ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

子育てに豊かな愛情を

2013年03月29日 | 随筆・短歌
 2040年の人口の推計を労働省が発表しました。それに依ると65歳以上の人口が36.1%となり、益々少子高齢化が進むとありました。大都会東京でも人口は減少し、周辺のベッドタウンの高齢化も見過ごせません。
 人口が減ると、高齢者も家庭の主婦も、日本の労働力を支える為に働かなければなません。最近の若者の低賃金や、不安定な労働形態で、結婚もままならず、運良く結婚しても、共働きをしないと子育てができなくなりつつあります。少子化に益々歯止めが掛からなくなる現状を、私は憂えています。加えて離婚の増加が止まりません。
 政府も如何にして子育てしやすい社会にするかに力を注ぎ始めています。私は現在の日本社会の様子を見て、更に一歩踏み込んで、子供をどのように育てるかということを、基本に立ち返ってもう一度しっかりと考えないといけないのではないかと思っています。
 私は子育ての基本は、愛情であると思っています。この点について、反対する人は誰もいないでしょう。けれども現実はその通りに実践されているでしょうか。胎兒も生まれたばかりの子どもも、母親の心臓の鼓動を聞いて安心するのだと言われています。
 美智子皇后さまが皇太子妃として、皇太子殿下徳仁親王をお育てになられていた頃、私には忘れられないお言葉が心に残っています。それは、ご公務で長期に外国へお出かけになる時、7ヶ月で独り残される皇太子殿下の寂しさを心配されて、「ナルちゃん憲法」と言って世話係へ書き置かれた何条かの中にあった次の言葉です。「一日に三回はしっかりと胸に抱きしめて欲しい」という項目があったのです。
 私も子育てをしなければならない時が来るのを予想する頃でしたから、それは心にしっかりとしみ込みました。では実際の子育てで、それを私が実行したかというと、何とも心もと無いのです。
 愛情を持って育てたと親は思っていても、子どもには母親が留守の場合、寂しい生活環境であるに違いありません。私は夫の両親と同居しており、熱心に孫を育ててくれており、何の心配も無い生活でした。それで愛情は十二分に足りていると思っていました。けれども、母親の愛情は余人をもって代えることの出来ないものがあります。お守りの人がいたとしても、母親としては、もっと細やかな愛情を注ぐ必要があるのです。則ち両親がいても共働きの場合、愛情不足になりがちだということです。「ナルちゃん憲法」は普遍の育児憲法だったのです。
 愛情は育児の根本ですから、義父母の手をかりないで、生まれて間もなく保育施設で子育てしなければならない親にとっては、一層大変です。保育園への送り迎えから、家事をして、その上一日三回しっかり抱いて、話を充分聞いてやり、親の愛情を存分に注がなければなりません。
 従って私は保育園でも低年齢児程、一人一人を一日三回位は、しっかり抱きしめて幼児の心の安定を図ってやって欲しいと思っています。愛する気持ちは充分にあっても、子供と居る時間が足りない親にとっては、やはり保育園での心の安定をお願いしなければなりません。
 小・中学校でも、心の教育を重視して、他人を思いやるという人間として最も大切なことを常に教えなければならないと思っています。愛情不足で育てられた為に、心が不安定となり、これがいじめや反社会的な子供が出る、一つの大きな要因だと私はそう思っています。子供たちをもっと外で大勢の友達と遊ばせるようにして、ゲームを制限して、地域での子供同士の健全な繋がりを、修得させてやる必要があると思っています。最近外で遊ぶ子供の姿がめっきり減りました。
 ところで先日一泊で温泉に行って来ました。帰りは朝早かったので、通学の高校生と一緒になりました。友だちらしい二人の女子高生が座席に並び、脇目も振らず古典の教科書を開いて勉強している様子を、感心して見ていました。やがて高校のある駅が近づいて来ると、二人はサッと教科書をカバンに入れました。これからは仲良く話しながら降りるのかと思いましたら、二人共無言でケータイを取り出し、一言の会話も無いままに、メールしながら降りて行きました。何だか繋がっているように見えたのは、外見だけで、お互い心はバラバラな現代社会の人間の、寂寞たる孤独感を見た思いでした。
 孤独死が問題になり、日頃からの人間同士の繋がりが大切だと言われている折りも折り、やがては老人になる若者の繋がりがこの状態だとしたら、行く末はいわずと知れています。
 つい最近、新聞にこんな記事がのっていました。アメリカのお話です。13歳の息子にスマホを持たせるに当たって、母親と息子が交わした契約書の一部です。「これはママのスマートフォン。ママが買ってあなたに貸している。」の他18の約束が書かれているそうです。「夜には親に返しなさい。学校に持って行かないこと。面と向かって言えないことはメールしないこと。ポルノは禁止。」そして18の約束の、14番目は「時々家において行きなさい。電話は生き物ではないし、あなたの一部でもない」17番目は「鳥の声を聞くこと。外を歩くこと。知らない人とも話をすること。検索しないで、感動出来ることを探しなさい。」と言うことでした。全てに母親の愛情と教育の理念が行きわたっています。私はこの母親に深い尊敬の念を持ちました。
 昨日久しぶりにテレビで「二十四の瞳」を見ました。何年ぶりかで、又深い感動を覚え、涙を流しました。やはり教育は愛情に基づくものでなくてはならないと、しみじみと思ったことです。


