ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

川端康成の「美しい日本の私」

2017年04月29日 | 随筆
 作家の川端康成氏は、1968年にノーベル賞受賞の記念講演において、「美しい日本の私」という題で講演をしています。かねてから私は何故美しい日本「の」なのか、一般的には、「と」と云いたい処なのにどうしてだろう、きっと意味があるに違いないと思いながら、調べるでもなく今日まで来ました。
 最近書棚にあった山田無文老師の「自己を見つめる」(禅文化研究所第17刷 平成22年)という本の最後のほうに、この「美しい日本の私」の「の」について、無文老師の解釈が詳しく載っていました。
 それを読んで、やっと理解への手がかりを得たように思いました。ついでにもう一度「美しい日本の私」(川端康成 講談社現代新書)を取り出して読んでみました。

 「美しい日本の私」は、

『春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり                         
 道元禅師(1200年~ 53年)の「本来ノ面目」と題するこの歌と

 雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷たき   
 明恵上人(1173年~1232年)のこの歌とを、私は揮毫を求められた折りに書くことがあります。』
 という書きだしではじめられています。

 その他にも短歌を沢山引きながら、日本の四季の雪月花の美や、禅のこころを述べています。美しい日本「と」私、と書くと、両者は区別して並列の関係に置かれていることになります。しかし、美しい日本「の」私、と書けば、日本と私とは一体化されて両者は完全に溶け合った関係であることが分かって来ます。無文老師は、
 『川端さんの「美しい日本の私」は、「美しい日本」と「私」は別もんじゃない。美しい日本がそのまま私、私がそのまま美しい日本だということです。”の”の一字にこめられた深い意味がそこにあるのです。親と子じゃない。親の子です、子の親です。夫と妻じゃいかん。夫の妻、妻の夫です。先生と生徒じゃいかん。生徒の先生、先生の生徒です。社長と社員もいかん。社員の社長、社長の社員と、すべてこれでなければならんのです。(中略)社会の私、私の社会、日本の私、私の日本となって、世界の私、私の世界、人類の私、私の人類というように、対立を超えた純粋な人間性を自覚していかねばならんのであります。
 人類が無ければ私は無い。世界が無ければ私は無い。人類が、世界が、私という存在を証明してくれているのです。だから世界を愛し、人類を愛し、その世界の中で人類とともに生きていくーーそういう偉大なる人間こそが真実の自己だとわかることが、人生でもっとも大切なことなのです。』
 全てが大自然の中に同じように共に生きていて、これは人、これは月と区別して認識するのではなく、明恵上人の歌のように、「私に付いて来る月」「風が身にしみて寒くはないか」「雪が冷たくはないか」と大自然と自己が一体となった歌だと納得させられました。
 そのように世界と私、私と美しい雪月花のように対比するのではなく、一体化することによって「美しい日本の私」と表現されているのだと、私なりに理解し、改めて感動したのです。
 ですから、良寛の辞世
 形見とて何か残さん春は花
  山ほととぎす秋はもみじ葉 
 を引き,「日本の真髄を伝えたのだ」 と云っているのでしょう。また、天皇の御子だと云われる天才少年の「一休」が宗教と人生の根本の疑惑に悩み、「神あらば我を救い給へ。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を肥やせ。」と湖に身を投げようとして引き留められたとも話しています。一休の道歌には

 問えば言ふ問はねば言はぬ達磨(だるま)どの
  心の内になにかあるべき

 心とはいかなるものを言ふならん
  墨絵に書きし松風の音

 などがあり、これで禅の心を伝えようとしています。また

 真萩散る庭の秋風身にしみて
  夕日の影ぞ壁に消えゆく

などという歌によって、この日本の繊細で哀愁の象徴の心境を川端康成は「私により近い」と言っておられるのです。

 私には十分に意をくみ取って論ずる力はありませんが、日本の文学や歌道、茶道、枯山水の庭等の美しさにふれて、例えば「枯山水」という岩や石を組み合わせるだけの法は、その「石組み」によって、そこにない山や河、また大海の波の打ち寄せる様までを現します。その凝縮を極めると、盆栽となり、盆石となります。
 茶道の「わび・さび」は、心の豊かさを蔵してのことですし、極めて狭小、簡素の茶室は、かえって無辺の広さと無限の優麗とを宿しています。一輪の花は百輪よりも花やかさを思わせるのです。
 そして、色のない白は、最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています。そしてそのつぼみには必ず露を含ませます。幾滴かの露で花を濡らしておくのです。・・・と日本の美について実に細やかで深い理解を示しています。破れた花器、枯れた枝にも「花」があり、そこに花によるさとりがあるとしました。「古人、皆、花を生けて、悟道したるなり。禅の影響による、日本の美の心の目ざめでもあります。」と言っています。

