シンスケのモリモリぶろぐ

チェンソーアートや養蜂のこと、森の植物や動物のこと、日々の出来事を徒然なるままに・・・・

Every moment is life ~ターシャからの伝言~花もいつか散るように

2013-08-06 22:41:55 | 日記・エッセイ・コラム

2008年の6月にターシャ・テューダさんが92歳で亡くなられて5年が経ちますが、その年の暮れに放映されたターシャさんの生前を振り返るNHK番組「ターシャからの伝言」が再放送されました。偶然この番組を見ていてとても感動しました。生前に記録された彼女の日々の暮らしぶりのエッセンス、そして彼女の最期を知る家族のインタービューなどを交えた素晴らしい番組でした。

絵本作家として生計を立て、女手一つで4人の子供を立派に育てあげた彼女はガーデニングの達人でもあり、手作りの暮らしを実践していた事で有名ですが、同時に彼女は哲学者だと思いました。ターシャの放つ一つ一つの言葉は心に響きます。

"I'm enjoying each moment, because I'm doing what I want"  彼女の人生はとても充実していて幸せだったと思います。

彼女は養蜂も手掛けていて、蜜蝋で蝋燭を作っている場面がありました。作業の合間に「ミツバチが訪れた花々の薫りを想像します」と言ってました。

晩年、病床の窓から木々の葉に宿る雨滴が光る様を見て感動していたと言います。

”Every moment is life” なんと素晴らしい言葉でしょう!! 一日一日丁寧にそして大切に暮らしていた彼女は人生の達人です。


この冬一番の寒さ?

2013-02-21 22:52:28 | 日記・エッセイ・コラム

今日は仙台最低気温マイナス4度、このところ寒い日が続いています。青森酸ヶ湯では昨夜からの雪で5.15mの最深積雪を記録。数日前はニュータウン前の沢からもくもくと霧が湧き上がっていました。水蒸気霧というやつでしょうか?夕方の現象でした。Dscn0363_2谷間に入ってきた寒気と沢水の蒸気で霧が発生したのでしょうね。まだまだ寒さが続きそうです。


イノシシの土偶(青森県弘前市土腰内遺跡)

2013-02-15 12:17:27 | 日記・エッセイ・コラム

縄文時代には青森にもたくさんのイノシシがいたらしく三内丸山遺跡からも骨がたくさん出土しているとのこと。弘前市土腰内遺跡から見つかったイノシシの土偶は有名だ。以前に仙台市縄文の森広場で購入したイノシシ土偶の複製をアップしました。Dscn0357
仙台でも伊達の時代にはイノシシ狩りが行われていたという記録があるそうです。


仙台イノシシ事情

2013-02-12 23:08:24 | 日記・エッセイ・コラム

 かれこれ5-6年前ころから、仙台中心地から10km~15km圏内の身近な里山を歩くと、イノシシのフィールドサイン(糞、足跡、ぬた場跡など)がそこここに普通に見られるようになった。私の住んでいるニュータウンでは仙台15km圏内であるが、イノシシが町内公園の広場を広範囲に掘り返して草の根などを食べた跡や足跡が毎年見受けられるようになった。近隣の田畑の被害も無視できないほどに増加していて、昨年は畑や田圃と里山の境界域に鉄柵をはりめぐらして被害を防ごうとしている。何年か前までは福島県阿武隈山地が北限という風に言われていたが、すでに宮城県北部まで広がっているそうだ。

 ここまで猪が増えた理由はなんだろうか?仙台市のホームページをみると、「近年中山間地域中心に過疎化、高齢化、里山利用の低下、休耕田をはじめとする耕作放棄地の増加、狩猟人口の減少など」を原因に挙げている。

 たしかに、仙台近郊でも農家は息子には農業を継がせたくないと思っている人が多い、耕作放棄地は年々増加する様子を目の当たりにしている。荒地化してヤナギなどの木が茂っている元畑地もよく見かける。酪農家の牧草地も刈込をしなくなって,ススキがびっしりはびこっているようなところも多い。それよりも何よりも、松の植林地なども、雑木が間っにびっしり入って、本来の松はフジやアケビの蔓に巻きつかれ、成長を阻害された上、松枯れ病に侵されて、ジャングル化しているような場所も多い。杉も含めて、荒れた植林地は動物の格好の棲家や餌場になっている。いわゆる里山の奥山化という現象だ。

