母の肖像

Maman, tu ne me manques pas.

コドモの「感謝」

2017年07月17日 | 記憶 souvenirs
コドモは「正しく」感謝することができない。親切や好意を受けたり贈り物をもらったりしても、コドモは素直に喜ばない。その顔にはむしろ緊張が走る。

人に親切にされたり好意を受けることは「借り」ができることを意味するからだ。コドモにとって人と人との関係はいわば貸借対照表だ。借りは負い目である。負い目があると相手に頭が上がらなくなる。頭が上がらないという屈辱にはがまんがならないので、借りは一刻も早く返そうとする。

いつかダウンコートを贈ったことがある。品物は悪くなかったがノーブランド品だった。しばらく喜んでいたが、すぐに押入れから同じようなダウンコートを出してきて、あまり着てないし、これブランド品だしと言って「返して」くれた。そして「これでおあいこだからね」という意味のことを言った。その時はなぜそんなことをするのか言うのかわからなかったけど、そういうことだったのね。

逆の場合はもちろん貸しだ。これもきちんと返してもらいたいと思う。必要な時は感謝を要求する。しないと言って怒る。なじる。恩知らずとののしる。いつものことだ。

人と人との関係はお金の貸し借りではない。感謝の気持ちはその時だけのものでもない。治療薬でもある。親切や好意をうけたことへの記憶が相手との関係を救うことがある。相手の完璧でなさを帳消しにすることがある。そして相手との関係の破綻を回避する。

コドモはそれを知らない。借りは返した時点で完全に忘れる。そして完璧でなさを理由に相手を否定し、断罪し切り捨てる。