みんな大好きカーネーション ~北海道カーネーション部会~

北海道のカーネーション生産者で構成されている部会です。
北の大地で作られたカーネーションをご覧ください。

ありがとうございました

2013-12-31 | その他
カーネーションをこよなく愛してやまない皆様へ

2013年も残すところあと僅かとなりました。
今年はアベノミクスや東京オリンピック・パラリンピック決定など、
いろんなことがありました。
カーネーションといえば今年もやや厳しい状況が続いた一年でした。
しかしながら、無事一年を過ごせましたのも、
みなさんの多大なご声援のおかげでございます。
大変感謝しております。
来年も栽培者一丸となってより良いカーネーションを栽培してまいりますので、
ご声援のほど、どうぞ宜しくお願い致します。



北海道花き生産連合会
カーネーション部会 一同

カーネーションの歴史 戦争-花作りは非国民 ④

2013-12-24 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

きょうはクリスマスイヴです。
何をプレゼントされちゃうかしら。。。
あたしぃ、グッチのぉカバンとかぁエルメスのぉ・・・バーキンのぉ・・・
ヴィトンのでもぉいいなぁ。。。
・・・・・。
あ、すいません。反省しまーす。


☆運命を変えた戦争


(1)植松清

玉川温室村 長門温室(長門正壽さん)で4年間研修した後、
1934年(昭和9年)に独立し、意欲的なカーネーション経営を
していた植松清さんは1944年(昭和19年)に自身が招集されたため
温室を売り払わざるを得ませんでした。


(2)島崎一

和歌山から志を立て上京した島崎一さんは、1937年(昭和12年)烏丸広大伯爵の
温室を譲り受けました。
必死の覚悟で一切の贅沢を排し、生きるためにカーネーション栽培に取り組みましたが、
1943年(昭和18年)召集されフィリピンに派遣されました。
帰国できたのは、1946年(昭和21年)になってからでした。



カーネーションの歴史 戦争-花作りは非国民 ③

2013-12-22 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

あー、寒い寒い。
いやんなっちゃうぅぅぅ。。。
灯油代も高いしぃ。


カーネーションの歴史 戦争-花作りは非国民 vol.3


☆花作りは非国民


(1)食糧増産

若者たちは次々と召集されて、残った老人と女性、子供たちは一途に食糧増産に励みました。
温室のガラスが空襲の目標となることから、ガラスの取り外しやペンキ塗り、鉄骨の供出や
温室の取り壊しが強制的に行われました。
暖房用の石炭が手に入りません。栽培資材も配給制になり、もはや温室経営は不可能になりました。
温室村では温室を取り壊し、売却する人も出てきました。


(2)温室でもやし、芋の苗生産

二項園 森田喜平さんは15棟1,500坪の温室のうち、13棟を政府に供出し、残りの300坪で配給用の
豆もやしの製造を委託されました。もちろん、ガラスは全部取り外し、供出しました。
近隣の八百屋さん50人くらいに手伝ってもらい、大量のもやしを生産しましたが
ついには原料大豆の配給が無くなりました。
間島五郎さんとともに、温室村最後のカーネーション生産者宮崎鎮三郎さんは、ガラスを外した温室でいもの苗を作り
供出しました。
土倉龍次郎さんとともに我が国のカーネーションの発展に大きな役割を果たした犬塚卓一さんの日本フローリスト
でも、子息竜一さんが1944年(昭和19年)に召集されました。
そのため、500坪の温室を半分に減らして、野菜苗を作り供出し、空き地は余すところなく自家用の食糧を作りました。
いずこもおなじ非常時突破体制で、それも戦況の悪化につれて気力の喪失が目立つようになってきました。


(3)花作りは禁止

食糧増産のかけ声のもと、温室だけでなく、花づくりそのものが禁止されるようになりました。
特に長野県と千葉県は花きを禁止作物として、徹底的に抜き取りが強制されました。
ただし、幸いなことに千葉県ではカーネーションは鋸南町保田で3戸が育苗保存のため
県知事の許可を受け、栽培することが出来ました。



