、彼が“◯◯◯◯◯青年電影展”というのを知っているかと聞いてきました。
これはかつて私を事務所に呼んで変な面接をさせた例の会社がやっている映画祭です。
「知ってるけど、何?」と言うと、先日この映画祭から微信が届いたのだといいます。
微信(WeChat)とは、スマホにインストールして使うLINEみたいなコミュニケーション用のアプリです。
映画祭のスタッフを名乗る人からメッセージが届き、何かと思ったら「あなたの『鬼日子』がコンペ部門に入選しました。ついては……」という招待状の画像が貼り付けてあったといいます。
招待状を微信の添付画像で送ってくる時点で不信感を覚えますが、もっと驚くのは、そもそも彼は応募していないので、どこで作品を観たのか尋ねてみたところ、「作品はまだ観てません」という答えが返ってきたそうなのです。

観たこともない映画をコンペに入選させるなんて、一体どんな映画祭なんだと彼が聞くので、去年の一件を話してあげました。
なるほどそんな映画祭だったのかと彼は納得し、参加をためらっていました。
そこで私が、「それに、あの人たちは自分たちの映画祭で受賞した作品をまとめてDVD-BOXにして、方々に配っているんだよ」と言うと、彼はそんな映画祭に自分の作品を送れるものかと怒っていました。
私もこの人たちからBOXを受け取った一人でして、もらった時はまさか本編が全部入っているとは思わず、予告編か何かだと思ってたのでビックリしたのです。
海外作品や、その後中国で劇場公開された作品もいくつかあったため、きちんと権利をクリアするのは簡単ではないはずで、彼らのような人たちが真面目に取り組んだとは到底考えにくいです。
映画祭の名前を入れたラベルをこしらえてコピーを作り、全受賞作の作品集を仕立てて名刺代わりに配るなんて、政府の金で運営されていているから何でもありなのか、ただの無知なのか。
こんな映画祭が今年で第八回を迎えるというのだから、すごい話です。

映画祭の名前を伏せているのは、実は日本のある映画祭がここと提携していて、プログラムの交換なんかをしてるようなので、一応遠慮してのことです。
提携を続けるなら、いろいろアドバイスしてあげたらいいんじゃないかな、と老婆心ながら思ったりします。

擬態

2014-05-12 18:34:38 | 其他


梅雨のせいか、ベランダのバジルの成長が著しく遅いので、様子をみていたところ、プランターの縁に白いものを発見。
最初はどこかから花のようなものが飛んできたのかと思い、息を吹いて飛ばそうとしたら、モゾモゾと動き出しました。
何かの虫のようです。
たぶんクモだと思うのですが、詳しいことはわかりません。
花のように擬態しているところが熱帯っぽいです。

広州まで来ると、さすがに動植物は日本と全然違って、朝鳴いている鳥も聞いたことのない鳴き声を出します。
なんといっても北回帰線より南に位置するわけで、つまりトロピカルですから、街路樹がマンゴーだったり、一年中ヒーターを使わなくても熱帯魚が飼えたりするんです。
すごいところに来たもんだと思います。

この写真を撮るためにベランダに数分立っていたら、4ヶ所も蚊に刺されました。
広州にはマラリアもあるのだそうな。

梅雨

2014-05-11 20:50:04 | 其他
梅雨ですね。
中国では全国的に大雨が続いているようですが、広州はこの時期梅雨前線が発達していて、毎日すごい雨です。
フフホトから帰って2日くらいは晴れた日がありましたが、それから2週間くらい雨で、予報では今週もずっと雨。
こっちは梅雨の中休みというものが無いんです。
数時間止むことはあるけど、晴れることはなくて、とにかく毎日ザーザー降り。

日本の梅雨より気温が高いので、カビの繁殖もすごいし、蚊や小バエがわんさわんさと湧いてきます。
雷の音もすごいし、梅雨のスケールが違う感じ。
なにしろ梅雨前線が生まれるのがこの辺ですから、いわば梅雨の本場みたいなもんです。

