名寄は朝から雨が降っていた。
出発前から天気予報で知っていたことだが、実際に雨の光景を目にするとやはり気分が少々下がってしまう。しかし、今日はレンタカーに乗せてもらえる。道中はまず濡れないだろうし、雨ならではの楽しみ方もあるだろう、そう思って支度をした。
同室のお兄さんが名寄駅へレンタカーを取りに行かれている間に朝食を摂る。焼き立てのパンが温かいのはもちろん耳まで柔らかいことに驚き、思わずもう1枚頼んでしまった。
私は普段こそ朝食は少しで済ませるが、何故か旅先ではきちんと食べてしまう。きっと、北海道ならではの食材のおいしさもあるのだろう。宿泊の皆さんと会話をしながら楽しい朝食であった。
やがて車がユースホステルの前に到着した。本来ならば名寄駅まで一緒に行かなければならないところ、こちらが朝食付きの宿泊ということでお兄さんには先に車を取りに行っていただいた。何もかもありがたいことである。
「行ってきます」と皆さんに挨拶をして車に乗り込み、道路地図を手に一路北を目指す。私は完全に当初の予定外であるため、何も下調べはしていない。お兄さんの案内でただひたすら北を目指した。この時、北の空は微かに水色をしていた。
途中、お願いをして恩根内駅に近い宗谷本線の踏切に寄っていただいた。札幌行きの特急「スーパー宗谷2号」が通過するためである。
しかし列車のスピードが思った以上に早く、後追いも曖昧なものになってしまった。しかし、雨粒にピントがあったのか、これはこれで味があると思っている。
続いて豊清水駅にも寄っていただいた。
この駅には交換設備があるため、特急以外の普通列車が全て停車する。駅舎内にはイタチであろうか、剥製が丁寧に飾ってあった。窓口は駅員こそ居ないものの、カーテンが開けられて明るい雰囲気である。駅ノートの最後の書き込みには「このノートが埋まるまでには何年かかるだろう」といった旨のメッセージが書かれていた。
駅前は舗装もされておらず、まるで生活の気配が感じられなかった。廃屋が幾つかあるのみで、砂利道に刻まれた轍のみが辛うじて人の気を窺わせていた。一体この集落に何があったのだろう。もしかすると、駅前には何も無いだけで、駅から少し離れた場所に人々が住んでいることも考えられる。
その証拠に、待合室には通学バスの時刻が書いてあったことから、今でも定期的な利用者が居るのは確かである。駅前には何も無くとも、列車が停まり、バスも来るという駅としての役割を果たしているのは、この駅にとっても幸せなことなのかもしれない。今度は是非列車での訪問をしてみたいと思った。その時まで、あの剥製はあるだろうか。
再び国道に戻り、少し進むと道の向こうに二つの大きな看板が見えた。北緯45度線である。
道には黄色の線がペイントされており、この線の延長がアメリカやヨーロッパへ確かに繋がっていることを実感させてくれる。おそらく冬はとても寒くなるのだろう。
北緯45度への感動もそこそこに、更に北へと向かった。
車内ではお兄さんとずっと話していた。教員免許を持っておられるらしく、学生時代のお話と、今までの旅の思い出、その他いろいろなことを教えていただいた。また、自分も趣味のこと、大学のこと、京都のこと、かなり話をしたように思う。旅の途中では常に多くの物事を考える。これからのことを考えるにはぴったりの時間であった。
車はやがて幌延の街に入った。幌延は大きめの街であり、特急列車が停まる他、留萌方面へ向かう沿岸バスも発着している。たまたま幌延駅に着くバスを見たが、乗客はゼロであった。
街のはずれにはトナカイ牧場がある。北海道と言えば牧場の風景が思い浮かぶが、ここではトナカイが飼われているということで寄ることにした。車の外は雨が降っていて少々肌寒かった。
一部はこちらに向かってきてくれたが、彼ら彼女らの多くはこちらに見向きもせず、地面に顔を向けていた。何かあるのだろうか。トナカイたちによって踏み固められた地面に雨が降り泥となり、牧場の周囲一帯がモノトーンを醸し出していたのが印象的であった。
続いて隣接する幌延深地層研究センターに立ち寄る。ここは原子力研究開発のために地下500mでの研究がおこなわれている施設であり、それをPRするための「ゆめ地創館」には無料で入ることが出来る。
原野の真ん中に突如として幾つもの人工物が聳えるのは何とも異様な光景であったが、逆に言えば他に研究の出来る土地が無いのかもしれない。PR館では、地下深くがどのような様子か、放射性廃棄物の地層処分をどのようにおこなうかといった内容が展示されていた。原子力発電についての今後を考える議論が国中で交わされている中、ここまでその様子を見に来る人もなかなかいないだろう。とは言え、自分もユースホステルでお兄さんと知り合わなければ来ることもなかった。