カーネーションの歴史 戦争-花作りは非国民 ②

2013-12-20 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

猪瀬、知事やめるってよ
こう書くと映画のタイトルみたいですねぇ。
あの借用書といい、鞄といい突っ込みどころ満載!!
政治家ってお金がかかるんですね。
お金と力と情。あの田中角栄さんはこういう信条だったみたいです。
それをできるのも政治家の能力といってもいいんだと思います。
自分の身の丈に合ったことをしないとこうなるんですかねぇ。。。
クリーンでいられればそれにこしたことはないんですが・・・。



カーネーションの歴史 戦争-花作りは非国民 vol.2


☆カーネーションは卸12銭


戦時中でも花の消費は衰えず、カーネーション1本22銭の高値を見ることもありましたが、
1941年(昭和16年)の価格統制令で、花の卸、小売価格も統制されました。
生産者、市場、生花店と政府が協議した結果、カーネーションの単価は卸12銭
(兵庫県明石の資料では、12月~4月が12銭、5月~11月は8銭)
小売24銭と決められました。
ちなみにうどんは16銭でした。
部分的には統制価格で売れたほうが有利なこともありましたが、花き業界全体としては
生産量が激減しました。
また、米穀通帳制がはじまり、行列をしないと食料が手に入らない状況で、
花どころではない世相でした。


カーネーションの歴史 戦争-花作りは非国民 ①

2013-12-14 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

あー寒い、寒い。
嫌になりますねぇ。コチンコチンになってしまいますよぉ。
へ、変な意味じゃないですよ。。。
今回からカーネーションの歴史、新シリーズが始まります!!



カーネーションの歴史 戦争-花作りは非国民 vol.1


☆ 戦争の足音


1923年(大正12年)の関東大震災後、花の消費が増え、生産も
拡大して、1935年(昭和10年)前後にはピークを迎えました。
しかし、このころにはすでに戦禍の暗雲が垂れ込めていました。
花産業の活況とは裏腹に、時代は軍国主義、戦争と突き進んで行きます。
1931年(昭和6年)には中国軍との前面衝突に至る満州事変が
勃発します。翌1932年(昭和7年)には満州国建国宣言、青年将校による
五・一五事件で首相の犬養毅さんが殺害されました。
続いて1936年(昭和11年)には二・二六事件がおこり、1937年
(昭和12年)には盧溝橋(ろこうきょう)事件から中国との泥沼の
全面戦争に入りました。
国民生活、花生産にも影響が出始めました。1938年(昭和13年)には
国民総動員法、国民徴用令、価格等統制令が発令されました。
そしてついに1941年(昭和16年)12月、大東亜戦争(太平洋戦争)
に突入しました。

カーネーションの歴史 東京から地方へ 37

2013-12-12 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

秘密保護法ってなんですかね。秘密を内緒にしてよぉ。
もし誰かに話しちゃったら、お仕置きだぞっっ。
まあ、こんな具合なんでしょうね。
どちらにしても、我々庶民には関係ないですけどね。難しいこと知っても仕方ないし。。。
あー、ちらリズムと同じかな。見えちゃったらそれはそれで興ざめしちゃうっていう。
なーんか秘密にしてるなぁって感じがいいんですよ。きっとね。


カーネーションの歴史 東京から地方へ vol.37


☆ どんな時代だったのか?


(1)日露戦争後の経済破綻

澤田さんや土倉さんが温室を建て、カーネーションを作り始めた
明治末から昭和初期はどんな時代だったのでしょうか?
1905年(明治38年)に日露戦争に勝利したものの、戦費の返済で、
日本経済は破綻寸前でした。
日本は疲弊していました。
そんな経済環境でのカーネーション生産の出発でした。


(2)大戦景気

土倉龍次郎さんが、「停滞の10年間」となげくのもうなずけます。
経済が一気に立ち直ったのは、第一次世界大戦(1914年(大正3年)~
1918年(大正7年))後の大戦景気です。
ようやく花が消費されるようになり、それにつれ花を作る生産者が東京
とその周辺で増え始めました。