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心の籠もった贈り物

2013年03月21日 | 随筆・短歌
 様々なものが世の中にあふれますと、高級なものより、手作りの暖かさが有り難く、優しい心が伝わってくる思いがいたします。人間は贅沢ですから、手に入らない時は欲しい欲しいと思っていた高級バックよりも、友人の手作りの巾着などの方に心を引かれ、使う度にせっせと作って下さったその好意に感謝し、長く大切に使うようになります。
 又栞やブックカバーにしても、心を込めて選んだり手作りして下さったものは、何時も手元に置いて、その暖かさを愛しみ幸せ感に満ち足りる思いがします。
 まして手編みのアスコットタイとか、保険証や診察券などを入れるケースを、ご自分の絹の着物をほどいて、作って下さったなどは、手触りも柔らかく艶やかで、友人の好みが偲ばれて、一層温かい追憶へと誘ってくれます。
 別の友人達は、不自由な手で書いて下さる折々の絵手紙、また趣味の押し絵のハガキを下さる人もいます。私が頂いたものも、夫が頂いたものもありますが、それがハガキの場合は、大抵デスクの上の棚に、額に入れたり一寸したハガキ飾りにさして、しばらくは眺めて楽しみ、やがてファイルして想い出にします。絵画を描く人、高校時代の恩師から来る趣味の絵画のハガキ、友人からの、まだ天に向かって伸びをしている最中の、未完成のスカイツリーの写真も、その時しか写せないもので貴重です。オペラのアリアを歌う友人の絵はがき、○○に旅行したとか、○○展に行った記念の絵はがき、写真や絵画を趣味とする人の入選作品のハガキなど、皆ファイルの仲間です。
 ハガキファイルは表裏二枚綴られて、180枚も入りますから、パラパラめくるだけで往時を思い出し、慰められます。
 メールにしても、お誕生日のお祝いメールや、写真などは、コピーして、やはり個人別ファイルにしてあります。過去の往復メールなどは忘れやすいですが、記録は残りますから、アルバムと同じように、メールなども一部大切にしているのです。
 ところで私といったら、何も能がないので、心を込めて人にものを作って上げることも出来ず、かといって旅行記念に、と良い記念品を選ぶこともせず、これは私の心遣いの不足でしょうが、全く恥ずかしい限りなのです。
 人への贈り物を選ぶことは大変難しいことです。土地の名物を送るにしても、その品物は果たしてその人の好みに合って、喜んで頂けるものかどうか、等々迷い悩むことがしばしばです。
 しかし、相手の立場に立って考えて、相手を思いやる心で選べば、きっと喜んで頂けると考えて、負担に成らない程度のものを選ぶように心がけているつもりです。
 ささやかであっても、温かい心の籠もった贈り物は、忘れ得ぬ想い出をいつまでも残してくれます。何時も頂くばかりで、自分の感謝の心を伝えることが下手な私ですが、折しも入学・卒業・退職の時期でもあり、小さな贈り物に温かい心を載せて、届けてあげたいものだと思っています。

よい香り立たせてケーキ焼き上がる老いて独りの友に送らむ(某紙に掲載)