それから地上50mの展望室に登った。
PR館の隣にあるこの施設群で、地下500mでの研究開発が進められている。
別の方向からは原野が見渡せる。晴れていれば利尻富士も見えるそうだが、北海道らしい真っ直ぐな道と、雨の中でも自由に群がる牛たちもまたいい風景であった。
すっかり満喫したところで、更に北を目指す。幌延から約1時間、次は宗谷丘陵で降りた。
ここは宗谷岬にもほど近い丘陵地帯で、雨が降っていたものの、自然の造りだした雄大な風景を目の当たりにすることが出来た。やはり牛たちは気ままに過ごしている。
宗谷丘陵を抜けると海が見えた。最北端まではあと少しだ。
ちょうどお昼ということもあり、近くにドライブインの食堂があったので昼食を摂ることにした。辺りは雨風が強く、車から食堂の軒下まで移動する僅かな距離を歩くのも大変だった。
本当ならばウニやイクラを使ったメニューにしたいところだが、予算と寒さのこともあり、宗谷黒牛のハンバーグ丼(950円)にした。大きくて厚みがありとても食べ応えがあった。また、みそ汁にはホタテの稚貝が入っていた。お客は私たち二人だけで、室内ではひたすら宗谷岬の歌が流れていた。
再び車に乗り込み、しばらく走る。
海に面した小さな広場が現れ、ネットで見覚えのある宗谷岬のモニュメントが姿を現した。ついに日本最北の地へやって来たのである。しかし、こんなところにも多くの家々が建ち並び、きちんと人々が生活していることに驚く。道外から来た我々にとっては「最北端」という極めて非日常的風景であっても、ここではその「最北端」が何でもない日常であり、人々のあいだに絶えることなく根付いているのだ。やはり来てみないと分からないことは多い。
相変わらず雨風が強かったが、何とかモニュメントの前まで辿り着き、この後写真を撮っていただいた。晴れていれば樺太まで見渡せるそうだ。紛れもない「国境の南」である。しかし、こういう場所ではこれくらい海が荒れていた方が風情があるとも思った。
こうして、図らずも日本最北の地に足跡を残した。
帰りは日本海沿いのオロロンラインを経由する。時間の都合で稚内の市街地を見ることは出来なかったが、稚内にも、宗谷岬にもいつかまた来るだろう。絶対的な確信は持てないが、何となくそう思った。
「僕はこれで最後かもしれないな」お兄さんは言った。
しばらく進むと日本海が近付いてきた。下るにつれ曇り空となり、写真も満足に撮ることが出来た。
道路と僅かな標識以外の人工物は何もない。その「何もない」に惹かれてしまう。「何もない」をどう捉えるかは人それぞれであるが、いつまでもその漠然とした良さが分かる人間で居たい。
また、オロロンラインには27基もの風車が建ち並ぶ。近くは小さな休憩所になっていて、ここでも車を停めて風車をじっくりと眺めた。前期の授業で風力発電を強く推していた先生のことを思い出した。風力は太陽光と違って夜も発電することが出来る上、羽の製作は熟練の技が要るために新たな雇用創出に繋がる。確かそんなことを言っていたような気がする。しかし残念なことに、この日はどの風車も羽が回っていなかった。
途中、音威子府からは来た道を戻って名寄駅に着いた。二泊目は素泊まりのため、お兄さんがレンタカーを返している間、コンビニで食料を買ってそれからユースホステルへと列車で戻った。
風呂から上がるとお兄さんが女性三人組と今日の話をしていた。椅子が空いていたので入れていただく。三人がどういう繋がりなのか、明日は何処へ向かうか、多くのことを聞かせていただいた。
その時、行きのフェリーで読んでいた沢木耕太郎の『旅する力』の一節を思い出した。そこには、旅は学校であり、旅先で出会う全ての人・ものが教師である、ということが書いてあった気がする。自分にも旅をする力がついたことを今まさに実感したところで、翌日へ向けてベッドに潜り込んだ。窓越しには大きな蛾が一匹張り付いてこちらを見ていた。
出発前から天気予報で知っていたことだが、実際に雨の光景を目にするとやはり気分が少々下がってしまう。しかし、今日はレンタカーに乗せてもらえる。道中はまず濡れないだろうし、雨ならではの楽しみ方もあるだろう、そう思って支度をした。
同室のお兄さんが名寄駅へレンタカーを取りに行かれている間に朝食を摂る。焼き立てのパンが温かいのはもちろん耳まで柔らかいことに驚き、思わずもう1枚頼んでしまった。