(3)戦後恐慌

好景気は長く続きませんでした。第一次世界大戦で傷ついたヨーロッパ列強が
アジア市場に再進出してくると、1919年(大正8年)には輸出量が激減し
1920年(大正9年)には株価が大暴落して戦後恐慌が発生しました。
さらに3年後の1923年(大正12年)には関東大震災で経済は大きな
痛手をうけました。
しかし、花き産業にとって関東大震災は思わぬ需要をもたらしました。
各地で追悼集会が催され、切花が高い値段で売れました。阪神淡路大震災後と
似た状況でした。


(4)昭和恐慌と農村の疲弊

昭和に入ると1923年(昭和2年)に、日本を代表する貿易商社鈴木商店が
破綻するなど、倒産企業が続出して、失業者は100万人を越えました。
これが昭和恐慌です。
農村では輸出急減による繭価格の暴落に連動して、農産物全体の価格が急落
しました。収入が激減したうえに、都会から出業者が次々と帰郷してきたため
経済的貧困に陥り、娘さんたちの身売りが続出しました。
このころ新たな換金作物を求め、生きるために花栽培に取り組む地域が出始めました。


次回からはカーネーションの歴史の新たな章です。ご期待ください。
といっても、宇田明先生の「愛され続けて100年カーネーションの歴史」
の丸写しですが。。。

カーネーションの歴史 東京から地方へ 36

2013-12-10 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ


今年も残すところあとわずか。。。
そういえば、日ハムのガチャピンがソフトバンクに移籍してしまいますねぇ。
残念です。憎めない選手だったし。
キャッチャーのことといえば、ソフト出身の大嶋君はどうしてるのかなぁ。。。
ハンカチ君とともに一軍で活躍してほしいですね。


カーネーションの歴史 東京から地方へ vol.36


☆ 熊本編

熊本の花栽培も古いのです。
明治末期から、山林苗、野菜、水稲を組み合わせた複合経営で
肥後シャクヤク、キク、梅、桃などの花木が栽培されていました。
大正時代に入ると、グラジオラス、ナデシコ、キンセンカなど
多品目が栽培されて、戦前まで続きました。
カーネーションは飽託郡田迎村の篤農青年、米村一さんが
郡農会の派遣生として、先進地愛知県で、栽培を学び、
帰郷後、1931年(昭和6年)に友人西朝八さんと、それぞれ
20坪を栽培したことに始まります。
1939年(昭和14年)ころには生産者20名、900坪までに
増加しましたが、戦争で衰退してしまいました。

カーネーションの歴史 東京から地方へ 35

2013-12-06 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

じぇ、じぇ、じぇっていつ言うの?
今でしょ!!



カーネーションの歴史 東京から地方へ vol.35


☆ 福岡編

(3)福岡カーネーション研究会

1931年(昭和6年)、福岡県花卉園芸組合が発足し、
その事業として福岡高級花卉園芸市場が開設されました。
さらに、1932年(昭和7年)には、小倉市に、生産者20名程度で
相対の小倉花市場が開設されました。このように、花市場が開設された
ことにより、1932年(昭和7年)ころから急速に花の生産者が増加しました。
温室面積も拡大して、特にカーネーション栽培が飛躍的に増大しました。
1932年(昭和7年)には、福岡市東堅粕の赤塚嘉一郎さんと佐藤勝利さんが
1935年(昭和10年)には、多々良の波田峻二さんと大神義人さんが
カーネーション栽培を開始しています。生産者の増加に伴い、1936年
(昭和11年)には福岡カーネーション研究会が設立されました。
その後もカーネーションを栽培する生産者は増え続け、1936年(昭和11年)に
渡辺文吉さん、1937年(昭和12年)に江頭茂さん、田中定夫さん、鷹巣寛一さん、
才田勇夫さん、1938年(昭和13年)に久芳隆さん、吉原哲郎さん、神武太三さん、
1940年(昭和15年)に大神善仁さん、大坪喜一さんが生産を始めました。

