ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

貴女の趣味は?

2011年09月27日 | 随筆・短歌
 貴女の趣味は?と聞かれたら、私は、書くこと、そしてお料理、とでも言うでしょうか。多くの人達が様々な趣味を持って、心豊かに暮らしておいでの様子を見聞きすると、何となく頼りない私の趣味です。下手な短歌を詠んでは、NHK等の各種大会や日経新聞や地方紙に投稿しています。滅多に採って貰えないのですが、たまたま運良く掲載されれば嬉しくて・・・、いつの間にか毎日のように短歌を詠むようになりました。感性が鈍いので、少しも上達しません。
 一方二年まえの三月から始めたこのブログを書くことも楽しみの一つです。何を書くかは行き当たりバッタリで、ノートパソコンの蓋を開けてから考える、書き始めれば自然に指が動いて何とか結論まで行ってしまう、といったふうで、読んで下さっておられる方達には、申し訳ない気持と感謝の気持ちで一杯です。
 生きている兄弟姉妹の中で、特に姉妹の中では私が一番不器用で、和裁も洋裁も手芸も下手。お琴も茶道・華道も中途半端で終わってしまいました。手に優れた技術の無い私が、何とか父のお陰で一番長く勤めることが出来ました。不器用な人間でも、過ぎてみればそれなりに生き甲斐は見つかるもののようです。
 退職して親の介護も終わり、暫くは旅行に出かけることが多かったのですが、年のせいもあって、最近はとみに外出が少なくなりました。することと言えば、趣味となるわけですが、お料理作りだけは、きょうだいの中で、私が一番好きなようです。朝刊に載っていた料理が気に入ると、早速お昼か、夕食の献立に滑り込んで来たりして、楽しく作っています。お料理を作ることはストレス解消になるので、食事作りの時間が来ると、俄然張り切るのです。
 食材やスパイスなどは大らかに使いますので、国籍は、何々風となることも多いです。以前にも書きましたが、家族は、美味しければ「美味しい」と言ってくれますが、「まあ美味しいけれど、今回限りで終わりにしよう」と言われると、「落第」の烙印を押された訳ですから、そのレシピはファイルから消えます。こうして瞬く間に消えた料理は数知れず、残ったものが一ヶ月に1~2回献立として入って来ます。その一方で、もう家族の誰も食べたいと言わなくとも、季節だから、とか行事だから、とか言いながら頑なに一年に一回だけは作るというものもあります。
 デザートやお菓子も手作りが多く、太る太ると文句を言われるので、遠慮しながら、作っています。希にご近所の独り暮らしの方や、ごく気の置けない知人に、御菓子や、沢山作ったおはぎや、お赤飯などのおすそ分けをします。「美味しかった」と喜んでくださることが何より嬉しいです。時折その方達から、山菜や、手に入らない太いアスパラガス、これが本当の瓜だと思う香りの良い太い瓜のおすそ分けや、そして時には季節の絵手紙など、温かいお心遣いを頂いて、遠い親戚より、近くの他人とばかりに親しく交わり、暮らしています。
 従ってインスタントラーメンというものは、もう何年も食べていなくて、どんなものが人気なのかも知りません。出来上がったお料理を買って食べることも滅多にありません。「気の毒なのは、家族かも知れない、献立にのらないと食べさせて貰えないのだから」と秘かに思ったりして、時折は希望を聞いています。
 一週間の献立は木曜日に立て、それに従って一日一枚の貼りメモに買い物をメモして綴り、毎日の買い物はそのメモに依ってします。そうしないと無駄な買い物をしたり、買い忘れが出て来る恐れがあります。勿論献立はあくまで計画ですから、店頭で美味しい食材が手に入ると、そこで夫と協議して変更することもしばしばです。
 夫は自分が嫌いなものは、「嫌いだ」と明確に言いますので、買おうとした物も手を引っ込めます。その代わり自分が食べたい良い食材は目ざとく見つけるのです。新婚の頃は、2週間位お刺身を食卓に載せないと、もう半年も食べていないような物言いをしますので、とても困りました。「一体私には何が作れるのか」と献立に悩んだりしたのも、懐かしい想い出です。
 食事を作るのは、言わば主婦の勤めであり、(権利でもあり)これは趣味の内に入らないのかも知れませんが、新しく美味しい料理を開発して作ることは、とても楽しいことですから、矢張り義務ではなく、趣味としたいと思います。
 この夏、私は少し体調を崩して、あらゆる仕事を家族の提案で、ノーンビリとすることにしました。そうそう新メニューの開発もしないように言われて、いまは少し謹んでいます。
 「これが私の趣味です」と明確に言えるものは有るようで無く、どれもこれも中途半端で、優れているものは何もないのですが、楽しくやる事があるということは、日常生活を生き生きと楽しめますから、それだけで十分幸せなことだと感謝しています。