そして、猟師は高齢化して。その数は20年前の四分の一にまで減っているという。オオカミはイノシシやシカの天敵でその数が増えるのを抑制してバランスがとれていたというが、そのオオカミは明治時代に人間のせいで絶滅してしまった。生物多様性というのはこういう観点からも重要なんだなと納得します。

で、結局これからも、繁殖力の旺盛なイノシシはどんどん増え続けることになりそうだ。農業や林業を軽視する政策が続けば、それはさらに加速されるだろう・・・・・・。地球温暖化の影響で、猪が北上しているとみる人もいるようだが、むしろ日本の社会変化の影響とみる方が正しいようだ。どのように共生していくかが、今後の課題。


猪の味

2013-02-11 23:56:44 | 日記・エッセイ・コラム

 「猪の美味しさを初めてはっきり味わい知ったのは、私が十くらいの時のことであった。当時、私は京都に住んでいたが、京都堀川の中立売に代々野獣を商っている老舗があって、私はその店へよく猪の肉を買いにやらされた。私の家は貧乏であったから、猪の肉を買うといっても、ごくわずかな買い方をしていた。まあ五銭ぐらい持って買いに行くのが常であった。もっとも、当時は牛肉ならば鹿の子(東京でいう霜降りロースに当たる)が三銭位で買えた時代であるから、五銭出すというのは、猪の肉だけに奮発したわけなのである。・・・・中略・・・・・ そうしたある日のことだった。いつものように店先に立ってみていると、親爺が二寸角ぐらいの棒状をなした肉を取り出してきて、それを一分ぐらいの厚さに切りだした。・・・・中略・・・・親爺はそれを十切れぐらいしかくれなかった。子ども心にも非常に貴重なもののようにそれを抱えて、楽しみにして帰って来た。うちの者も、その肉の美しさを見て非常によろこんでいた。さっそく煮て食ってみると、果たせるかな、美味い。その肉の美しさを見た時の気持ちの動きも手伝ったことだろうと思うが、食道楽七十年を回顧して、後にも先にも、猪の肉をこれほど美味いと思って食ったことはない。私は未だにそれを忘れない。私が食物の美味さということを初めて自覚したのは、実はこの時であった。」(「魯山人味道」中公文庫p110(猪の味)より)。

 今日、時々山で出会う猟師さんから電話がありました。猪が捕れたから取りにおいでと。山で会うたびに猪が捕れたら分けてくださいと頼んでおいたのです。よほど大猟だったのでしょうか。1歳半くらいのをもも肉、リブ、背肉と主な部分を戴く。今週予定している森の手入れのお昼に里山の仲間と一緒にBBQにして食べよう。量がたくさんあったので、Tさんにおすそ分けをしたら、すぐに電話がかかってきて、いま焼肉にして味見しているが美味いぞ、というので、お邪魔しました。信じられないくらいマユゥ~でした。

 

 わたくしは神戸の出身で、子供のころ猪の味を旨いと思って食した経験があります。親爺が兵庫県の北部に(たぶん和田山あたりだったと思いますが)、出張に行って帰ってくると、マッタケをずだ袋に一杯、そして猪の肉を持って帰るのが常でした。その猪の肉をすき焼きにしたり、味噌漬けにしたのを食った時の其の旨さを未だに忘れることができません。今日食った猪は、その時の感動を彷彿とさせるものがありました。


里山の蛇たち

2013-02-01 22:15:54 | 日記・エッセイ・コラム

本年は巳年、蛇は脱皮を繰り返して成長していく、生命力や再生のシンボル。また金運の良い年(経済が上向く年?)っていわれてますが、期待したいですね。そして何より、被災地の復興がはかどる年にしたいですね。

里山でよくみる蛇はシマヘビ、マムシ、アオダイショウ、そしてヤマカカシですね。 山歩きで出会った蛇の写真をアップしてみました。

Dscn2717Photoまだ、もっとたくさんの種類の蛇がいるはずなのですが、観察不足なのでしょうね、ジムグリやヒバカリといつか出会いたいと思っています。そうそう、ツチノコ?もねっ!!

