Ed's Slow Life

人生終盤のゆっくり生活をあれやこれやを書き連ねていきます。

むかし卓袱台があったころ

2012年11月07日 | Weblog

            

先日図書館で借りる本を物色中、”むかし卓袱台があったころ”という副題(キャッ
チ・コピー?)に惹かれて、久世光彦さんの「家の匂い町の音」を借りてきた。

正直、久世さんというお名前に馴染みがあったわけではないのだけれど、どこか
で聞いたことがあるようなボンヤリした記憶はあった。略歴を読んでみて、なるほ
ど・・・と納得した。昔観た「時間ですよ」とか「寺内貫太郎一家」などTVドラマのプ
ロデューサーでもあったから、チラチラ拝見はしていたのだろう。

大体、卓袱台(ちゃぶだい)という言葉は、Edなどにはひどく懐かしい響きがあっ
て、即座に、貧しかった幼いころの情景が思い出されてくるのだ。^^!

久世さんはEdより5つ、6つ上だけれど東京だし、幼かったころの思い出や戦後
の日本にはまだ残っていた、旧い時代の日本人の生活を綴ったこのエッセーは、
とても身近に感じられ、ひどく共感を覚えた。

Edが5、6歳のころ国分寺の駅前通りにあった我が家は、終戦後他人の手に渡
ったらしく、そこを追い出され、少し引っ込んだ新興住宅地の焼け跡にバラック(
掘立小屋)を建てて住んた。親父は大勢の子供たちとこのボロ家だけ残して早々
と死んでしまったから、母親と上の兄たちは生きてゆくために辛酸をなめた。

住む家がそうなら、食べるものも着るものもロクなものはなく、Edは”お線香”と
綽名されるくらい痩せっぽちだった。周りもみんな似たりよったりの貧しい生活だ
ったし、幼かったせいもあって、今思うと可笑しくなるほどの貧乏だったけれど、
気にすることもなかった。^^!

お袋は自分で外に出て働くようなことはせず、上の兄たちの収入を頼りに細々
と生計を立て、家庭を守って子供たち全部を育て上げた。旅行一つせず、家に
いて子育てだけを自分の使命のようにして生きてきたのに、最後は病院で独り
寂しく亡くなってしまった。

そういう時代だった・・・と云ってしまえばそれまでだが、育ててもらった子供たち
は揃って親不孝である。

ところで卓袱台だが、我が家にも粗末だったけれど長方形の大きな奴があった。
実用一点張りで傷だらけだったが、食事時は皆でそれを囲んで座り、お袋がうど
ん(ほうとう)を作るときは作業台に変わり、椅子なんてない時代だったから、家
族が集まるのはいつも卓袱台が中心だった。

隙間風の吹きこむバラックで、家族9人が肩を寄せ合って暮らした10年ほどが、
Edにとっての原点だったような気がする。

               



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