ブログ バジリカ

今日もシャランラ♪

ウンパ・ルンパと踊ろう♪

2007年06月24日 | 日常
巷で噂のBilly'sをYouTubeで初めて観てみた。・・・なるほど、これはしんどい。マーシャルアーツの動きだ。というより私、過去にスポーツクラブで挫折してますよ、この類。

なにかもうちょっと楽に身体を動かせるものはないかな、と考えてふと思い出したのが、唯一持っているDVD「チャーリーとチョコレート工場」。言わずと知れたジョニー・デップ主演のリメイク映画である。これが2枚組になっていて、片方の特典DVDに「ウンパ・ルンパ・ダンス」の練習コースが付いているのだ。この「ウンパ・ルンパ・ダンス」、演ってる人(写真上)が如何にも素人の動きで、振り付けもダサ奇妙で、妙に気になるダンスなのである。いつかマスターしてみたいと思いつつ、放ってあった。それをやってみることにした。

練習コースにはAugustasとVioletのテーマ曲の2つがある。ウンパ・ルンパの初ダンスシーンでもあるAugustas Gloopの方を選んだ。このダンス、幼稚園や小学校の学芸会でよく使われているというくらいだから、大してむづかしくはない。スペースも畳一畳あれば事足りる程度。しかし覚えるために何度も繰り返してやっていると、じわじわと疲れてくる。しかも後半の方はジャンプや方向転換が入ったりして、それなりに千鳥足に(汗)。なんとか一通り部屋で覚えると、もちろん今度はお披露目タイムである。客を捕まえ、ダサ奇妙な動きをゲラゲラ笑われながら超真剣に披露。しかもアンコールにも答えまくりのエンドレスリピートである。気が付くと汗だくになっていた。・・・うおお、XAXのボクササイズ並に疲れた。軽く流すつもりだったのに。

映画ではウンパ・ルンパ族の人間が無限に出てくるのだが、一人の役者が全てをこなしている。中にはアニマトロニクスも混じっており、それらを含めたウンパ・ルンパ達の映像は圧巻で、何度観ても観飽きない。色々あるが、何と言っても「ウッ! ハッ!」な感じのAugustasの歌と踊りがやはりダントツ一番である。

Billy'sがムリ目な人は、ぜひ楽しいウンパ・ルンパ・ダンスを(笑)。

◇ 「チャーリーとチョコレート工場」サウンドトラック・・・[Watch]のメイキングフィルムで、Augustas Gloopの踊りがちょびっとだけ観られる。

ジロいぬのひみつのお気に入り

2007年06月18日 | どうぶつ
この世に生を受けて5ヶ月半。むくむくと育ち、最近めっきりオトナ顔のジロいぬである。「シカ顔」とか「ちっこい目」とか散々言われつつも、この1ヶ月半の間にねいちゃんから色んなおもちゃを貢いでもらってきた。

A.「木のやつ」
素朴な天然木のダンベル。最初は真ん中に白いロープがぐるぐる巻きになっていた。購入当時は上手い具合に真ん中をくわえることができたのだが、今となっては顔に比例して顎もデカくなってしまい、端っこしかくわえられない。ぐるぐる巻きのロープは日々格闘の末、まんまと引きはがすことに大成功。ジロいぬはそのビロビロのズルズルを大層気に入って引きずり回していたのだが、瞬く間にネズミ色に汚れ果て、汚いので或る日突如ねいちゃんに排除されてしまった。・・・途端に輝きを失う「木のやつ」(遠い目)。今ではくわえにくいこともあって、更に魅力半減である。しかし乳歯の生え変わりで歯茎が無性にかゆかったとき、存分にガリガリしても誰からも叱られなかった救世主的アイテムである。