カーネーションの歴史 東京から地方へ 34

2013-12-04 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

自転車の路側帯の右側通行が禁止になっていたんですね。
知らなかったなぁ。もっと周知徹底してほしいものです。
まあ、私は自転車にはあまり乗らないので関係は薄いですが。。。

カーネーションの歴史 東京から地方へ vol.34


☆ 福岡編

(1)独自の花文化

福岡県は独自の花文化を持ち、その歴史は古いのです。
しかも、独自に花産地を発展させていきました。
江戸時代には、福岡藩は長崎警備を命じられていました。
そのため当時唯一の開港場であった長崎から、輸入の珍植物が福岡に
もたらされていたことから、花栽培が盛んになりました。
福岡で栽培された花の種類は多く、テッポウユリ球根は1915年(大正4年)から
アメリカに輸出されていました。
洋ギクの栽培も古く、1933年(昭和8年)には秋ギクのシェード栽培に
成功しています。


(2)赤司広楽園

1895年(明治28年)ころに、久留米のカトリック教会司祭ソーレー師は
フランスからチューリップ、シャクヤク、スイセン、ヒアシンス、ダリアなどの
種苗を輸入して栽培しました。ソーレー師の指導を受けた赤司広楽園の
赤司喜次郎さんは、1897年(明治30年)ころに、フランスのビル・モーラン商会
から草花種苗を輸入して栽培しました。そのなかにはマーガレット系カーネーション
がありました。
1907年(明治40年)、早良郡田隅村の宮崎宗太さんがカーネーション栽培をはじめ、
これはマーガレットカーネーション、ジャンボカーネーションでした。
1912年(大正元年)、嘉穂郡幸袋町(現飯塚市)に麻生農園が開設されて、
温室30坪に花卉、蔬菜(そさい)の栽培をはじめ、大正時代のこの地方の
先駆的役割を果たしました。
1926年(大正15年)企球郡曽根(北九州小倉)の柳井安治さん、渡辺修祐さんが
それぞれ30坪のガラス温室を建て、カーネーション、バラ、スイートピー、シクラメン
などの栽培をはじめました。このカーネーションが現在のパーペチュアルカーネーション
と考えられます。スイートピーやグラジオラスは売れなかったらしいです。
1931年(昭和元年)当時の福岡県下における温室は
66棟、約1,000坪で、メロン、トマト、キュウリなどの
蔬菜(そさい)と花卉類との混栽が大部分で、花卉専門の温室はわずかでした。
1930年(昭和5年)、福岡市東堅粕で横竹正祐さんが70坪の温室を建て
カーネーション、スイートピーの栽培をはじめました。


カーネーションの歴史 東京から地方へ 33

2013-12-02 | カーネーションとは何ぞや?
こんばんわ

すっかり寒くなってきましたね。
今初冬の北海道は暖かいです。風邪は流行っていますが。。。
インフルエンザのワクチンも打たなくちゃ。

カーネーションの歴史 東京から地方へ vol.33


☆ 広島編

浜村好男さんは、半農半漁の家に生まれますが、漁師を嫌って
1931年(昭和6年)、広島市郊外の緑井でみどり園を興し、
カーネーション栽培を始めました。
1937年(昭和12年)、広島市主催の海外消費宣伝のため
朝鮮、満州に渡り、各都市で取引を開始、終戦まで輸出をしました。
このとき遠隔輸送の方法を会得しました。


☆ 山口編

山口県のカーネーションは、大正末期に山陽町の藤本研蔵さんが、
朝鮮、満州むけに栽培したのが始まりです。
戦争により生産を縮小、または中止に追い込まれているときに
カーネーションを作り始めたのが、山口県下関市彦島の植田八束さんです。
統制経済で特産花丸キウリの暖房用石炭が手に入らなくなったため、
無加温でできるカーネーションに切り替えました。品種はスペクトラム、
ピンクスペクトラムでした。
1943年(昭和18年)には、コーラルが導入され、栽培農家が増加しましたが
温室の大半が強制買収を受けたため、栽培が不能となりました。


次回は福岡県です!!