あるマーケティングプロデューサー日記

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読み応え満点の『CIA秘録』

2009-04-01 10:19:38 | インテリジェンスの歴史
最近一気に読んだ本が、この『CIA秘録』の上下巻です。

“噂・伝聞一切なし。機密解除文書5万点を使って書かれた ”というフレーズのこの本は、ニューヨーク・タイムズの記者が、5万点以上の機密解除文書、CIA元長官を含む計300人以上のインタビューを敢行し、書き上げたものです。

昨年度の全米図書賞を受賞したこの本の中には、歴史的な貴重な事実もかなり含まれています。

興味深かった部分を、一部抜粋します。

◆第12章「別のやり方でやった」自民党への秘密献金

占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は、CIAをそう草創のころから嫌い、信用していなかった。1947年から50年まで、東京のCIA支局を極力小さく弱体にして、活動の自由も制限していた。元帥には独自のスパイ網があったのだ。広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。CIAはこのスパイ網を、元帥から受け継ぐことになったが、これはいわば毒のもられた遺贈品だった。

マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウィロビー少将だった。ウィロビーの政治的立場は、米陸軍の将官の間では最も右寄りだった。ウィロビーは1945年9月、最初の日本人スパイをリクルートすることで、戦後日本の諜報機関を牛耳ることになった。この日本人スパイは、戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三である。

有末精三中将は1945年の夏、戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。それが、敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていたのだった。多くの高位にある軍人同輩と同じように、戦争犯罪人として起訴される可能性もあった。が、有末はかつての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。ウィロビーの最初の指示は、日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し、実施せよというものだった。有末はこれを受けて、参謀次長の河辺虎四郎に協力を求め、河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。

1948年、アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは、日本については政治の改革より経済の復興がより重要であり、実際問題としても、実現が容易であると感じていた。ケナンはマッカーサーの政策に対して疑問を呈していた。日本の産業を解体し、解体した機材を戦時賠償のために中国に送る、共産主義者がいまにも中国を制覇しようとしているときに、そうした措置をとることにどういう理屈があるのか、とケナンは問いかけた。ケナンの力によって、アメリカの対日政策は1948年末までには急転換を遂げた。日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は、緩和され始めた。これで、ウィロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。

ウィロビーはその時の冬、暗号名「タケマツ」という正式な計画を発足させた。この計画は、二つの部分に分かれていた。「タケ」は海外の情報収集を目的とするもの、「マツ」は日本国内の共産主義者が対象だった。河辺はウィロビーにおそよ一千万円を要求し、それを手にした。スパイを北朝鮮、満州、サハリン、千島に潜入させること、中国、朝鮮、ロシアの軍事通信を傍受すること、それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し、台湾に日本人の有志を送り込むこと、などを約束した。


この他にもケネディ政権の内幕など、生々しい真実が明かされています。

いろんな賞も受賞しているようで、なかなかの力作だと思います。