ブログ バジリカ

今日もシャランラ♪

新TOEICを受けてきた

2006年05月28日 | 日常
自らお金を払って、勤めてもいない会社の会議変更を確認し、応募する気もない仕事募集案内をチェックし、知り合いでもない職員の推薦状依頼等を読みまくってきた。新TOEICの第一回目である。前にみやパパさんから「テスト内容が変わるらしい」とかいう話を聞いたので、久しぶりに重い腰を上げてギリギリ最后の奴に申し込んだのが、消印が間に合わず、変更後の新形式初回に回されてしまったのだ(・・・ガックリ)。仕方がないので「新TOEICテスト 一発で正解がわかる」とかいう姑息なタイトルの参考書を購入。しかし、iTunesに音声を移せないまま一度も聞かずに当日を迎え(多分コピーできないようになってるんだと思う)、試験会場で問題形式だけ目でチェックして本番を受けた(・・・ダメ野郎;)。心ならずも人柱状態になったので、とりあえずレポートしてみる。

まづ表書の名前周辺の情報提供要求の量が増えていて鬱陶しい。「職業・経歴について」とか「英語学習経験について」とか、役職や英語運用上の障害頻度など、赤裸々に答える義務がある(任意回答などではない)。3分でマークし終えなくてはならないらしいが、私はそれでは足りなかった。

リスニングには今回から英語圏各国のアクセントが適用されるとの話だったが、正直忙しいのであんまり構ってられないって感じ。私は米英語外が苦手なのだけれど、一番分からない人で、「ハーマイオニー > 新TOEIC > ハリー・ポッター」くらいの分からなさだった(当社比:ハーたんの英語分からん;)。8割近くの英国系アクセントは所謂「米英語より分かりやすいからイギリス英語の方が好きなんだけど」とか言うときに引き合いに出されるタイプの、割と難易度の低い発音のイギリス英語だと思う。他、Aussie 等も本当に困るアイアイした発音はひとつもなかった。それを言えば、今までの米英語だって Texan の drawl とか入ってなかったし。とりあえず、アクセントが多様になっても、実際にその辺で話されている英語とは違うレベル(ドラマとかアナウンスとかの英語)をキープしたままなのは確かだ。まあそんなことより、大方頭の処理能力の方が問題なのは言わずもがなである(溜息)。

リスニングでは、ナレーションと選択肢読み上げがある訳だけれど、選択肢読み上げの時には次の設問を読んでいると思しき人が非常に多かった。何故分かるかというと、選択肢読み上げの段階で既に次のページを一斉に繰る音がするから。最近その辺のタクティクスの伝播が徹底しているらしい。後は別に、急に内容がむづかしくなったとか言う感じでもなかった(ややこしい奴はややこしいし、分かりやすい奴は分かりやすい)。あ、最初の絵の問題は、選択肢の焦点が昔よりはっきりしたように思う(易しい割に、どうとも取れる tricky な選択肢が昔はあったような気が)。数を減らした分サービス問題に徹したのかも。

リーディングは、どうなんだろう。十年以上前に受けた頃のはチラシにせよ案内にせよ、もっとシンプルだったような記憶があるけれど、最后に受けた奴(三年前)に比べると、これも難易度はそう変化なかったような気がする。もちろん、読解問題が増えて(40→48)、その内20問がダブルパッセージになっていた訳だけれど。まあ量はあるので、確かにしんどい(半分あたりでまづ一回ヤになって顔を上げる)。ひとつだけ新聞記事があって、それだけTOEICらしからぬ骨のある文章だった(最后のダブルパッセージセクションの、更に一番最后、2パッセージの1つめの文。2つめの文はそれを読んだ人からのメール文でTOEICらしい普通の文章だった)。三年前に受けた時もひとつだけ骨のある文章があったように思うので、やはり難易度はそう変わった訳ではないように思う。全体の量としては、増えたのだろうか。前回の量をよく覚えていないのでいまひとつ分からない。・・・どっかで誰かが書いているでしょう、多分。

そういう訳で疲れた。途中で休憩が欲しい。仕事だったら途中で、ストレッチしたりお茶を飲んだりトイレに行ったり出来るのにな(20分に一回は体を動かした方がいいそうだよ。エコノミー症候群を起こしそうだよ全く)。グッタリだ。暫く受けたくない。