 

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教育が未来を築く

2011年09月19日 | 随筆・短歌
 登校拒否児童や児童生徒の自殺が増えたり、ゆとりの教育がかえって学力を低下させたり、大学生が益々勉強をしなくなり、入学三年目には、もう就職活動に入っています。日本の教育は近年にない危機を迎えているように思えます。
 国家の繁栄の根幹は、次代を担う人の教育にかかっています。なのに、教育を巡る様々な要因により、将来に暗雲が立ちこめているようです。最も重要なのは、優れた人材を育てることであって、その意味であらゆる行政の中で、一番重要なのが、教育だと思っています。交通が少し不便でも、物価が少し高くても国は滅びませんが、教育に力を注がねば、将来の繁栄はあり得ません。
 最近の小中学校では、親に学歴の高い人が多くなり、自分の子供の担任教師を見下して、何かというと不満を担任や学校に持ち込み、中には直接教育委員会に申し出る、いわゆるモンスターペアレンツが増えていると聞きます。
 本当に我が子の教育を思ったら、担任教師、学校、教育委員会とともに手を取り合って、より良い教育の為に、協力するのが、本来のPTAの理念だったのではないでしょうか。 
 歴史をひもとけば、昔は寺子屋で四書五経を学びました。意味は良く解らずとも暗記した子供達は、次第に文字を覚えるようになると、何をいっているのか理解出来るようになりました。それが成長して良き師となり、子供達を良く導いてくれたのです。
 キリスト教徒のように、日曜学校があったり、牧師さんのお説教を聞いたりする習慣が無い日本は、何処でそれを補うのでしょう。道徳の時間には、優れた本をじっくりと読んで、自分の考えを纏めて作文するとか、或いは議論したりする時間を取ることが、有益のように思います。家庭でも高価なゲーム機やケータイを持たせるより、子供の資質に見合った優れた本を与えて、沢山読む習慣を作ることが大切だと思います。これはひとえに親の責任です。
 日本も、昔は教える立場の人は高い教養があり、高学歴の人であり、また高僧であったりしました。どの藩でもどの家庭でも教師や僧を尊敬し、教えを請いました。
 ですが、最近はどうでしょう。高い志と理想に燃えて大学へ進むのではなく、少しでも有名な大学に入る為に猛勉強はしても、入ってしまえば天衣無縫の遊び人に変化する人が多く、卒業すれば、お金儲けしか考えられないような人が育っています。更に悪いことに、そういう人を世の人は出世したというのですから虚しいことです。
 入学するのは優しくとも、卒業するのは難しい、そういう大学教育でないと真に学問をする大学生にはならないでしょう。為政者達も本当に日本の国を良くする為に努力すると言うより、権益を拡大することにのみ腐心したり、自分の地位の保全にのみ執心しているように見受けられたりします。
 政治塾等で真剣に政治のあり方を学んで、国家の在るべき姿を考えて、実際に地道な努力をしている政治家がどの位いるのでしょう。議員になってからでも遅くはありません。もっと学ぶべきだと心からそう思っています。私はそういう人を選んで、何時も応援しています。
 時代がお金、お金と言い過ぎるのかも知れません。でも本当に尊いのは、お金ではなく、人のこころです。心の教育無くして、真の教育はあり得ません。特に教育行政に携わるようになった政治家は、教育はどうあるべきかを、真剣に学びなおして、今後の政治活動に取り組んでほしいのです。しっかりと地道に勉強しなおして、政治哲学に裏打ちされた信念と誠意を持って、思慮深く国民の為の政治を推し進めて欲しいと願っています。
