母の肖像

Maman, tu ne me manques pas.

Je m'occupais d'autre chose que de vivre

2020年01月17日 | 自分自身 et moi
Je m'occupais d'autre chose que de vivre.

そのことにこの年になるまで知らなかったなんて。
気がつかなかったなんて。
自分が悪いと思ってたなんて。

だまされてたわね、完全に。

結婚生活はすぐに破綻した。
なので子供を産むこともなかった。
ひとつの仕事で成功する/を長く続けることがなかった。
誰だってこのうちひとつくらいは手にしているのに。
わたしにはひとつもないのはどういうわけか、どれだけ考えてもわからなかったけど
今はわかる気がする。

自分が誰かわかってなかったから、なにごともうまくいかなかった。
自分が誰かわからなかったのは、自分のことを考えるひまがなかったから。
自分のことを考えるひまがなかったのは、わたしを完全に支配していたやつがいたから。

その支配者の意向にそうことを最優先にしてきた。
そうしなければならないと思ってた。
そうしなければ生きていけなかったし。

男にすぐなびき、すぐ自滅するのは自己評価が低いせいだ。
子供が嫌いなのは自分が子供だったからだ。
あるいは自分に幸せは子供時代がなかったから。
仕事が長続きしないのは、自分がしたいことがわからず、ほんとうにしたい仕事か
よく考えもしないで、見た目やしなければならないことで仕事を選んだからだ。

って、すべて母のせいにしている?

子供時代に楽しい思い出がひとつもないとき

2020年01月17日 | 自分自身 et moi
子供時代に楽しい思い出がひとつもないとき

ふみつけられ
脅され
しょっちゅうがみがみと叱られ
くどくどと小言を言われ
監視され
バカにされ
嘲笑され
批判され

立つ瀬はおろか
行く場所も
居る場所もなかったとき

いつもさびしかった
誰かにそばにいてほしかった
支えてほしかった
守ってほしかった
わかってほしかった

手を握っていてほしかった
抱きしめてほしかった
涙をふいてほしかった
心配しなくてもいいと言ってほしかった
心から安らげる場所がほしかった

今思うとあの頃のわたしが探していたのは
ほかでもない、親だったのではないか

そんな人も、そんな場所もこの世にはないと
大人になった今はわかるけどね
自分の孤独は自分で引き受けるしかないと

本当にそう思うから

2018年01月24日 | 自分自身 et moi
母に悪意はない。傷つけるつもりはない。わざとではない。ただ「本当にそう思うから」言うだけ。

おおむねその通りだ。誰かれかまわず、言いたいことを言いたいときに言う。誰に何を言っているのかわかっていないのではないかと思うことがある。それで相手がどんな気持ちになるかは考えない。言ってみれば子供のように無邪気。

だが、怖いのはじつはそこだ。

「あんたはできが悪い」「ブサイクだ」そう言ってわたしを否定し、ふみつけにし、バカにして笑うとき、それはわたしが「本当に」そうだからなのか。本当にそう言われるに値するからなのか。

それが今でも、こんな年齢になった今でも、完全に否定できない。母がその狭い了見や、なけなしの脳みそで考えたり言ったりすることが、「本当のこと」とは限らないではないかと。

親を捨てる

2015年10月17日 | 自分自身 et moi
愛してほしいのに愛されないと感じるときに生まれる感情。怒り/不満/満たされない気持ち。何と呼べばいいのかわからないが、それを自分に向けるか、ほかの人に向けるか。愛されない原因や理由がどこにあると考えるか。

わたしはそれを自分に向けた。自分が悪い、自分には愛される価値がないから愛されないのだと考えた。そしてそこからすべてが始まった。劣等感、罪悪感、自分の存在には意味がないと考えること。自己評価の低さ。それによるある種の共依存。必要以上に人に寄り添おうとすることで自分の存在する意味を見いだそうとすること。

わたしのいとこはそれを父親に向けた。悪いのは自分ではなく父親だと彼は考えた。父を愛している。父に愛してほしい。それなのになぜ愛してくれないのか。なぜ優しいことばのひとつもないのか。その怒りが父親への暴力となってあらわれている、のではないか。

わたしの場合は自分に対する暴力、彼の場合は自分以外の人間に対する暴力。しかしすべての暴力がそうであるように、暴力では何も解決しない。

解決への糸口はまず自分の親を冷静に客観的に観察すること。そして「親」と呼ばれるその人間が「ゆがんだ」人間であるということを知ること。自分がその「親」のためにどんな状況におちいっているか知ること。

そしてその「親」を怒りも恨みも悲しみも、その他どんな感情もなく、受け入れること。

そして捨てること。忘れること。通りですれ違ったへんな人のことを忘れるように。どんなへんな人にも存在理由はある。存在する権利はある。だけどわたしにはもうかまわないで。

自分の子供を「正しく」愛せないものを親とは呼ばない。そういう人間が親と呼ばれるのは生物学的にだけにすぎない。わたしには親はいないと認めてもいい。そのことで罪悪感を抱かなくてもいい。

ナイーブ

2015年05月31日 | 自分自身 et moi
この場合は、「人を信じすぎる」「お人好しの」「ばか正直な」「世間知らずの」「おめでたい」という意味。

母はわたしを恥じていた。そうしてわたしにむかって「あんたに価値はない」「あんたはだめだ」「あんたなんか」というメッセージを日々発し続けた。なんという侮辱だ。完璧な人間がいないのと同様に、そこまで「だめ」な人間などいるわけがない。しかし子供の頃はそうは思わなかった。子供にとって母親の言うことはつねに正しい。だから

わたしもわたしを恥じていた。母の言うとおりだ、わたしには価値がないと素直に信じていた。自分のすべてが恥だった。顔も醜いし、性格も成績も悪い。どこもいいところがない。名前まで変。

別の人間がうらやましかった。別の人間はみんな自信があるようにみえた。自分のしたいことやしたくないことがわかっている、自分の意見がある。いつ何を言い、何をし、いつどうふるまうべきか知っている。自分を「正しく」表現できる。自分ではない誰か別の人間になりたかった。

なんというナイーブさだ。ただ自分のナイーブさに腹が立つ。なぜもっと早く気がつかなかったのか。