逃げる話

2006年05月24日 | 日常
堤防のそばの小学校に通っていた人から、こんな話を聞いた。

あるとき大雨で河川敷がみるみる水で埋まってしまい、あわや決壊まであと1~2m、という処まできたことがあったそうだ。いつものように堤防のそばの小学校へ行くと、先生達が校門に集まっていて、「早く校舎に入って。1階はもう駄目だから、すぐ2階以上に上がって」と、誘導している。決壊に備えて避難するのかと思いきや、先生達の手にはなぜかトングとゴミ袋。先生は言った。「1階は虫やヘビで一杯だから!!!」

・・・広大な河川敷には青々とした雑草が一面生い茂り、色んな生物がそれぞれに生命活動を営んでいた。けれど今日に限って、なぜか河の水がハンパなく迫ってくる。生物たちは異変に気付き、こりゃいかん、と土手の方へ逃げ始めた。土手の斜面をのぼりだしても、水はまだ追ってくる。増えゆく逃亡生物数。気付けば広い河川敷に暮らしていた大なり小なりの生物は、すさまじい規模で堤防を越え、堤防のそばの小学校の敷地へとぞろぞろ降りていくことに(汗)。激しい雨の降りしきる校庭を更に逃げゆくと、なんとそこには地面の乾いた校舎が口を開けて建っているではないか。虫もヘビも誰も彼も、「た、助かった!」とばかりに校舎へ逃げ込んだ。校舎の中は、とても快適だった。

朝、用務員さんの開けた校舎へ先生がやってくると、1階は河川敷からの避難民でうじゃうじゃとひしめいていた(ブラヴィー!)。

オケラだってミミズだってアメンボだって、みんなみんな生きているんだ、友達にはちょっと厳しいんだけど。

花月デビュー

2006年05月22日 | 茶道
今日のお茶のお稽古は生徒が5人揃ったので、平花月をやりましょう、ということになった。5名で何度もくじを引きながら、亭主と正客を入れ替わり立ち代わり演じる、ゲームというか訓練というか、そういう機敏性を養うお点前である。だからお茶碗やお道具の拝見もなく、お茶も一服が一口半。テキパキとやるものであるらしい。

噂には聞いていたけれど、歩き方や移動経路など、なかなかややこしい。出かけていく時が左足越えで、戻ってくる時が右足越え。普段のお点前と逆だ(・・・と今頃気が付きましたよ;)。内心何時当たるのかとヒヤヒヤしていたものの、なかなか花の札(お茶を立てる人)も月の札(お茶を飲む人)も引かないのでホッとしていたら、最后に先生が気を遣って花の役を回して下さった。仕舞い花。そしてあわあわと間違えて、結局よく分からないまま終わってしまった(あらー;)。

まだ真冬の大炉(←大きい炉でやる、あったか仕様のお点前。普段のお点前とは何かと位置が逆になっていて混乱する)の初チャレンジの時の方が、食い入るように人様の奴を見詰めて果敢に取り組めたような気がする。花月は複数の人間が同時に動いているので、どの動きにヤマを張ってよいのか分からない。ついでに全然アタマ動かない(汗)。

今度機会のある時はもうちょっと足手まといにならないようにしたいものだ。もとい、ベテランの方々が一糸乱れず完璧に動く様も拝見してみたい気がする。・・・きっとジャグリングのようで息を飲むのでは。

モデルさん作戦

2006年05月18日 | 日常
仕事パソコンは何故か「モデル」が変換できない。名詞の後に「もでる」と打って変換すると「も出る」と出してしまうのだ。カタカナで辞書登録をし直そうとしても、「既に登録されています」と言われてしまい、どうしようもない。何度「も出る」「も出る」「も出る」と打ったことか。・・・邪魔くさ~い。「モデル」ごときのために、わざわざカタカナ変換ショートカットを使うなんて。

で、最近、ちょっといいワザを思いついた。それは「モデルさん作戦」。「もでるさん」と打って変換すると、流石にこればかりは「モデルさん」と出してくれる。それから2ストロークで、ちゃちゃっと「さん」を消すのだ。こっちの方が気分的に楽な感じ。

(例)
言語構造の数理モデルさん
平成18年度 の環境技術実証モデルさん
真核生物遺伝子発見用の隠れマルコフモデルさん

・・・萌え~(笑)。門外漢には何がなんだかよく分からないタームでも、これでグッと親しみやすく。仕事で疲れたときこそ、一瞬のほのぼの感を。

ちんちん小袴、夜も更け候。

2006年05月09日 | 不思議ちゃん
GWは体調を崩して結局泊まりに出れず、最后にのろのろと部屋の片付けをした。暫く整理していなかったのでモノが増え、自室のみならず隣の部屋にまでテリトリーが広がってしまっていたのだ。定住暮らしだったり部屋が余っていたりする家のいい処は、ありったけモノをキープできる処だ。そして悪い処は、ありったけモノが溜まってしまう処だ。この服まだ着るかな?→うーん、考えるの邪魔臭い→とりあえず隣の部屋に保留ってことで、といった具合に。