 私たちも唯眺めて諦めたり、批判ばかりしていてはいけないと思います。日本の教育の発展の為に、私たちの大切な子孫の為に、教育界にもっと人材を求めて厚遇し、尊敬される職業に高めていく必要があります。親ばかりでなく一般社会も、教師や学校を批判するばかりでなく、教師が教育に専念出来るように、理解を深めて行く存在にならなければなりません。
 最近、教師の質の向上が言われています。しかし、現在の教師は、どうやら様々な雑用に忙殺されていて、自分の勉強の時間も少なく、子供達とじっくり向き合って話をする時間が無いと聞きます。虐めがあっても、学校は「知りませんでした、気付きませんでした」と言います。なぜ気付かないのでしょう。私はそんな筈はないと思います。生徒の虐めは近年一層こうかつで陰湿になり、教師の前では巧みに隠して、陰に回って虐めるから、気付かないのだと聞きます。果たしてそうでしょうか。教師が生徒一人一人と十分に繋がっていれば、見えない筈がないと私には思えます。
 また、モンスターペアレンツに対する対応を見ていますと、自分たちが教育のプロだという自信とプライドが、教師にも学校にも教育委員会にも欠けているように見えます。事なかれ主義ではとても子供達は守れません。怖れてばかりいたら、被害を被るのは、大勢の児童生徒です。教師もその職に命をかけるくらいの気持で、児童生徒の立場に立って闘
っいて欲しいと思います。
 教師の質の向上の為にテストを行うと聞きました。この様なことをしたら、どうなるかは、やらずとも解ります。現職の教師は教職の単位を取り、試験にパスして教師になっています。またテストがあるとしたら、教師は当然テストの為の勉強をしなければならず、その時間が生徒から奪われて行くだけです。
 教師の質の向上には、その為の「学ぶ時間と良い師」がいて、じっくりと「どう児童生徒と向き合い、教えるべきものは何なのか」を具体的に学び、考えることが大切ではないでしょうか。時間を与えて、例えば論語などを再学習するだけでも、成長があるのではないかと思います。
 教育界では「自ら学ぶ教育」と児童生徒の教育の目標を掲げているようですが、それは児童生徒に先立って教師がなすべきことです。現役の教師に、その時間が取れるように、実際に導くのが文科省の仕事です。この考えは間違ってはいないと思うのですが、どうでしょうか。
 教育というストレスフルな仕事に耐えている内に、心に余裕がなくなり、心を病む教師も増えています。テストではなく、5年に一度位、ゆったりとした学ぶ機会と、良き師を与えてはどうでしょう。自分が担っている職務の大切さを自覚し、自分の仕事に生き甲斐と誇りと自信が持てるように、時には、しっかりと学びなおすことが大切だと思うのです。政治家と同様に、です。 
 今、日本は未曾有の災害の為に立ち上がりつつあり、国民の気持ちも一つになって、税金を上げても復興に力を注ぎ、未来の若い世代に負担を残したくないと思っています。そんな事さえ政争の種にされていては、残念です。心を一つにして、立派な国造りに努力したいものです。
 この国の未来は、道路や新幹線の整備より、いつに教育にかかっていると思います。それも現在のような点取り主義ではなく、人間本来の心を取り戻す教育です。志の高い政治家の出現を願って止みません。
 「教育の真の目的は、人間をつくることである」とジャン・ジャック・ルソーが言っています。又、「教育とは学校で習った全てのことを忘れてしまったのちに、自分の中に残るものを言う」とアルベルト・アインシュタインが言っています。それは学んだ後に残る、豊かな人間性に裏打ちされた、向上心、好奇心、思いやりの心、など、即ち心を意味すると思うのですが・・・。
 