私は普段こそ朝食は少しで済ませるが、何故か旅先ではきちんと食べてしまう。きっと、北海道ならではの食材のおいしさもあるのだろう。宿泊の皆さんと会話をしながら楽しい朝食であった。
やがて車がユースホステルの前に到着した。本来ならば名寄駅まで一緒に行かなければならないところ、こちらが朝食付きの宿泊ということでお兄さんには先に車を取りに行っていただいた。何もかもありがたいことである。
「行ってきます」と皆さんに挨拶をして車に乗り込み、道路地図を手に一路北を目指す。私は完全に当初の予定外であるため、何も下調べはしていない。お兄さんの案内でただひたすら北を目指した。この時、北の空は微かに水色をしていた。
途中、お願いをして恩根内駅に近い宗谷本線の踏切に寄っていただいた。札幌行きの特急「スーパー宗谷2号」が通過するためである。
しかし列車のスピードが思った以上に早く、後追いも曖昧なものになってしまった。しかし、雨粒にピントがあったのか、これはこれで味があると思っている。
続いて豊清水駅にも寄っていただいた。
この駅には交換設備があるため、特急以外の普通列車が全て停車する。駅舎内にはイタチであろうか、剥製が丁寧に飾ってあった。窓口は駅員こそ居ないものの、カーテンが開けられて明るい雰囲気である。駅ノートの最後の書き込みには「このノートが埋まるまでには何年かかるだろう」といった旨のメッセージが書かれていた。
駅前は舗装もされておらず、まるで生活の気配が感じられなかった。廃屋が幾つかあるのみで、砂利道に刻まれた轍のみが辛うじて人の気を窺わせていた。一体この集落に何があったのだろう。もしかすると、駅前には何も無いだけで、駅から少し離れた場所に人々が住んでいることも考えられる。
その証拠に、待合室には通学バスの時刻が書いてあったことから、今でも定期的な利用者が居るのは確かである。駅前には何も無くとも、列車が停まり、バスも来るという駅としての役割を果たしているのは、この駅にとっても幸せなことなのかもしれない。今度は是非列車での訪問をしてみたいと思った。その時まで、あの剥製はあるだろうか。
再び国道に戻り、少し進むと道の向こうに二つの大きな看板が見えた。北緯45度線である。
道には黄色の線がペイントされており、この線の延長がアメリカやヨーロッパへ確かに繋がっていることを実感させてくれる。おそらく冬はとても寒くなるのだろう。
北緯45度への感動もそこそこに、更に北へと向かった。
車内ではお兄さんとずっと話していた。教員免許を持っておられるらしく、学生時代のお話と、今までの旅の思い出、その他いろいろなことを教えていただいた。また、自分も趣味のこと、大学のこと、京都のこと、かなり話をしたように思う。旅の途中では常に多くの物事を考える。これからのことを考えるにはぴったりの時間であった。
車はやがて幌延の街に入った。幌延は大きめの街であり、特急列車が停まる他、留萌方面へ向かう沿岸バスも発着している。たまたま幌延駅に着くバスを見たが、乗客はゼロであった。
街のはずれにはトナカイ牧場がある。北海道と言えば牧場の風景が思い浮かぶが、ここではトナカイが飼われているということで寄ることにした。車の外は雨が降っていて少々肌寒かった。
一部はこちらに向かってきてくれたが、彼ら彼女らの多くはこちらに見向きもせず、地面に顔を向けていた。何かあるのだろうか。トナカイたちによって踏み固められた地面に雨が降り泥となり、牧場の周囲一帯がモノトーンを醸し出していたのが印象的であった。
続いて隣接する幌延深地層研究センターに立ち寄る。ここは原子力研究開発のために地下500mでの研究がおこなわれている施設であり、それをPRするための「ゆめ地創館」には無料で入ることが出来る。
原野の真ん中に突如として幾つもの人工物が聳えるのは何とも異様な光景であったが、逆に言えば他に研究の出来る土地が無いのかもしれない。PR館では、地下深くがどのような様子か、放射性廃棄物の地層処分をどのようにおこなうかといった内容が展示されていた。原子力発電についての今後を考える議論が国中で交わされている中、ここまでその様子を見に来る人もなかなかいないだろう。とは言え、自分もユースホステルでお兄さんと知り合わなければ来ることもなかった。
それから地上50mの展望室に登った。
PR館の隣にあるこの施設群で、地下500mでの研究開発が進められている。
別の方向からは原野が見渡せる。晴れていれば利尻富士も見えるそうだが、北海道らしい真っ直ぐな道と、雨の中でも自由に群がる牛たちもまたいい風景であった。