1997年、1月の休日、銀座でギャラリーめぐりをしていた時、ニコンサロンで写真家、呉正和さんの「蛇たちの庭」と題する写真展をやっていたので、のぞいてみたら、素晴らしい蛇の写真が所狭しと展示してあって、びっくりしたことがあります。

Photo_2たまたま会場に作者の呉さんがいらっしゃったので、いろいろ質問した記憶があります。
これだけの蛇写真を撮るのは大変だと思いますが、どうやったら蛇に出会えるのですか?というような馬鹿な質問だったような。すると、彼は大体蛇のいる場所は勘でわかるんだね、そこで、気長に待ってれば出てくるよと教えてくれました。確かにそうですね、蛇の出る場所といえば、カエルがいるような場所、ネズミが出るような場所ということですかね。ひとりで森に入るときはわたしも彼のアドバイスを参考にしています。

Photo_4気長に待つというのはポイントでしょうか?切り株に座って、しばらくすると自分が森の一部になったように感じた時、近くの枝に小鳥がとまったり、キツネが通りかかったりって、ありますよね。


電車の中の出来事

2012-11-19 00:34:51 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、仲間のTさんと盛岡まで出かけなければならない所要があって、ローカル駅から仙台行きの電車に乗り込んだのですが、結構混んでいたので端のほうで立って雑談をしていました。 やおら、隣に立っていた中年女性が前に座っていた若い女性たちに『あんた達! この座席は高齢者や体の不自由な人が座る席でしょ、どうして席を譲ってあげないの!!』と叫んだのです。 座っていた3人の女性が素直にさっと席を立ちました。 で、どこにその高齢者なり、不自由な人がいるのだろうと振り向いてあたりを見回すと、そんな人は誰もいないのです。 件の女性は私とTさんの方を向いて「どうぞ!」というではありませんか。 一瞬、唖然としました。私は何か言おうとしたら、Tさんは事情を察して、すぐに座りました。 

いや、私はこの通り元気でピンピンしていて、席を譲ってもらうような老人ではありません、どうぞ座っていてくださいと心の中で呟きつつ、私が座らなければ、声を張り上げたその中年女性のメンツをつぶすことになるし、素直に席を空けてくれた若い女性たちも気まずいということに気が付いて、仕方なしにありがとうと言って座った次第です。 しかし、しかしだ! 老人とは俺のことかとがっかりだ。「まだ、そんな歳ではないよ!」っていえば、ひねくれ爺になる。 いや、はや!


「みどりのきずな」再生植樹式

2012-11-08 23:32:14 | 日記・エッセイ・コラム

先日11月4日に東北森林管理局主催の「みどりのきずな」再生植樹式(若林区荒浜の国有林)に行ってきました。

3・11東日本大震災に伴う津波で東北沿岸の海岸林が甚大な被害を受けました。宮城の海岸林は400年前の伊達の時代に防風、防砂、防潮の目的で植えられたものだということですが、今回の津波の力を弱めるなど、一定の減災効果はあったもののその大部分が流されてしまいました。 海岸林の主体になっていたクロマツは深根性であって、潮に強いことで知られていますが、残念ながら、海岸にあまりに近いところで、海水位の高いところであったために、深くまで十分に根が張れてなかったたことが持ちこたえられずに流されてしまった原因のようです。流木の根の張り具合や、流されずに見事に残った地域の松をくらべると、その違いがはっきりするようです。今回の植林は、教訓を生かして、植え付け地盤そのものを強固にするとともに、十分に深く根がおろせるだけの場所を造成して植林するということになったようです。前線にクロマツ、その背後に広葉樹を植えて、目的とする効果をあげることを目指しています。

11月4日の参加者は200名ほど、2200本を植樹しました。今回の植樹式をスタートポイントとして、来年の春から本格的に沿岸100数十キロにわたる海岸林植樹が始まるそうです。