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ある日突然に

2011年09月12日 | 随筆・短歌
 私の知人に、とても仲の良いご夫婦がいました。涼風が吹き始めた頃に、奥様は少し体調を崩し、近くの総合病院の内科に行かれました。検査の上で、「どうも手術が必要なようだ」ということを伝え聞いて、心配していました。
 4~5日して、帰って来られないようなので、お見舞にいこうかな、もしかしてそろそろ手術が近いのかな、と思っていましたら、突然の訃報が入りました。私たちとは良く話をするご夫婦でしたので、絶句してしまいした。お二人は私達夫婦と年が近く、人ごととは思えません。亡くなられる二週間前はにこにこと話を交わし、救急車ではなくご自分の遺志で病院を受診した人が、数日で亡くなられるなんて・・・、とても信じられません。
 私たちも揃ってお通夜などにお参りさせていただきました。小柄ですが、美しく、しっかり者の女性でした。大勢の親族やお知り合いが集まって、しめやかなお葬儀でした。お子さんが居ないので、後に残されたご主人の悲しみを思うと、いたたまれずにいます。
 以前書きましたが、矢張り近くの、日頃からとてもお元気な奥様と死について立ち話をしていて、「どうしても夫を残して先には死ねませんね」という話になりました。そして「お互いに体に気をつけましょう」と別れましたのに、間もなく手遅れの癌で亡くなられました。後に残されたご主人は、とてもお淋しそうで、ぐっと老いを深められました。あれから3年になりますが、やっとお元気になられたご主人が、健康管理に気を付けて、よく散歩をしておいでです。折々立ち話を交わしていますが、矢張りお淋しそうでお気の毒に思えます。
 今年の夏の暑さは異常でした。そして暑かったと思うと突然寒くなったり、節電もあって、エアコンを少し我慢したりして、そして、結局我慢できなくなって矢張り毎日エアコンの生活となり、夜もエアコンで休みました。日課のウォーキングも早朝に変えましたが、それも辛くなって休む日が多くなりました。またフィットネスクラブも、もう一ヶ月以上休んでいます。こんなに夏負けした年もないと思いつつ、「ここで本当に病気になって死んでしまったら、残った家族が可哀想だそうだ」と思えて、可能な限り生活を合理化して、体の負担を軽くするように努めました。
 例を挙げれば、朝の内に夕食の大方は作り、冷たくして食べられるものは、冷蔵庫で冷やし、主菜だけ食前に作る、といったように工夫もしました。
 夕方に少し西日がキッチンに入ります。するとキッチンの温度が上がりますので、夕食を作る時はキッチンの戸を閉めて、居間との間の戸を開け、エアコンの冷えた空気を扇風機でキッチンに吹き込み、同時に換気扇を廻します。するとキッチンは直ぐに涼しくなります。それでも火を使いますから、暑くて汗が出ます。大方は作ってありますから、時間を見計らって、最後の魚の焼き物や揚げ物等をして食事になるように工夫して来ました。
 それでもどことなく疲れを感じ、日頃は昼寝もしないのに、ある日とうとう横になって一日を過ごす羽目になりました。その翌朝のことです。目が覚めましたら、口がきけません。ロレツが回らないのです。手も痺れを感じ、指が曲がったまま動きが悪く、横で目を覚ました夫にロレツが回らないと告げようとしたのですが、ロレロレと云うだけで、上手く話せないのです。
 しばらくしましたら、ようやく何とか話せるようになって、起きることが出来ました。起きあがったら、どうにか普通にお掃除も食事の支度も出来ました。
 変形性膝関節症と股関節症の痛みがあって、一年に一回位診せるように、と整形外科の医師に言われているのですが、それも延ばし延ばしてもう何ヶ月かになります。
 健康管理は自分の責任ですから、日頃から良く考えて、又良い医師を選んで診て頂かなくては、治る病気も治らないことになります。
 長生きすることのみが良いことだとは、決して思いませんが、死ぬ直前まで元気で居られたら、どんなに幸せでしょう。「終わり良ければ全て良し」ということわざがありますが、これは人生についても言えることなのですね。ご近所の仲むつまじいご婦人の急なご逝去にあたり、そんな事を考えています。

 紫のコーモリたたみ「明日またね」笑顔の友につひに会へざり(実名で某誌に掲載)