洗濯物なんて、部屋に干して4日たってもまだ濡れています。
しかも、こっちの人は服をベランダに干しっぱなしにします。
何日も下げたままにしているのですが、外は雨ですから、屋根があるとはいっても服が濡れてしまうわけですけど、そんなのお構いなし。
どうせ乾かないんだから濡れても同じと言わんばかりで、開き直っています。

今住んでいる物件は、台所と2つの部屋のドアがどれも閉まらないのですが、それは湿気で枠が歪んでしまったからで、広州ではよくあることらしいです。
北陸の冬とかも辛いものはありますが、湿気について言えばここはそれ以上です。
6月になれば太陽が出てくるらしいので、もうしばらくの辛抱でしょうか。

どこか雨の降っていないところへ移動したいものです。

拘留

2014-05-09 03:19:44 | 其他
日本でもニュースになっているのでご存じの方も多いかと思いますが、いま北京で弁護士や学者が何人か当局に拘留されています。
理由は、自宅で天安門事件に関しての私的な研究会を行ったためで、これが「故意に騒ぎを引き起こした罪」にあたると当局は主張しているそうです。

日本では、逮捕された人として浦志強の名を挙げている記事が多いですね。
彼は有名な人権派弁護士で、例えば艾未未が逮捕された時にも弁護をしていたので『艾未未的上訴』の中にも出ていて、映画の中で正義感に満ちたその人柄を見ることができます。
他にも拘束されたのは何人かいて、その中には北京電影学院の教授である郝建もいます。
この写真で後列左奥に立っている男性です。
その隣にいる女性は崔衛平ですね。同じく北京電影学院の教授で、彼女も拘束されたそうですが、現在は帰宅しています。

郝建は私も知り合いで、天津で日中の映画上映会をしたときにゲストとして来てくれたし、最近では顧桃の結婚のときに宋荘で会いました。
ハリウッド映画が専門らしいのだけど、インディペンデント系の映画祭には必ず足を運ぶ人で、飾らない人柄なので、我々の仲間にも彼を慕う人がたくさんいます。

彼らが拘束された翌日から「連絡が取れなくなった」という情報が微博などに出始めたのですが、詳しいことを書くとすぐに削除されてしまうため、「無事でありますように」といったさわりのない表現による書き込みが中心です。
賈樟柯など多くの映画人が、ここ数日で彼の名前を挙げた書き込みをしています。
皆それなりに情報を共有しているため、知っている人は経緯を含めて状況を理解していると思います。
でも国内では報道が一切ないし、そもそも関心のない人が多いので、一般には知られていないかもしれません。

映画人にとっては、身内が掴まったという衝撃もありますが、やはりこの状況に危機を感じていると思います。
人権活動家などへの締め付けは近年ますます厳しくなっていて、現政権の焦りを表しているかのよう。
領土問題などもそうですが、現政権は非常に危険な舵取りをしているように見えます。

ところで、中国では逮捕されても家族などに警察から連絡がなかったりするので、家族はどこでどうしているのかも分からなかったりします。
それでも家族がいればまだ周囲に働きかけたりするわけですが、私のように独りで暮らしていると、そもそも失踪していることに誰にも気づいてもらえなさそうです。
この頃ブログが更新されないなあと思ったら危険信号かもしれません。

老院子

2014-05-07 02:44:56 | 其他
『黒四角』が17日から都内で公開されるそうです。
2012年の東京国際映画祭で『黒い四角』というタイトルで上映された作品です。

私はこの作品に撮影の時ちょっとだけ絡んでまして、エンドロールには名前もあったりします。
べつに大したことはしてないんです。ただ、宋荘で撮影するにあたって、栗憲庭電影基金の人たちに口利きをして、便宜を計ってもらったりしたくらいで。