潮風を弱め、このあたりの農業地帯の防風林としてだけでなく、津波の力を弱める効果を期待されています。

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奥山市長が参加されてました。

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気仙沼にて

2012-09-20 11:47:45 | 日記・エッセイ・コラム

15日16日の「みんなでウッドデッキをつくろう」を企画された産総研は今回参加するまでその存在は知らなかったが、彼らの考えたトレーラーハウス構想は大変興味深い。将来起こるであろう災害の対応も踏まえて、こういう実験的企画を実行する人たちの行動力に敬意を表したい。

ウッドデッキの背後に見える特別仕立ての超大型トレーラーは災害時の緊急対応や復興の過程で必要な拠点建屋として、エネルギー、水、浄化排水設備など生活インフラを自前でしかも長期間にわたって調達できるシステムをすべて備えているというのが味噌だ。車で引いて被災地に持ち込めば、直ちに居住可能な拠点建屋になる。また、医療施設としても、仮設住宅としてももちろん利用可能だ。現在3台のトレーラーが並んでいて、屋根にはソーラーパネル、背後には予備電池として、日産の電気自動車が。プロパンガスボンベやガス発電設備も整っている。もちろん水ろ過設備や雨水タンクもある。彼らは自ら居住し、地域の支援をしながら、さらにシステムの改善を図っていくつもりらしい。

神戸大震災の時にもあったように、道路網が寸断され、通行不能な場所や孤立地域にもヘリで搬送できるようコンパクトに分解でき、しかも簡単迅速に組立られればさらに機動性はアップすると思う。

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⇒作成中のウッドデッキの奥に見えるのが   トレーラーハウス(屋根にはソーラーパネル)

前日の夜は支援隊の皆さんと一緒に夕食を兼ねて復興酒場で情報交換。

復興酒場はボランティアの皆さんで溢れかえっていました。外人さん、東京から来たという早稲田大学の学生の団体、大工さんや人夫風の方、みんな復興に向けて一生懸命。日焼けした汗まみれの顔は輝いて見えます。ここ気仙沼は港のかさ上げなど早い機会に着手して、すでに水揚げなども一部できる状態とのこと。他の被災地に比べ全体的に活気を感じました。行政待ちではない、企業や町の人々の何とかしなくてはという動きを感じます。

それに対して、行政の対応の遅さには、何とかならないかと腹だたしくなるのは私だけではないだろう。

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南三陸町2(瓦礫の中のSteam Loco)

2012-03-16 00:15:17 | 日記・エッセイ・コラム

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南三陸町の瓦礫の中にロコを見つけました。

震災前には大事に保管されていた退役ロコだったのでしょうか?それとも時々は現役に戻って走っていたロコでしょうか、満身創痍でLocogareki2
横たわっていました。

あの防災庁舎には僧侶の読経の声が響いていました。

思わず手を合わせました。

1年経った今も瓦礫はうず高く積まれたまま、町は廃墟と化して、復興には程遠い状態。

胸が痛みます。今こそ、行政をはじめ日本中があらゆる知恵を絞って一刻も早く行動しなければならないと痛感します。

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3月11日午後2時46分

2011-05-18 23:39:46 | 日記・エッセイ・コラム

途絶えていたブログをやっと更新する気になった。この日のことは多くの人にとって一生忘れることのない記憶として残るだろう。

3月11日午後2時46分、DIYショップで買い物中だったが、不気味な大音響と強烈な振動、商品棚から重量物が落ちてくるやら、天井の一部がはがれおちてくるやら、生きた心地がしなかった。駐車場によろよろしながら逃げ出た時には、まだ強い揺れが続いていて、アスファルトの地面がまるで外洋のウネリのように波打っていた。向かいの建設中の大きな建物の鉄骨がガラガラと大きな音をたてていて、ヘルメットの作業員が必死に鉄骨にしがみついていた。私は車のボンネットに手をついて自分の身を支えるのが精いっぱいだった。