B.「ハートのやつ」
これまでの人生の苦楽を共にしてきた、ジロいぬの心の友。ペットショップからジロいぬにくっついて我が家へやってきた。ジロいぬが1ヶ月目で親兄弟と別れてから、4ヶ月目に我々に引き取られるまでの3ヶ月間、実にペットショップの狭いガラスケースの中で、この「ハートのやつ」だけがジロいぬの唯一無二の心の拠り処であった。ジロいぬの苛立ちも甘えも悲しみも八つ当たりも、すべてこの心の広い「ハートのやつ」が一人で受けとめてきた。・・・ありがとう、「ハートのやつ」。ジロいぬの全てを見てきた「ハートのやつ」は依然ジロいぬのnanny的存在で、現役バリバリのお気に入りを務めている。毎日舐め倒され噛み倒されているが、何故か驚異的なまでに頑丈だ。しかしたとえボロボロになったとしても、コイツだけはジロいぬから奪うまい。ジロいぬよ、存分に舐め倒して噛み倒しなさい。あんまり触りたくないけど。・・・ちなみにハートの部分は、運が良いと「パヒ♪」と素敵な音がする。鳴るともちろん、ちょっぴり嬉しい。

C。「ぽんぽこボール」
ぽんぽこ跳ねるので、「ぽんぽこボール」である。柔らかくて中が空洞なので、大きさの割にくわえやすい。ゴムには嘘くさいピーナッツバターの匂いが仕込んであるが、犬的に喜んでいる様子はまったくない。いまだ何度教えてもやる気を見せない「フセ」とは異なり、このボールだけは何も教えていないのに投げたら最初から持って帰ってきた。更にねいちゃんに手渡すと派手に褒めてもらえるので、とても立派な気持ちに。が、3回くらい繰り返すととっとと飽き、途中でボールを置いて何処かへ行ってしまう。残念ながらそのうちあっさり見捨てられそうな、切ない予感のぽんぽこボールである。・・・他に、噛むとプヒプヒ鳴る「ちっこいボール」というのもある。しかしちっこいが故にすぐベッドの下に転がり込んでしまい、現在も行方不明中。ぽんぽこボール亡き後のお株は「ちっこいボール」が奪うのか。

・・・以上、これらのアイテムは朝誰かが起きてくると、どれかをくわえて自慢げに見せることになっている。


自分用メモ:アヒルのゆーこの下痢は、先週の初めに治った。食欲が出てから下痢(普段も濡れ砂のようなうんちはするが、イヤな匂いがしていた)は緑便へと悪化したので、強肝剤を処方してもらう。緑便には強肝剤+フォーミュラーAI(栄養剤)の組み合わせがベスト。今回少し経過の順序が妙だった。通常は、緑便→食欲減退→ぐったり/体重激減→強制給餌/薬の投与→食欲・病状の回復、の順を辿る。今回は、下痢→食欲減退→ぐったり→強制給餌→食欲回復/緑便→体重回復→強肝剤投与→緑便完治、の順。今はすっかり元気で、がつがつ食べてはエラソーにしている。あのしおらしい可憐なナリは見る影もない。羽根の水はじきは悪い。胸を汚していて、肛門周りの羽根が薄い。羽根の量が減っている。換羽にしては季節が変。

てびち!!!

2007年06月15日 | 食べ物
沖縄料理屋へ行ったらてびちがあった。てびち! TVでしか見たことがない。一度食べてみたいと思っていた。頼んでみた。

出てきた。デカい。TVではアイドルが「実はてびちが好きなんです(キャー)」みたいな感じでちびり、と齧っていたが、なんの! 食べる処が一杯である。てっきり、大きな骨のまわりにちょびっとだけ肉がついているものなのかと思っていたのに、肉(あれは肉と言うのか?)の合間に骨がバラバラと詰まっているような状態。手にもって一生懸命食べるうちに、手も口周りもてびちまみれになる。てびちびちびちである。

なんかこうラーメンのチャーシューっぽい味なのだが、ずっとその味なので次第に飽きてくる。でもてびちは終わらない。ひたすら在る。在り続ける。ううう。らふてーも頼んだけど、これ、お腹いっぱいになるよ、てびちで精一杯だよ、どうするどうする、と言っていたら、らふてーは知らぬ間にキャンセルされていた。・・・こういう時優柔不断はいけません。

想像上のてびちはもっと固くて軟骨っぽいイメージだったが、実際のてびちはたっぷりぶりぶりの果てしないゼラチン質の塊だということが分かった。やっぱり未知のモノは食べてみないとね。・・・今晩寝たら明日はきっとお肌びちびちだ。またはりぬちんだらかぬしゃまよ。