 難しい話ですが、日本人の一人として、川端康成の「美しい日本の私」の心をくみ取って、私も日本人としてのたしなみをもっと深めたいと思っています。そして日々身の回りの大自然との、心の交流を心がけたいです。

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眠りの前の慰めに

2017年04月15日 | 随筆
 一日が終って、さあ眠りに就きましょうか、と云う時間を皆さまはどのようにお過ごしですか。
 私の親しい友人の一人は、ずっと以前から島崎藤村の詩を読んだり、得意の百人一首の暗記を繰り返したりしています。その話を聴く度に「素敵な習慣だな」と思っていました。
 別の友人は「兎に角本を一冊、必ず枕元に置いて、眠くなる迄読んでいる。それでも眠れない日はラジオの深夜放送を聴いている」と言います。どちらも私には真似の出来ない憧れに聞こえていました。
 何かと日々することが沢山あるような気がして、夕食後にレンタルDVDで映画を楽しむ習慣の夫に、約1.5~2時間、週の三分の二くらいはおつき合いをして、その後ストレッチを20分くらいします。膝関節と股関節に少し痛みのある私には、日々のウォーキングに加えて、大腿四頭筋を鍛える運動などは、夫に勧められ、また定期的に検査して頂いている医師にも、現状維持の為に励むように云われています。
 残りは休む時間が来る迄、テレビのニュースを見ながら、遅くなってもよい未整理の書類を整理したり、手紙やメールを書いたりです。休む時間に終わらず、翌日へ持ち越すことも頻繁です。身近に置いている私専用の小さなゴミ入れも、その時刻には満杯に近くなります。すっかりキッチンのゴミ箱に空けて、使用したものを元の場所に納めれば一日が終わりです。
 夕食の献立レシピも肉類・魚類などに分類して五冊あるファイルから取り出して使います。1~2週間分の献立を立て、それに伴う必要品は、一日一枚の「買い物メモ綴り」にします。ほぼ毎日、そのメモに従って品揃えをします。調理はレシピに従って進めるのですが、最近レシピを仕舞い損ねて、ファイルの何処に挟んだか探すのに苦労する事もあり、気を付けています。
 家族の人数に合わせて、例えば岡山のばら寿司とかパエリアでは、取りかかる時刻も記入してあります。細かく手を加えたレシピですから、これがないと暗中模索です。何時も同じ味に、ほどよい時刻に出来上がると、家族が云ってくれもしますが、それはレシピに記された開始時刻などに従っているからです。又「好きな献立が回ってくるのに時間が掛かり過ぎ」とも云われます。五冊のレシピ集は、長い間の私の失敗と成功の積み重ねで、「大切な財産」なのです。歳を追う毎に益々欠かせないものになるでしょう。
 話が横道にそれました。私も最近パソコンで気に入った詩を、裸眼で見える程の大文字にして印刷し、透明ファイルに挟んで床についてから読み、詩を鑑賞し暗記しています。藤村であったり、白秋であったりしますが、みな青春時代に胸たぎらせて感動した、懐かしい詩ばかりです。
 中には長い時間に忘れているものもあって、改めて暗記しようとしても時間が掛かります。数回読めばほぼ暗記出来た頃は、もう遠くなりました。でも「小諸なる古城のほとり・・・」等口ずさめば意外とスラスラ出てきます。「落葉松の林を過ぎて、落葉松をしみじみと見き。」と口ずさめば、結婚したての頃に、軽井沢の落葉松林を散策した時や、その後幾たびか訪れた想い出が鮮やかに甦り、懐かしくもあって胸が熱くなります。
 懐かしい記憶のある詩ばかりでなく、最近読んで素晴らしいと思った詩も加えて行こうと思っています。今は5~6編の詩でしかありませんが、何処まで加えて行けるか楽しみです。
 日頃このような暮らしを習慣にしている友人の、素晴らしい日々を察しながら、私もついて行きたいと思っています。読み終えて手元の小さな灯りを消して眠りに就く頃は、とても満ち足りて安らかな気持ちになっています。
 こんな年をして、何となく少女じみた幼い行為かと思いますが、良い詩は時を経ても素晴らしく、七五調の調べのなめらかさに、改めて詩人の偉大さを偲びます。詩の中の風景や心模様に思いを馳せて「百年(もゝとせ)もきのふの如し・・・」と詠んだ藤村の心に感動いたします。
 そろそろ今日も終わりが近づきました。明日は更に新しい詩を加えたいと思っているところです。