一旦目的が定まると合理的に動く方なので、隣の部屋を一掃するための脳内基準を策定、そう迷わずに捨てていくことができた(これが普段は出来ないのよね;)。しかしである。片付けるときは何とも思わなかったのに、その晩はどうも気管の辺りがヒリヒリして、なかなか寝付けないのだった。やっと寝たと思ったら、今度は捨てたものに起こされてしまう。小物やゴミが枕元までやってきては私に悪戯をするのだ。手で払うとぱっと逃げる。気持ち悪くて仕方がない。寝たと思ったらまた触られる。その繰り返し。遂に音を上げて階下の家族に告げにいったが、なんら解決策は見つからず。戻ってくると、玄関ホールに積み上げられた私のゴミが、あちこちはぜくり返っていた。部屋まで戻れば、今度は捨てた服を羽織った亡者が襲ってくる。慌てて九字を切る。そうして際限なく闘っているうちに目が覚めた。朝だった。・・・寝た気がしない。

まるで小泉八雲の「ちんちん小袴」だな、と思った。ちんちん小袴、夜も更け候。お静まれ姫君、やあとんとん。夜な夜な小さな侍達がそう唱えながら武家の奥方の前に現れ、畳の上を歩いていく。子供の頃に読んだ怪談話だ。正体は奥方が横着して畳の隙間にねじ込んだ、使用済みの爪楊枝だった。ゴミはちゃんと捨てましょう。・・・おかしいな、シチュエーションが逆だよ。

ちなみに紙類本類には手をつけていない。今回の冬服の陣には勝ったけど、これ、捨てたら何されるんだろう。本は当たったら痛そうなんだけど。

遺品

2006年05月06日 | 日常
昨年末亡くなった祖母の家を親戚と共に整理しにいった。整理しにいったというか、荒らしにいったというか。家は潰すので、残しておきたいもの・欲しいものだけをほじくりだすのが目的である。欲しい人が欲しいものを持って帰る。

元々整理は悪かったようだが、すさまじいまでに色々と残っていた。従兄弟が生まれて初めて書いたであろう謎文字の手紙とか、弟が勉強机を買ってもらった時のヘタクソなお礼状とか(小さい「っ」とか抜けまくり)、私が学校の成績を全部晒して語ってる年賀状とか、イヤガラセのように出てくる出てくる(笑)。my成績晒し年賀状は、従兄弟その1が何処かで見つけてきて「はい、」と手渡してきた。むがー!!! 祖母の口は固くとも、遺品に口止めは効かないだなんて、中一の頃は思いもよらなかった!!! それにしてもこの手紙や手作りプレゼント等の残されぶり、100年の長きに渡る膨大な写真の数々、我々孫や親達は本当に愛されていたのだなあ、としみじみする。

その他、祖父の各種勲章を発見。長い間どこにあるか謎とされてきたのだが、従兄弟その2が場所を覚えていたのだ。曰く、「昔お祖父ちゃんに見せてもらったんだけど、カッコいいので時々一人内緒で取り出して見てた」とのこと。果たして彼の指摘通りの場所から出てきた。スゴイ。・・・こういうとき、孫を沢山作っとくと役に立つ、確率的に。それとか、出征時のものすごい気合いの入った筆書きの遺書なんぞも出てきた。我は鬼畜米英を伐つべくして、とか、一部バリバリ現代にそぐわない表現箇所はあるものの、今時の日本であれだけの決死の覚悟表明をすることなんてないだろう。あれは直系筋の方で家宝にして戴くとして。ま、生きて帰ってきて、当時はまだ善人顔のトッポい野中広務なんかと同じ冊子に載っていたりするのだけれども(因みに若い頃の祖父はちょっとクロトワ似 w)。・・・そうやって写真やら仕事の資料やらが出てくると、祖父母が具体的に何をやっていたのか段々分かってくるのだが、直系筋は不思議なもので、一代飛んで祖父母の跡を分散して継いでいる感じである。なんだかこう、いいよねえそれ、という気分になる。私は祖母のやたら好奇心の強かった処とか、やりたい事を好きにやる気質とかだけを受け継いでる感じだ。気楽なもんだな。祖母と同じくデカい鳥も庭で飼ってるしな(笑)。

