こげの耳に★ねんぶつ★

たわいない日々の思うことと愛犬こげと花が咲いていたら花の写真など

すさみ町で

2013-02-11 05:30:00 | 和歌山県
今月初め、おばあちゃんの歯医者さん通いに付き添って(というより、運転手ですが)

隣町のすさみ町に行きました。それまでにも三度ほどその歯医者さんに乗せて行ったのです

が、おばあちゃんを下ろしてすさみ郵便局に私が歩いていき(歯科医院と目と鼻の先にある

郵便局)、歯科医院の駐車場に戻ろうとしてこんなものを発見。

 
           周参見代官所・奉行所々在地跡案内

恥ずかしながら、私は隣町のすさみのことは全く知りません。旧串本町が東牟婁郡(ひがし

むろぐん)に編入されるまえは、すさみ町とおなじ西牟婁郡(にしむろぐん)に属していて

中学校のクラブの郡大会は西牟婁郡内の中学校として参加していましたが、いまは東牟婁郡

となりました。高校生になってすさみ町内から串本高校や古座高校に入学する生徒も多く、

そこで「あぁこの人も同じ大会で見たことあるわ」と思うことも多かった。でもやはり、

なんとなく串本町内の人とは感じが違っていたようなたぶん すさみ町の人もそう思ってい

たでしょうね。その違いが、もしかしたらこんなところにあるのかもしれません。

すさみ町のこともよく知らないうえ、生まれて育った串本町についてもよく知りません。

こんな立派な、文字が日に焼けて消えかけたりしない表記物を串本町ではあまり見かけない

から、あるといえば文字がハゲて何を書いてるのか判らない木製の看板が多いからかもしれ

ません。その点すさみ町は 私のような町外者にもすさみ町の歴史を知らしめようと表示し

ているのでしょう。江戸時代には紀州藩の直轄地として お代官様がこの地に任命されて

きていたとあるし、中辺路(なかへじ)町から那智勝浦町の一部まで統括していたとありま

す。串本町も一部が統括されていたとあるのは和深辺りまでかなと思いました。当時は

国道などないからそう紀伊半島の先までは、簡単に行けなかっただろうし、昔から古座川町

はすさみ町に抜けて行くことが多かったと聞いたことがあります。串本に出るよりは田辺に

行き来していくことのほうが便利だったのかもしれません。串本にも代官所とかあったので

しょうか?もし なかったということなら南の果ては野蛮な村だったのかも・・・



書かれている小学校は歯科医院の横のようですが、いま工事中のため全貌はわからず、まし

て他所者の私には そこに行って聞く勇気はありません。ただこうして写真を写しておいて

つぎの通院日に探索をしようと思ったのでした。が、この日でおばあちゃんの通院は終了し

てしまい何がなんやらどうまとめていいか、わからず・・・。

書かれている言葉から歯医者さんのある敷地は昔、代官所の本館跡だったのでしょうか?

「青木」という木が植えられていたのか?その木はいまも残っているのか、気にはなります

が教育委員会がこの表記を設置したのも15年前のことですから、この工事中の校庭にある

のか・・・。というか、ここに学校があるのか、なにもわからずに記事にしてしまいまし

た。



 江戸時代、遠い昔です。このあと日本は徐々に変貌を遂げて世界の中の日本という国に

なっていきます。そのための 貴重な人材もあまりにも進歩しすぎる思考のために早々と

命をおとしていったわけですね。そうよ、『八重の桜』では もう私の小栗吉田松陰が

死んでしまったやないですか!!私が見たのはチャラい若かりし吉田寅之助時代と、獄中

で思い悩み、潔く死んでいくという姿しかありません。ただ 教科書でみた松陰の絵と

小栗の扮する松陰がヅラのせいかよく似ているやん!と思っただけです。死んでいかない

役柄を次回はお願いしたいものです。


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