車で通行不能の道路を迂回しながらいつもの3倍の時間をかけて帰宅した。

悪夢の1日であったが、実際の悪夢は数日後に電気が回復してテレビニュースを見てからであった。大震災の惨状には言葉を失ってしまった。

幸い住居は標高の高いところで地盤もしっかりしていたので、被害はほとんどなかった。

最近、龍泉師匠から教えていただいて制作した縄文土器の野焼作品が数点転げて割れてしまったくらいだった。

2011_0331_100506dscn7269 今、生かして戴いているのは神様のご加護だという気持ちで一杯だ。


[起るべきことは必ず起こる」

2009-04-24 23:57:16 | 日記・エッセイ・コラム

「起るべきことは必ず起こる」または「可能性のあることは必ず起こる」という鉄則は会社時代に製品開発のデザインレビューにおいていつも念頭に置いていたことである。だから、起こっては困ることをあらゆる観点から想定して、対策を講ずるわけである。

パソコンはいつか壊れるということはわかっていたつもりである。だから外付けの記憶媒体をセットして、バックアップをしていたはずであった。ところがである。1年前までのデータはこまめにバックアップしていたんだけれど、この1年は油断していた、写真などの多くのデータはパーになってしまった可能性大。トホホ!

修理屋さんに持っていくと、だいたい5~6年程度と考えた方が良いですよという。5年単位でソフトもバージョンアップになり、パソコンも大幅に機能アップするので新品購入を勧めますとのつれない返事。データは回収できるかどうかトライしてみますとのこと。

そこで、パソコン新規購入とあいなった。久し振りに電気店にきてみると、高機能のパソコンがかなり割安になっているのに驚いた。各社の値段競争が激化している上に昨今の不況が重なっているからだろうと思う。一流メーカー品も最近は中国で組み立てたものが多いようだ。部品も韓国製などがかなり使用されているという。今回はわざわざ「日本製」との宣伝文句を大書したF社のパソコンを購入した。


いたたた!!

2006-08-30 22:16:54 | 日記・エッセイ・コラム

森の下草刈りをやっていると、アブが飛んできて汗にぬれたズボンの上から太ももをチクリと刺した。アブにしてはヤケに痛いなと感じたが、叩きつぶした。すると、アブは一匹や二匹でなくやたら多いのに気づく、額、腕、まぶたの上やら背中ところかまわず衣服の上からあっという間に10数箇所近く刺されて、猛烈に痛い,ほんの数秒の出来事だ。たまらずその場から逃げ出したのはいいが20メートルもいかないうちに刈払い機を持ったまま切り株につまずいて転んでしまった。刈払い機をはずしてさらに逃げた。

もうアブは追ってこないと思って一服し、長靴を脱ぐと中から、クロスズメバチが出てきた。アブと思ったのはクロスズメバチだ。どうやら、刈払い機で土中の巣を壊したのだろう。それにしても叩き潰したのはまずかった。敵のアラームフェロモンを撒き散らすことになって多数の仲間を呼び寄せることになったに違いない。刈払い機で怪我をせずにすんだのは運がよかった。ちなみにハチノックはリュックに入れていて、直ぐに使える状態でもなかったし、刺されたのは蜂だという認識もなかった。なんともはやトンマなことである。その日はすぐさま切り上げて帰宅。体中に刺された後がタンコブになっていた。小型の蜂で毒も少ないせいか、翌日は突っ張り感はあったが、大丈夫だった。それにしてもオオスズメバチだったらとおもうとゾッとする。毎年50人の方がスズメバチに刺されてなくなっているというから、気をつけなくては。

今回わかったことは通常の衣服はスズメバチに対して何の防護機能も果たさない(当たり前だー!今頃わかりましたか。毒針はドリル状で7-8mmもあるというから、大概の衣服通すそうだ)。山の本を見ると、7-10月のシーズンは「防護ネットをかぶって作業しなさい」とある。しかし、頭部と顔は保護できても、他の部分をやられたら、抗体を持っている人のアナフィラキシーショックは防げないだろう。事前に作業予定地に蜂トラップを設けてモニターしておくのもいいかもしれない。念の為に抗体検査もしてもらっておこう。