他には、書道の指南書全集とか文学全集とかシルクロード全集とか野草全集とか、流石共働き、大人買いされた本がどっさり残っていた。弟が筑摩書房の現代日本文學全集から有島武郎を一冊抜いてきたのだが、漢字も平仮名も旧字で、実に実に涙がちょちょ切れるくらい渋かったりする(漢字なんて半分台湾みたい。裏表紙からして一冊“350圓”の世界だもん)。これは後から無性に欲しくなって、母に今度とってきて貰うよう頼んだ。場所がアレなので庭の蔵に入れることになるかもしれないが、あれはちょっと心情的に捨てるに忍びない。

他、着物とか壷とか掛け軸とか。昔はお金の掛け捨てになるような娯楽や嗜好品が少なかったから、無茶苦茶上等でないにせよ、“ちゃんとした日本の本物”を楽しむ余裕があった(というかそっちが文化の主流だった)。そうしたものは世代を超え、価値を違えずこうして残されている。ああ、子供の頃はまるで分からなかったけれど、ふーんこういう趣味かぁ、とか、お、これ中々いいねえ、とか、こちら側も思う程度には育っている。でもどうだろう。今じゃ和物といえば1coinショップで買えるようなな紛い物が幅を利かせており、洋風の居住環境に持ち込まれるのはちょっと良くて作家にアレンジされた現代風の小振りのものばかり。人は床の間すらない狭い住居から狭い住居へと転居を繰り返し、その都度新しいプラスチックに囲まれ、古くて高くて嵩張る“本物”は敬遠される。同じ金を出すなら最新のブランドものや電化製品、そしてそれらは時と共に廃棄され、次代に残ることはない。きっと私が死ぬ頃には、あまり“まともなもの”は一般レベルで残らなくなっているのだろう。そして茶や書を嗜む者はそれだけで少数の数奇者として特別視され、庶民全体の見識レベルがオモチャしか見た事のないようなコドモ並に幼稚なものに成り下がっているのに違いない。その国の本物を支えるのは、一部の専門家でも数奇者でもなく庶民全体の嗜好レベルの高さなのに。どうなる日本。

・・・と大風呂敷を広げた処で私も日本文化を守るべく(笑)、祖母の遺品を数点貰ってきた。信楽の徳利と夏物の和装バッグ、ついでにミッドセンチュリーの茶色い耐熱ガラスのカップ&ソーサー。徳利は誰から貰ったのか知らないが、成りといい窪といい釉の垂れ具合といい、実に私好みだった。一輪挿しになる。祖母もそうして使っただろう。一見カゴ風に細かく編まれた夏物の和装バッグは、職人の端正な手仕事ぶりが実に美しい。とてもきれいな状態で出て来たのだが、中の詰め物の新聞紙を見ると昭和五十五年となっていた。あの湿気た押し入れでよくぞ無事だったものだ。・・・これはもうオトナな浴衣を仕立てるしかないな(絽の着物でも充分いけそうだけど)。丁度帯も夏物を付け帯にしたのがあったようだし。もといこれ、二十代だったらチグハグすぎて持てなかった。でも後はこの先八十九十までいけるよ。やー、いいもん貰っちゃった。お祖母ちゃん、ありがとうね。大事に使うね。

本日はスープカレー

2006年05月01日 | 食べ物
先日、念願のスープカレーを食べた。「心」という処のやつ。出て来たスープカレーは、トマトベースのスープで大きな具がごろんごろん入っている。骨付き鶏肉が大きい。ほぐしながらスープを吸わせて食べていると、ごはん用のスープが足りなくなる。スープは沢山スパイスが入っている様子。これは好き。でももう少し旨味と塩味を足して欲しい感じだ。

友達は美味しいと言っていたけれど、期待が膨らみまくりだった私としては少々物足りなかった。えー、みんなが騒いでるスープカレーってこの程度なの?、と。あるいはその日、浮腫みと口内炎を抱え体調が最悪だったせいかもしれない。あるいは道下に行けば、もっと夢のように美味しいスープカレーにありつけるのかもしれない。

早い目に寄ったのだけれど、店を出る頃には表に行列ができていた。大泉洋プロデュースの奴は美味しいんだろうか。関西のどっかに「ラーメン博物館」ならぬ「スープカレー博物館」みたいなの、作ってくれないかな。他の奴も食べてみたい。

本日のスープカレー