私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

日本軍による検証大虐殺の犠牲者数を検討する(1)  蔡史君  1983年

2007-03-25 03:09:29 | Weblog
 日本軍が降伏してもう37,8年にもなるが、日本の教科書がシンガポールの「検証」大虐殺事件を取り上げたのは、今回が初めてである。
 
 『朝日新聞』[1983年5月30日]の報道によると、東京書籍の中学社会科歴史教科書は、来年度[1984年度]の教科書のなかに、初めてシンガポールの検証大虐殺事件を取り上げることにしたという。日本の歴史学者が、勇気を奮って戦後における教科書のタブーをついに打ち破り、日本軍がかつてシンガポールで行った検証大虐殺事件を初めて認知したことは、賞賛に値することである。執筆者の丹羽邦男教授の原文は、次のようなものだった。「日本軍は、占領したシンガポールで、日本軍に抵抗するとみなした2万人もの中国系住民の生命を奪った」。

 率直に言って、シンガポール人、なかでもそれを身をもって体験した年輩者たちから見れば、この記述では史実との間に一定のズレがあり、不十分なものということになる。丹羽教授のこの文章を読むと、すぐに2つの疑問が浮かんでくる。一つは、日本軍はシンガポールにおける検証大虐殺で、結局のところどれだどれだけの人を殺したのか。もう一つは、日本軍が殺害したのは、はたして“日本軍に抵抗するとみなした中国系住民”に限られたかどうか、ということである。

 しかし、丹羽教授があげた保守的数字―2万人―についてさえ、文部省は不満を表明し、最終的には「6千人以上」に数字を改めさせたのである。

 本稿では、手許の資料にもとづいて、検証大虐殺事件の経過、および日本軍が虐殺した人数について検討を加えてみたいと思う。

   検証大虐殺事件の概略

 日本軍は、1942年2月15日、シンガポールを占領した。占領後3日目の2月18日、日本軍司令官は布告を貼り出し、18歳から50歳までのすべての華人男子住民は、日本軍の指定した5ヵ所に集合するよう命じた。また、街のあちこちに人を派遣して、口頭でもこの命令を繰り返し、華人を集合場所に駆り立てた。2月21日から、日本軍は各集合場所で尋問を始め、あるものは釈放され、あるものは拘留されることとなった。拘留されるかどうかの基準は各地まちまちであったが、拘留された住民の大部分はトラックに押し込められ、海辺に連行されたり、船で海上に運ばれて、機関銃の掃射を浴びせられた。2月25日、華人粛清の第一段階は終了したが、ひきつづいて第二次、第三次の検問がおこなわれ、3月10日にやっと一段落した。これがほかでもない地獄さながらのシンガポール検証大虐殺事件である。フィリピンの大虐殺[バターンの死の行進]および南京大虐殺とならんで、日本軍の歴史に残る三大汚点である。

 この検証大虐殺作戦について、当時の日本軍政監部は、その英字紙『ショーナン[昭南]タイムズ』において、検証大虐殺は抗日分子を一掃するためであり、社会主義者および抗日団体のメンバーはすでに処分した。(原注:日本軍がいう厳重処分は通常処刑の代名詞)と発表している。華字紙『昭南日報』には、日本軍警備司令官の、抗日首謀者はすでに厳重に処罰したとの声明を載せるとともに、「一を殺して、百を救う」と題する社説が掲げられた。いわく、抗日華人は本来なら全員銃殺すべきところ、天皇の慈悲により、『昭南島』の平和を乱す者のみを処罰した。その他の住民は日本軍に積極的に協力し、服従すべきであり、“反日思想”を煽ることはもはやまかりならないと警告した。しかし、虐殺数については、どちらの新聞も述べていない。  (続く)



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