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寂しき唇

2013年03月13日 | 随筆・短歌
 東北の3.11大災害から2年が経ちました。新聞もテレビもこぞって特集を組んで、未だ癒えぬ人々の心や、遅々として進まない復興の様子を伝えています。
 世界中から、日本政府主催の追悼式に参加されたり、各国で励ましのメッセージを届けようと、子ども達まで折り紙を折ってくれたり、凧を揚げてくれていました。その優しさに胸が熱くなります。
 あれほどの大災害ですから、日々決して忘れてはいけないのですが、最近はともすると不幸な出来事として承知はしていても、少しずつ自分の日常生活から遠くなりつつあり「絆」という言葉も色褪せて見えるように思うのは私だけでしょうか。
 放射能の汚染瓦礫を、身近で燃やしては近くの田んぼの米に風評被害が出るとか、汚染されていない瓦礫さえ焼却を拒否して受け付けないとは、何とエゴイステックな国民が増えたのでしよう。
 全く無縁だった人も、又かつてお世話になったことが忘れられないという人も、ボランティアとして支援の手を差し伸べる一方で、全く対岸の火事の様に無関心であったり、中には復興への協力を妨げる様な言動をする人さえ現れるのはどうしたことでしょう。私の思い過ごしであって欲しいと祈るばかりです。
 東北の人々はおとなしく、忍耐強いので、じっと我慢しておられるようです。復興に携わる人や資材が不足しているようですが、特に現場では働く人が足りないと聞きます。積極的に全国に呼び掛けて、遠く沖縄からでも来て頂く必要があるのではないでしょうか。
 折しも政府は各自治体に土木工事予算を交付しますから、今災害地で働いて下さっている人の中には、自分の家の近くで働けるなら、といって抜けていく人が出るのではないかと心配です。一極集中で、東北の工事を先ず急ピッチで、最優先で行う事は、出来ないものでしょうか。
  一方「こんな所に高速道路は不要だ」と地元の人が言っている所なのに、国会議員の力で、高速道路が出来るという報道を見ました。また海岸線に沿って高い堤防ができたりするようですが、力の強い津波には、堅固な堤防も倒れる実験を先日見て、この莫大な費用を、そういった土木工事に使うよりも、素早く安全に逃げて助かる方策と費用に使う方が、有意義なのではないかと考えてしまいます。
 2年たってまだ仮説住宅に住んで居なければならないとは、余りにもお気の毒なことです。個々に様々な事情があって住宅の復興が遅れているのは解りますが、役所の手続きが煩雑であるためということもあるそうで、非常時に何と非合理的なお役所仕事なのでしょう。
 対応の遅れを言い訳したり、早急にと言いつつ進まないこの現実はどうしたら良いのでしょうか。
 3月11日の「ブログ 禅」に、「3.11を迎えて思う」という副題で、禅文化研究所の所長西村恵信氏が「実存的課題」として、三つあげられていました。 
『一つは、「自然に対する畏敬の念」を持ち続けること。「反自然的」な道を模索してはいけない。』と。災害も自然現象なのだから、高いコンクリートの堤防を張り巡らせるなどは、反自然的なものといえましょう。
『第二には「人間の弱さの自覚」人間は一人では生きて行けないことを自覚し、助け合わなければならないこと』本当に情けないくらい自己本位な人が増えています。政治家にも同じ自覚を持って欲しいものです。遠くない将来、又大きな地震が予想されているのですから。
 『第三には科学神話に酔いしれた現代人の「傲慢についての反省」そして原発は絶対廃止すべきである。自然から与えられるエネルギーを利用すること』ということでした。
 私は特にこの第三に強く引きつけられました。原発で出される有害廃棄物の無害化の方法が解決されていないのに、毎日排出される廃棄物を積み上げているだけなのに、なぜ原発をもっと作りたがるのでしょう。電気は国民の節電で、何とか足りているではありませんか。折り良くメタンハイドレートの開発がなされましたが、これを超特急で実用化すべきでしょう。必要度の低い公共工事を止めて、この自然エネルギーの開発に可能な限りの投資をすべきでしょう。世界が注目している事業ですから、知力と財力を集中して、全人類の安全の為に成功させて欲しいものです。
 一方原発事故以来、原発の保証金や支援金を要求する人が増えて、よこせ、よこせという言葉を言う唇が寂しいです。
 ある資料に依ると、チェルノブイリで被災した人の中に、危険区域だから避難するようにいわれて、避難した人と、居座って動かなかった人と、寿命を比べたら、居座った人の方が長生きだったそうです。原因は転居によるストレスだということです。今は、ストレスががんの原因では、と言われる位ですし、特に老人の転居は命を縮め、認知症になるリスクが大きいと言われています。
 避難区域でないのに自主避難して、生活が苦しいから援助、若しくは補償して、と言う人がいます。そのように家族がバラバラに暮らす事によるストレスを考えると、子どもにも家族全体にも良いわけがありません。早く帰って共に暮らして、ストレスの少ない健康な暮らしに戻って欲しいと願うばかりです。
 専門家がその責任において、「安全」と認定している地域について、過度に不信や不安に陥って、結果的に我が身の不幸を呼び込まないように、しっかり考え行動して欲しいと願っています。