ものごとの成り方

2007年06月09日 | 日常
かつて古いホテルだったというレトロなビルの一角で、手作りの木の椅子を供して小さなお茶会が開かれている、と聞いた。覗いてみると、なにやらものを作る人たちが集まっていて、ちょっと面白い話が繰り広げられていた。ものを作る人たちは、こつこつしている。穏やかな物腰で、やりたいことを大事に両手にたずさえている。

真行草の話をしてみた。普通ものごとは、真行草の順でできていくように言われている。基礎や細部をものにしてから、だんだん応用を利かせて崩していくやり方だ。最初はぎこちなくても真から始めなければ、一足飛びに草にトライしてもぐだぐだになる。しかし実際には草行真の順でできていくものもある。まづ大局を捉えてから、徐々に細部をうめていくやり方だ。この場合、出来不出来に関わらずとにかく「なんとかできる」のが先決。そこから細部をきちんと培っていく。・・・さてみなさんはどちらなのでしょう。

木で椅子を作る人はまさしく真行草だと答えた。しかし庭を作る人は草行真。パンを作る人も草行真。・・・意外にも逆順の方が多い。ちなみに木工をする人は、有機野菜を作る人とどうも方向性が似ているらしい。その場には居なかったけど、有機野菜を作る人は真行草なんだろうか。

こういうのは、その人の「ひととなり」と密接な関わりがありそうな気がする。真行草タイプの人が真行草を求める仕事に就けば、きっと初めからしっくりくるにちがいない。逆に草行真を求める仕事に就けば、向かないと思って早々に止めてしまうか、或は何年も従事するうちに草行真の捉え方が身につくのだろう。

いづれにせよどちら側から入ろうと、ひとつ処で満足していてはものごとは「成って」こない。それだけは言えるのではないかな。・・・そんな気がした。

他人の英文を直す。

2007年06月07日 | 日常
人の英文を直すのってむづかしい。

私はネイティブではないので私の英語はパーフェクトなんかではない。私でいいのか?、といつも思う。しかし世の中は「ベスト」が無理な場合は「マシな方」で回っているのだから仕様がない。

ネイティブではないとはいえ、文を見れば、こうは言わないなあ、とか、それを言うならこう、とか、思う処が色々でてくる。もっと他に良い言い方はないものかと辞書を引き、いくつもの見知った言い回しの中から、これ、と思う処を当てはめたりもする。

一文をいじると、前後の繋がりが不自然になるので、既に直したひとつ手前の文章も再度いじることになる。表現のフォーマル~カジュアル度も揃えなくてはならない。そうこうしているうちに、本人が書いた文章とはかなり異なる文章が出来上がってしまうことになる。暫し躊躇しつつもそれを返すと、目にした本人は、そんなに間違っていたのか!!!、とショックを受けるハメになる。・・・いや、そうじゃないんです。そうでもあるんだけど。(一部通じない処もあったけど)むしろ間違っているというより、変な言い方が多くて分かりにくくなっていたというか。うーん。

本人の原文を尊重して、なるべく原型を留めるようにして直すと、なんというかこう、英作文の匂いがぷんぷんするようなぎくしゃくしたナリで終わってしまう。直す側の技量が足りないと言われればそれまでだが、それでは手間暇掛けて直した意味がない。その文を読む相手先にも依然格好の悪いままだし、本人の勉強にもならないし、私にとってもただの時間の無駄遣いだ。・・・でももしかすると、多少妙ちくりんでも、軽いやりとりの場合は真意が伝わっていれば業務に支障はない訳だから、むしろ大事なのは「本人の安心感」だったりするのかもしれない。

過去にネイティブやバイリンガルの人に自分の英文を見てもらったことがある。いつもあまり修正なしに返ってきた。気を遣ってくれたのか、忙しかったのか、その両方なのか。今でも覚えているのは、とある小さなパンフレットだ。修正箇所がゼロで返ってきた。流石に、なんと不親切な、と内心憤慨した。お願いしている身ではあるけれど、チェックを引き受けたからにはちゃんとやってくれないと困る。ましてや一般の目に晒されるものなのに、それでいいのか、と。自分は、ヘンな言い回しが放ったらかしになっているパンフを見掛けると、きっといい加減な仕事をする組織なんだろうな、と思うもの。