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「丁度よい」人生

2017年04月05日 | 随筆
 今年は桜の開花がやや遅いようで、季節が戻ったような気温の低い日もありますが、待ちに待っていた鶯の声が昨日やっと聞かれて、嬉しい思いをしています。
 考えて見ますと、大宇宙の中の地球という小さな惑星の片隅に住んでいるのですが、自分の住んでいる処の居心地がとても良いと感じて感謝しています。
 どんな美しい花でも必ず散る日が来ます。人間もせいぜい生きて120~
130歳前後といわれています。木々はある程度延びれば不思議にそれ以上伸びずに止まります。しかし、花が咲く樹木の寿命は、太陽の恵みや様々な条件から、計り知ることは簡単ではありません。DNAとは本当に興味深いもので、時折私の心を捉えて放しません。
 樹木には足がありませんから、「置かれた場所で咲きなさい」と、これは渡辺和子さんの仰るように、そこで精一杯の「樹命」を生きるしか方法がありません。簡単に移住することのできない私達も同じですが、矢張り命の限り置かれた場所を大切にして、しっかりと生きたいものだと思っています。
 私は自分の人生の分岐点に立った時に、自ら決断して選んだ、とハッキリ言えるのは、高校・大学の進学先を選んだ時と、職業を決めた時、結婚を決意した時、住むべき土地を選んだ時、退職の時期などでしょうか。
 そんな私の人生を振り返ると、人並みに様々な苦楽に彩られています。まるで左右とも断崖絶壁で、やっと一人が歩ける馬の背のような細い道の上を、踏み外すこともなく、良くまあ無事に歩いて来たと思ったり、まるで見えない糸に導かれるようにして此処まで来られたものだと思います。
 父母が亡くなって、遺品の中に見つけたある時期の父の履歴書は、父らしい几帳面な文字で綴られていました。この履歴書が必要だった頃の父は転機だったのか?と思うと、一見平穏に過ごして来たように思える父母の人生も波乱に満ち、一生という時間はとても重いものだと感じます。
 私達の来し方を振り返る時も、辛く苦しい時期もある中で、金子みすずのように「明るい方へ明るい方へ」と手探りで進んで来たのに、今此処にこうして文章を書いている平穏な日々があるなんて、誰が予想出来たでしょう。
 思えば全く別々の人生を生きて来た私と夫が、初めて出会ったのは、たまたま両方の家族を良く知っておられた方のお引き合わせによるものでした。
 こういうのをご縁というのでしょう。お見合いの席には、何時ものように私には母が立合ました。事後に、何時もは私の意見を尊重して、先に口出しすることの無い母でしたが、「良い人のように思った」と珍しく感想を述べました。私は引き合わせて頂いた瞬間に「あゝ私はこの人と結婚する」と感じたのです。それは全く瞬間的な、そして運命的な印象でした。私達は今でもこの時お世話して下さった方に、深く感謝をしています。
 幼少の頃、何故東京で小学校に入学して、戦後樺太から引き上げてふる里に戻った夫と、父の転勤時に生まれて、戦火を逃れて父母の故郷に戻っていた私が、紅い糸を引き寄せるようにして出会って結婚するに至ったのか、不思議というしかありません。離れて暮らしていて、逢うべくも無かった筈の二人が出会うということは、矢張りお引き合わせによるものであり、奇跡的です。
 更に遠く離れた処に職業を持っていて、別居生活の状態で結婚したのですが、運良く勤めを辞めなくて共働きが出来るようになったり、四年後の出産と時を合わせたように、田舎から義父母にも出て来て貰って、お陰で一日も育児に「お守りさん」を頼まずに、此処まで来られたのです。
 とんとん拍子に、と言う言葉がありますが、女・男と二人の子供にも恵まれて、六人の生活は、娘が東京の大学に入学する迄続きました。
 家族は年とともに減って行きました。先ずは義母でした。私が「そろそろこの先にある介護のために退職して欲しい」と夫に言われて、切りよく退職しました。まるで待っていてくれたかの様に、一年と僅か後に義母が倒れて、一ヶ月余りの入院の後に亡くなりました。
 私は長い間義父母に子供たちの世話をして貰いましたから、心ゆくまで最後のお世話をして送ることが出来て、少しは恩返しが出来たことを嬉しく思いました。
 もう口がきけない筈の義母が、真夜中に突然私の顔を見て「有り難う」とはっきり言って亡くなりました。全く信じられない事でした。こんな事もあるのかと義母のその一言がとても有りがたくて感動し、又感謝して今では私もそうありたいと願っています。家族や親戚も全員最後までにはお別れの時間が取れましたし、何だかこれも余りに出来すぎているような、看取りでした。
 残った義父も、ご近所に良い友達が居て、日々楽しかったようです。ある日私が付き添って病院へ行くのに、下着から新しい衣服に着替えてから突然倒れ、そのまま丸一日人工呼吸でしたが、遠い人達も会いに来られて、静かに息を引き取りました。年老いても何時も身ぎれいにしていた、義父らしい最後でした。
 夫は定年退職後の再就職を、是非と請われて「お断りしてくる」と出掛けた職場に「週三日という訳にも行かないでしょうし」と言った途端に「それでも良いです。」と云われて、とうとうミイラとりがミイラになって帰って来ました。
 そこで数年勤めて退職し、全くの自由人になって二ヶ月後に娘が急死しました。逆縁ほど悲しいことはありません。でも自由な身分になっていた夫は、心ゆくまで娘との最後のお別れが出来ました。この時間というのも全く不思議なことではありました。
 このような不運な中の幸運に、幾度か恵まれて生きて来ましたが、親にとっては逆縁ほど哀しいことはなく、今も毎朝先だった家族の遺影の並ぶ仏壇で、夫と二人読経するのが日課です。
 今年(2017年3月12日付け)の日経新聞の「文化」欄に「それぞれのかなしみ」と題してつぎのような文がのっていました。『日ごろはあまり意識しないが,人はつねに二つの時空を生きている。だが,日常生活ではその差を明確に感じることがなかなかできない。しかし、人生の試練に遭遇するとき、世が「時間」と呼ぶものとは全く姿を異にする「時」という世界があることを、ある痛みとともに知るのである。
 時間は過ぎ行くが、「時」はけっして過ぎ行かない。時間は社会的なものだが「時」は、どこまでも個人的なものだ。時間で計られる昨日は過ぎ去った日々のことだが、「時」の世界においてはあらゆることが今の姿をして甦ってくる。松岡 英輔』丁度3.11の東日本大震災の6年目の一日後の記事でしたから、この文章を読んで、止まった時の家族の顔を思い返して居られる人も多いと思います。
 娘が亡くなって19年が経ちました。以来折りにふれて私の目に残っている娘は、あの棺の中の穏やかな顔です。しかし、そういう「時」と違って日々生きて居る長い時間の中で、人々は皆努力しつつ何かを求め、苦しみ、喜びを繰り返しています。
 私が愛読しているスエナガアマネ氏のブログ「心の原風景ーー心の故郷ーー」(2017年3月14日)に次のような詩が載っていました。