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花束を捧げる時

2013年03月02日 | 随筆・短歌
 先の大戦の記憶を持っている人が少なくなりました。私も終戦を迎えたのは小学校の時でしたから、当時の真実を知るためには、現在生存されている方の証言や、書籍の記録から推察するしかありません。
 そんな中に、次のような美しい話が目にとまりました。戦争が始まって初期の頃、日本軍は破竹の勢いで東南アジアへ攻め込んで行っていた頃の話です。マレー沖海戦という激しい戦いがありました。
 「レパルス」と「プリンス・オブ・ウェールス」のイギリスの戦艦二隻を発見し、飛行機から爆弾や魚雷を落とす日本軍と、艦上から日本機を狙い撃ちするイギリス軍と、約三時間余りの激しい戦いがありました。結局装備が整っていた戦艦も、日本海軍航空隊の激しい攻撃に、遂に沈没しました。沈み行く艦と艦長や提督も最後を共にしたのです。
 日本機は、二隻の戦艦の沈没を見届けると、翼をふって英海軍将兵の敢闘をたたえながら、雲間に姿を消しました。そして翌日、戦果を確認の為に飛来した鹿屋(かのや)航空隊の壱岐春記大尉は、二束の野の花を戦場に投下しました。一束は日本武士道の戦士のため、もう一束は、最後まで勇敢に戦った英国騎士道の戦士達のために捧げられたそうです。(「太平洋戦争」中央公論社)
 たとえ野の花であっても、鎮魂の花束は美しく、心優しいものです。しかも、敵である兵士の為にも捧げられたという話に、私は胸を打たれました。その心の美しさ・優しさ・暖かさを思う時、心の奥深くに何時までも残るような感動を覚えたのです。
 鎮魂の花束といえば、皇后陛下の水仙の花束を思い出します。1995年1月17日に起きた「阪神淡路大震災」の時に、天皇・皇后両陛下がお揃いで、壊滅した菅原市場へお見舞いに行かれて、亡くなられた多くの方達に手を合わせられ、その後皇后陛下が、皇居のお庭で摘んで持参された水仙の花束を、そっと手向けられた事を思い出します。
 その日の朝、お手ずから摘み取られ、箱に入れてお付きの方に預けてあったものを、瓦礫の上に置かれたのでした。
 その後沖縄へ行かれた時も、東北の大災害のお見舞いの時も、何時も花束を捧げられる時は、丁寧に心を込めて深く礼をされるお姿から、心からの鎮魂の意志が伝わって来ます。これが時代を越えて伝えられて来た日本人の哀悼の心を伝える作法だと、何時もそう感じ、見習わなければと思っています。
 その後、東北の地宮城県をお見舞いされた時、津波で何も無くなった家の跡地に咲いた水仙を、「この水仙のように頑張りますから」とご婦人が皇后様に手渡され、両陛下のお見舞いへの感謝のメッセージとされたのですが、皇后様は東京の空港へ降り立たれた時も、しっかりとその水仙の花束をお手に握られていたのです。
 このように花束は優しい心を手渡すという、大変貴重な役割を担い、人から人へと渡され続けています。結婚式の花嫁のブーケ、新しく娘や息子となった子からの新しい親に手渡される花束、金婚・還暦・米寿などを祝う慶賀の花束もあります。そして亡くなった人への哀悼の花束、中には突然の痛ましい事故に際して、見知らぬ人からの花束もあり、その映像を見て手を合わせる多くの人々の優しい心が国の隅々まで伝わっていきます。
 人間はこんなに優しいのに、何故お金が欲しいだけで関係の無い人を殺傷したりするのでしょうか。そうなっていく原因は何処にあるのでしようか。教育・道徳・宗教など多くの原因が絡み合って、今日の世相が生まれて来ているのでしょうが、日本人の本来の心とは、どの様なものであったかを考えさせられる花束でした。

他人(ひと)の痛み察して赦す人であれ子に諭されて我が老いを知る(実名で某誌に掲載・再掲)


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