すっかり満喫したところで、更に北を目指す。幌延から約1時間、次は宗谷丘陵で降りた。
ここは宗谷岬にもほど近い丘陵地帯で、雨が降っていたものの、自然の造りだした雄大な風景を目の当たりにすることが出来た。やはり牛たちは気ままに過ごしている。
宗谷丘陵を抜けると海が見えた。最北端まではあと少しだ。
ちょうどお昼ということもあり、近くにドライブインの食堂があったので昼食を摂ることにした。辺りは雨風が強く、車から食堂の軒下まで移動する僅かな距離を歩くのも大変だった。
本当ならばウニやイクラを使ったメニューにしたいところだが、予算と寒さのこともあり、宗谷黒牛のハンバーグ丼(950円)にした。大きくて厚みがありとても食べ応えがあった。また、みそ汁にはホタテの稚貝が入っていた。お客は私たち二人だけで、室内ではひたすら宗谷岬の歌が流れていた。
再び車に乗り込み、しばらく走る。
海に面した小さな広場が現れ、ネットで見覚えのある宗谷岬のモニュメントが姿を現した。ついに日本最北の地へやって来たのである。しかし、こんなところにも多くの家々が建ち並び、きちんと人々が生活していることに驚く。道外から来た我々にとっては「最北端」という極めて非日常的風景であっても、ここではその「最北端」が何でもない日常であり、人々のあいだに絶えることなく根付いているのだ。やはり来てみないと分からないことは多い。
相変わらず雨風が強かったが、何とかモニュメントの前まで辿り着き、この後写真を撮っていただいた。晴れていれば樺太まで見渡せるそうだ。紛れもない「国境の南」である。しかし、こういう場所ではこれくらい海が荒れていた方が風情があるとも思った。
こうして、図らずも日本最北の地に足跡を残した。
帰りは日本海沿いのオロロンラインを経由する。時間の都合で稚内の市街地を見ることは出来なかったが、稚内にも、宗谷岬にもいつかまた来るだろう。絶対的な確信は持てないが、何となくそう思った。
「僕はこれで最後かもしれないな」お兄さんは言った。
しばらく進むと日本海が近付いてきた。下るにつれ曇り空となり、写真も満足に撮ることが出来た。
道路と僅かな標識以外の人工物は何もない。その「何もない」に惹かれてしまう。「何もない」をどう捉えるかは人それぞれであるが、いつまでもその漠然とした良さが分かる人間で居たい。
また、オロロンラインには27基もの風車が建ち並ぶ。近くは小さな休憩所になっていて、ここでも車を停めて風車をじっくりと眺めた。前期の授業で風力発電を強く推していた先生のことを思い出した。風力は太陽光と違って夜も発電することが出来る上、羽の製作は熟練の技が要るために新たな雇用創出に繋がる。確かそんなことを言っていたような気がする。しかし残念なことに、この日はどの風車も羽が回っていなかった。
途中、音威子府からは来た道を戻って名寄駅に着いた。二泊目は素泊まりのため、お兄さんがレンタカーを返している間、コンビニで食料を買ってそれからユースホステルへと列車で戻った。
風呂から上がるとお兄さんが女性三人組と今日の話をしていた。椅子が空いていたので入れていただく。三人がどういう繋がりなのか、明日は何処へ向かうか、多くのことを聞かせていただいた。
その時、行きのフェリーで読んでいた沢木耕太郎の『旅する力』の一節を思い出した。そこには、旅は学校であり、旅先で出会う全ての人・ものが教師である、ということが書いてあった気がする。自分にも旅をする力がついたことを今まさに実感したところで、翌日へ向けてベッドに潜り込んだ。窓越しには大きな蛾が一匹張り付いてこちらを見ていた。
いつも楽しく旅行記を読ませていただいてますが、やはり文章がお上手ですね。読んでて引き込まれるような感じがあります。
4日目は天候面で苦労されたようですが、こうやって写真を拝見すると、どんよりとした空が余計に「最果て感」を引き立ててるような気がします。北海道の北部は独特の雰囲気というか、何か惹かれるものがありますね。私もいつか行きたいと思います。
この先も続きを楽しみにしています。
それでは。
ありがとうございます。元々ノベルチックに物事を書くのが好きなので、今回は思い切って紀行文でも書くつもりで旅行記を書いてしまいました。お褒めの言葉ありがとうございます。
思いがけず行くことになった道北ですが、宗谷岬以外はあまり激しい雨に降られることもなく、一通り楽しむことが出来ました。
最果ての旅情とでも言いますか、やはり旅をしている人間にとっては一度は訪れたい場所なのかもしれませんね。
これ以降も頑張ります。
どうぞよろしくお願いします。