 「丁度よい」
       藤場美津路作

 お前はお前で丁度よい
 顔も体も名前も姓も
 お前にそれは丁度よい
 貧も富も親も子も
 息子の嫁もその孫も
 それはお前に丁度よい
 幸も不幸もよろこびも
 悲しみさえも丁度よい
 歩いたお前の人生は
 悪くもなければ良くもない
 お前にとって丁度よい
 地獄へ行こうと極楽へ行こうと
 行ったところが丁度よい
 うぬぼれる要もなく卑下する要もない
 上もなければ下もない
 死ぬ月日さえも丁度よい
 仏様と二人連れの人生
 丁度よくないはずがない
 丁度よいのだと聞こえた時
 憶念の信が生まれます
 南無阿弥陀仏

 私はこの詩を読んで、何時も何かにとらわれている心が、安らいで行くのを覚えました。生きて来た自分の軌跡を肯定してもらったようで、それ以上でもなく、それ以下でもない私の人生の全てが、そのように「丁度良い」のだと気づいたのです。
 以前四国遍路に三回行ったと書きましたが、二回目の帰りに高野山奥の院へも行きました。その時、金剛峯寺の金堂に「小雨が大地をうるおすように、少しばかりの悲しみが人の心を優しくする。心配せんでも良い。必ず良い様になるものである。」と掲示されていました。それを読んだ時の感動と、「丁度よい」の詩が合いまって、私が生きて行く上での心のあり方を導いてくれています。


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