そのとき監督が宋荘で撮影に使えそうな家を探していたので、一緒にいくつか見て回ったんですが、なかなかいい物件がありませんでした。
芸術家が住んでそうな、ちょっと古い感じの一軒家が良いということだったので、顧桃の家も紹介しました。
結局は、顧桃の隣の家を監督が気に入って、そこで撮影することになりました。
その家は丁度レストランに改修するところだったので、しばらく貸してもらうのにも都合が良かったようです。
私も撮影の時に覗きにいったりしましたが、家の中の道具はぜんぶ持ち込んで作ったもので、生活感が出ていました。
映画では、中国人の芸術家と日本人の奥さんが住んでいる家という設定で登場しています。

撮影が終わって、その家は数カ月後にはレストランになりました。
「老院子」という名前で、蒸し餃子が名物の、東北料理の店です。
顧桃と同じく内モンゴル出身の“二哥”と“二嫂”の夫婦が経営していて、店は主に奥さんの“二嫂”が見ています。
本名は知りません。もらった名刺に“二嫂”と書いてあったのです[“二嫂”とは“二哥(2番めの兄さん)”の奥さんという意味]。
旦那さんの“二哥”はというと、はじめのうちこそ店で客の相手をしていたけど、そのうち飽きて、最近は店にも寄り付かなくなりました。
たいてい顧桃の家にフラっと入ってきては、ソファーで横になっていたりします。
車があるので、よく私のことを空港まで迎えに来てくれたり、プールに連れて行ってくれたりします。

中国では、奥さんが働いて、旦那はふらふらしているという夫婦がとても多いです。
二哥に聞けば、二嫂を最初に見た時に「こいつは良く働きそうだ」と思ったのだとか。
かなり計画的でもあるようです。
店は、オープン当初は夫婦とコック1人くらいでやっていたのに、今では従業員を7人も抱えています。
奥さんは本当にやり手のようです。

昨年の中国インディペンデント映画祭の時には、内モンゴルの音楽が入ったCDを100枚くらい現物支給で寄付してくれて、プレゼントにでも使えというので、サポーター特典にさせてもらったりしました。
東北人らしく、とても気前がよい人です。
顧桃の家でパーティーをするときも、いつも料理を提供してくれたりします。

そんな“二哥”に先日、『黒四角』が日本で公開されるようだと伝えたら、「じゃあポスターもらって来てよ。店に貼るから」と言われました。
うーん、こっちは広州にいるから、もらって来いと言われても困るんだけど……。
確かにポスターでもあれば、映画を見た人にはピンと来るかもしれません。
皆さんも、もし『黒四角』を見て宋荘に行きたくなったら、「老院子」で食事をしてみるといいかもしれませんよ。

来客

2014-05-05 00:10:52 | 其他
労働者のみなさん、お待たせいたしました。
フーテンのブログでございます。

来ましたよ、大学生。
予想に反して、友達というのは女の子でした。
後輩だそうで、今日は午前中に一緒に東山の教会で礼拝をして、午後も二人で遊んでいたのだとか。
その後輩はきちんとした感じの普通の子でしたが、私が何者で自分がなぜこんな所に来ているのかはよく分かっていない様子でした。
私もなんで突然この二人が来たのかよく分からないんですけどね。

二人が着いたのは午後5時過ぎで、8時には大学で会議に出ないといけないと言います。
ここから大学までは2時間くらいかかるので、実質1時間くらいしか居られないわけです。
これから料理を作るというのに。
私は広州に来てから客に食事を出したことがなかったので、3人分の食器もなく、昼にわざわざ街まで買いに行ったり、食材もそれなりに考えて用意してはいたのだけど、そんなに時間がないんじゃ簡単な料理しか作れません。

部屋を物色していた二人は、棚の上にブー・ジュンフェン監督の『沙城』のDVDが置いてあるのを見つけ、パッケージの男がイケていると騒いでいます。
私が、監督もいい顔をしているよと、ウェブで画像を探して見せたのだけど、パッケージの男のほうが全然いいと譲りません。
広東ではこういう顔が流行るんでしょうかね。
監督は何歳だと聞くので、30歳くらいだと言うと、「なんだ、オッサンか」と言ってました。