閑話休題。いずれにせよ、私はちゃんと直して欲しい方である。ずたずたに直されていても、それが納得いくものだったら非常に有り難く思うし、次からこういう風に書こうと何回も読み返す。でも他人は私ではないし、他人と言っても一様ではない。喜ぶ人も嫌がる人も居るだろう。でもこっちとしてはいい加減なことはしたくないしなあ。

・・・そういう訳で加減がむづかしい。

チランジアの花が咲いた。

2007年06月03日 | 日常
チランジア(エアプランツ)の花が咲いた。この株が花咲くのは初めてだ。普通は株が分かれて3年以内くらいに咲くらしいが、これは買ってからですらもっと経っているような気がする。もとい、こないだまで時折外の葉が枯れては剥がれたりしていて、まだ咲くほどの体力があるようには見えなかった。意外だ。

チランジアは花が咲くと、次は株が分かれる。まあそこも体力の要り処なので、腐りやすくなったり枯れやすくなったりする。というか、前のはそこで水加減が悪くて枯らしてしまった(残念)。

下にぱらぱらと種らしきものが落ちていた。ほこりのような、細かい消しカスのような。調べてみると、種から育てるには、湿したコルクに種を張って朝晩水やリをしないといけないらしい。しかも株分かれしたものと違って(葉から)水分や養分が得られないので、生育が恐ろしく遅いらしい。・・・ちょっとそそられたけど、手を出すのは止めておこう。

取り敢えず今回は、この後に来るべき分裂をつつがなく成功させることにしてみる。

髪の毛一本

2007年06月02日 | 日常
先日食堂でおひたしを食べていたら、中から髪の毛が出てきた。・・・あー髪の毛だー、と思ったので、おひたしコーナーへ行って、係のおばさんに言って替えてもらい、すたすたと戻ってきた。そしたらおばさんがすっ飛んで来て、名前と部署名を教えて欲しいと言う。多分謝りの電話を入れるんだろうな、と思いつつ、紙に名前を書いた。

案の定、午后に電話が掛かってきた。声から察するに若い女の子だった。多分作った人なんだろう。問題は、その人が、尋常ならぬ様相でしどろもどろだったことだ。

大体、私はそんなに怒っていない。あれだけ厳重な格好をしていても(給食当番のように頭がすっぽり隠れる帽子を被って大きなマスクをしている。目しか出ていない)、髪の毛が混じることがあるのか、帽子を被り直した拍子に落ちたのかな、と思った程度だ。まあ気持ち悪くないといえば嘘になるけれど、家でなら「髪の毛やわ」「あらまあ出しといて」で済む。ここは要人を招いての東山の料亭でもホテルの最上階のレストランでもない。殺人的忙しさの昼の個人向け大衆食堂だ。「あらまあ」に毛が生えた程度の話だ。

でもその人のビビり様といったら尋常ではなかった。咄嗟に、気にしないで下さい、と言おうかと思った。でも気にしないでください、というのは相応しくない気がした。一応まずいことなんだし、気に掛ける必要はある。そうではなく、気に病まないでほしい、というのが真意である。でも、気に病まないで下さい、ではなんだか大袈裟すぎる。いっそ明るく、今度から気をつけてくださいね、と言うのがよいかものしれない。しかし今の精神状態の彼女には、それでもきつそうだ。或は最初に、わざわざご丁寧に、とのんびり言ったのが、逆にものごっついイヤミに聞こえてしまったのだろうか。・・・と、うだうだ考えている内に、詫びの電話は終わってしまった。こういう時、頭の回転が遅いと不便だ。

・・・私はそんなに気にしてませんから。そう言えば良かったのかもしれない。それでちょっとはホッとして貰えたのかもしれない。今となってはそう思う。もとい、うだうだと考えている間、時折頼りなく頷く以外、私は殆ど黙っていた。あの沈黙は、怖いよなあ。

食堂の裏側が気になった。往年のヤンキーも震え上がるほどの体育会系の世界でないことを祈る。