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名作「北の国から」の想い出

2011年09月04日 | 随筆・短歌
 「北の国から」というテレビドラマが、最初の放映から、30年ぶりに、この7月31日より放映されています。
 このドラマは、1981年から始まったのですが、私達が見たのは、ビデオになってからです。もうかれこれ15年位前のことです。最初から全てを、毎週一本ずつ借りてきて、長い間かかって見ました。とても感動したので、何年か経って、又見たくなり全編を二回も繰り返して見ました。
 毎回感動して涙を流し、美しく厳しい北海道の自然に感動し、人間の温かさや優しさ、逞しさを見事に表現した作品として、忘れられないテレビドラマです。
 本当に長い間続いたドラマで、二人の子役が小学生だったのに、やがて成人して、最後は30歳前後になるまで続き、(2002遺言まで)子役だった娘の実子がやがて役の上でもその子供として、出演しています。日本には珍しい長編のドラマです。 
 妻の浮気によって、離婚した父親 黒板五郎(田中邦衛)と、息子 純(吉岡秀隆当時小4)と、娘 蛍(中嶋朋子当時小2)の家族が東京から北海道の富良野へやって来て、あばらやだった家を家族で修理して住み着き、やがてそれぞれに難しい思春期を過ごして、成長していきます。
 その中の様々な出来事を丁寧に描いていています。すんなりとは行かない人生の折節で、悩みつつ成長していく様子は、回りの人間の温かさに依って助けられ、励まされ、考え反省し、孤独に打ち勝って次第に豊かな人間として成長していくのです。
 以前アメリカに「大草原の小さな家」という、矢張り子役が成人するまでの、有名なドラマがありましたが、「北の国から」は日本という独特の価値観や、美しい大自然、そして、まさにその時代を表現していて、負けず劣らずの名作だと思っています。
 忘れられない感動の場面は沢山ありますが、富良野へ会いに来た母親(いしだあゆみ)と子供達はラベンダー畑で楽しい一時を過ごします。しかし、不倫の現場を目撃した蛍は、東京へ戻る母を駅に見送りに行かず、蒲団をかぶって寝ていました。やがて列車が発車したとき、蛍が川向こうの土手を必死に走りつつ、泣きながら列車を追いかける場面がありました。母親も気付いて千切れるほど手を振ります。恐らくこのドラマを見た人は、蛍が涙しながら懸命に走って走って追いかける姿に、全員涙したことでしょう。
 言い争いながら、実はお互いに思いやりの深い兄妹は、北海道の大自然の中をよく走っている場面があり、そこが如何にも子供らしく、また北海道の空や平原や森を美しい映像で見せてくれました。
 五郎は人に優しく、たとえ騙されても恨まず、不器用な生き方しか出来ませんが、男らしく、へこたれない父親です。その感化で、子供達も紆余曲折の人生を生きていきますが、それぞれに心やさしい大人に成っていきます。
 音楽も素晴らしく、さだまさしのテーマ曲「北の国から」や、尾崎豊の「I LOVE YOU」や、長渕剛の「乾杯」、それにフォーレの「夢のあとに」など、沢山の名曲がちりばめられていました。
 看護師になった蛍が、妻のある医師と駆け落ちするのですが、ふる里を離れる時に、車で「夢のあとに」のテープを聞くのです。静かに流れる曲が喩えようもなく美しく哀しく、蛍の心情をよく表していました。
 根室の落石(おちいし)という処の診療所に蛍がいると知って、早速五郎と純は尋ねて行きます。お土産の鮭を買って、三人は小さな診療所の裏で再会します。「おまえが自分に正直にしたことなのだから・・・、何をしようと俺は味方だから・・・」と言い、鮭を持って戻っていく蛍に、「何時でも富良野に帰って来るんだぞォー」と背中から声を掛ける五郎に、蛍が駆け寄って泣き崩れます。
 純にしても、東京に出たり、又戻ったりして、様々な仕事につきながら、失敗を繰り返して成長していきます。その都度回りに居る人達はとても優しく、時には、厳しく叱ったり諭してくれて、出演している人達の演じる人間性にも学ぶ処が沢山ありました。今は子供達の回りにこのような人が居るのだろうか、と考えさせられたりしています。
 富良野は私達もその後北海道に行った時に寄り、パッチワークの丘を見たり、麓郷の五郎の家も見て来ました。ロケに使った幾つかの家を見て、最後に五郎が独りで住んでいた「石の家」を畑越しに眺め、(そこから先は立ち入り禁止でした)ドラマといえども、自分の人生のゆかりの地を訪れたような、懐かしさを覚えました。
 多くの人は、自分の人生をふり返ってみた時、平坦ではない人生だったという感慨を持つのではないかと思います。しかし、時代が変わっても、価値観が変わっても、親子の情愛や人間愛は、何時の世も変わらいと改めて確信したのです。




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