彼女は以前にメールで私に、同じ教会に通っているカッコイイ男子が好きなのだと伝えてきたことがあって、私はてっきり今日その男子を連れてくるのかと思っていたのです。
ところがその男子は就職して深センへ行き、今は恋人もできたらしい、と彼女は悔しそうに言います。
もともと付き合っていたわけでもないようなのですが、さぞ残念だったのでしょう。
なんだか、それが言いたくてわざわざ来たかの様子。

食事中も恋愛談義になって、私に「なんで結婚しないんだ」「上手くいかないのか」と聞きます。
横から後輩が「聞かなくてもわかるけどね」と言います。

私が、この前北京に行って1970年生まれの友人の結婚式に出てきたのだと言うと、「へえ。じゃあ、あなたにも可能性があるかもね」と言います。
嫁さんは1991年生まれらしいよと言うと、「なにそれ、私なら絶対無理!親も泣く」とのこと。
「6つ上くらいが理想。教会の人は2つ上だったけど、彼なら大丈夫」だそうです。

なんだかんだと話しているうちに7時を過ぎ、二人は帰っていきました。
会議はいいんでしょうかね。

寮に戻ったらしい彼女から、「今日はありがとう」とメールが来ました。
よかったらまたおいでと返事をすると、「遠いから無理。今月も来月も暇ないし」とのことでした。

まあ、可愛いからいいんですけどね。

五一

2014-05-03 20:17:31 | 其他
連休ですね。
中国はどこも人混みばかりなので、こういう時はどこへも出かけず、家で料理でも作るに限ります。
というわけで、パスタ用のトマトソースを作っていたのですが、突然火が消えてしまいました。
どうやらプロパンガスが切れてしまったもよう。

これまで上海や北京では都市ガスの家に住んでいたのですが、広州は都市ガスの普及がイマイチで、いまだにプロパンガスが多くを占めています。
中には、都市ガスが引いてあっても台所だけで、風呂場はプロパンガスなんていう所も。

日本も昔はプロパンガスが多かったわけですが、日本のプロパンガスって、背丈ほどの大きなボンベが家の外に置いてあったりしましたよね。
中国の場合、多くは高さ60㎝ほどのボンベを台所の流し台の下に置いて使います。
料理だけに使っていれば(風呂場は電気である場合が多いので)3ヶ月くらいはもちます。
ただ、切れるたびに電話でガス屋を呼び出して、代わりを持ってきてもらわないといけなくて、その時は必ず料理の途中でガスが出なくなってしまうわけで、翌日まで作れなかったりして、とても面倒です。



今回、広州に来て初めてガス屋を呼ぶことになったので、とりあえずボンベに書いてある業者に電話してみました。
すると、「あなたの家とは初めての取引になるので、契約を結んでください」と言います。
あんたの会社のボンベが置いてあるんだけどと言っても、「多分それは他の業者が使いまわしているやつです」とのこと。
初めての場合はボンベの年間レンタル料24元とデポジット200元がかかるといいます。
こっちは別にどの業者でもいいのだけど、以前にどの業者と取引していたかもわからないし、面倒なので結局そこにお願いすることにしました。
ここにあるボンベはどうなるんだと聞いたら、ボンベの使用期限は4年間で、それを過ぎたものは引き取らないとのこと。
ボンベを見たら、2003年製と書いてありました。
電話して数時間後には来てくれたのですが、なんだかんだで350元くらい払って、元々あったボンベは持っていってもらいました。

ようやく料理を再開した矢先、知り合いの女の子から微信が届きました。
明日パスタを作ってくれないか、とのこと。
この人は映画関係のサークルをやっている大学生で、以前一緒に仕事をしたことがあっただけでそれ以来会ってなかったのだけど、私がパスタの写真ばかり微博にアップしていたのを見ていて、興味をもったようです。
なかなか可愛い子だし、どうせ料理をするつもりだったので、願ってもないことです。
じゃあどんなパスタを作ろうかと尋ねたところ、「友達をひとり連れて行きたいんだけど」とのこと。
ああ、このセリフどっかで聞いたことある……・

もうすっかり中国寅さんが板についてきてしまいました。
果たして広州編はどういう物語になるのか、乞うご期待であります。