ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

菩提寺で聴くコンサート

2017年07月12日 | 随筆
 地方にお住まいの人の多くの方達や、または都市部でもご両親等を亡くされた方達は、告別式を行うために、何らかの宗教で繋がりのある菩提寺や、教会をお持ちの事と思います。
 これら菩提寺や教会が既に決まっている方達は、現在それらとどんなおつき合いをして居られるのか、次第に老いを増して行く私には、気になる事柄です。最近の経験を通して、菩提寺との繋がりを有難く思うようになりました。
 私達は約50年前にこの地に家を建てて、田舎に住んでいた夫の両親に家を払って出て来て貰い、生活を共にするようになりました。産まれたばかりの娘のお守りを快く引き受けて貰い、何とか二人の子供が成長するまでを、平穏に過ごしました。
 その後に義母が突然倒れて入院し、一ヶ月余りで亡くなりました。
 そこで、はたと困ったのは、菩提寺のことです。遠い田舎の菩提寺にお葬儀をお願いするのは無理で、近くの同じ宗派のお寺にお願いしなければならなくなったのです。同じ宗派と云っても寺町があり、沢山のお寺のあるこの市の、どのお寺にするかが問題でした。
 夫は、喪主経験は勿論初めてでしたし、義父は息子である夫に全てを任せていましたから、お願いした葬儀屋さんの職員に「同じ宗派の高僧が居られませんか」とお聞きしたのです。
 そのご縁で、現在の菩提寺の先代のご住職を紹介てもらいました。以来毎月の棚経もあげて貰って、正式に檀徒になりました。
 あちこちで講演もされると云う菩提寺のご住職は、豊富な知識と人生経験から、なにかと来られる度によいお話を聞かせて頂いたりして、お世話になりました。義父も義母が逝ってから4年後に旅立ちました。いまは次の代のご住職のお世話になっています。
 真言宗の智山派の総本山は京都の智積院です。夫が退職した後に、本山納骨の為に私達は夫婦で二人分の納骨に行って来たのでした。
 それが私達夫婦の「全国の寺院巡り・史跡巡りの旅」の始まりになりました。私の実家の菩提寺は、東本願寺ですから、京都へ行く度に先ずは智積院に詣で、国宝の絵画や名園を眺め、それから東本願寺にもお参りするのが習わしになったのです。
 北海道へは、小樽から網走までの12日間車の旅、その他にも船で行き来したり、私と学生時代の娘と二人で行ったこともありました。南は長崎に三回、鹿児島に三回、それぞれ知覧や最南端の指宿・地震の前の熊本城や阿蘇・湯布院なども回りましたが、一度も土を踏まなかった県は、全国で佐賀県一県です。
 青森県の三内丸山遺跡は青森市に泊まっての見学でしたのに、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は何時も列車の中から眺めるだけで、5回ほど通りましたのに、とうとう下車の機会に恵まれず、今なお心残りです。
 私達は何となく価値観が似ていて、(似て来るのか)寺院巡りやキリスト教の迫害の歴史を語る遺跡などに、足繁く出掛けました。 夫は読書家でしたから、出掛ける前には、蔵書の中から必ず関係ある本を私に読ませてから、揃って見学の旅に出るのです。
 関係書物が沢山収集されていますから、拝観して来る寺院等は、先ず私が国宝の有り無しや見所を調べます。ネット検索してプリントにしたものに、必ず見て来たいものを調べ上げて書き込むようにしました。一箇所ごとの資料を作って、それに従って見学してくるのです。前日の夜に、ホテルで事前の勉強をしました。
 ついでに美味しい料理店やお土産も調べて、そこでしか味わえない珍しいものを食べたり、お土産にしてわが家当てに発送して貰いました。
 紀伊勝浦の駅前の佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の歌碑を見て、近くの海産物店から、自宅へ荷物を送ったり、古くはハウス・テンボスや鹿児島県の名物など、その時々のお土産は先に送って、何時も空手で1週間くらいは見学するのが、毎年の春や秋の旅行でした。
 京都は通過する時には、必ずのように一~二泊して、お寺巡りになりました。最近五木寛之の「百寺巡礼」をよく録画して観るのですが、懐かしい寺々をもう一度画面で見直す機会として、とても嬉しく思っています。
 今年の6月24日は、わが家の菩提寺で、毎年恒例の大般若という行事がありました。日頃大切にしているお経を箱から出して、パッと宙に広げて一巻読み終わりとして、一冊ずつ虫干し?のようにする行事です。放物線を描いて宙を舞いながら、又手元に戻る経典が、とても美しいのです。
 京都の黄檗宗の大本山「万福寺」の山門左に、鉄元禅師の経文の印刷所があります。今も毎日そこで、日本国の全ての寺院の為の一切経を印刷しているそうです。
 二階建てで、所狭しとばかりに、鉄元禅師が彫らせた経の版木が積み上げられていて、二階から下を眺めると、経文の版木の棚の間に挟まるように、印刷するスペースがありました。ある意味で社会福祉事業として、多くの食べられない浪人達の救いともなり、時には飢饉の民を救ったと云われています。偉大な鉄元禅師の思いを身近に感じて、感動を覚えます。
 大勢の僧が菩提寺に集まって「大般若」の行事が行われました。各寺協力して順にこの行事をするようで、終わると簡単なお斎(おとき)があり、午後は本堂での室内音楽会でした。三人のプロによる親しみ深いクラシックを楽しみ、又音楽に合わせて一同で歌ったりと、なかなか楽しい会でした。
 以前からお聞きしてはいましたが参加は始めてで、お寺の本堂でのクラシックも独特の味わいがあって、良いものだと思いました。この寺院の二人の僧も、太鼓とシンバル様の、読経の際に使われるものをあやつり、相和して中々の演出でした。
 この宗派の次の大僧正候補、と噂される高僧のお説教もありました。お葬儀以外でのお説教は、東本願寺でお聞きして以来のようで、親しみ深く、また有りがたいお話しでした。
 私の故郷の心優しい友人も、知恩院がご本山で、去年ご主人を病で亡くされて,ご本山へ納骨されたとのことでした。
 京都の知恩院は、法然上人が「専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道場」として開いたもので、徳川家の菩提寺であります。二代将軍秀忠によって建立された三門は、日本最大の二階建ての門です。五木寛之がここを訪れ、三門の二階から京都の市街を眺めている映像がありました。このTV映像が撮された頃は、丁度私達が頻繁に奈良・京都を訪れていた頃にあたり、とても懐かしく市街の様子を眺めました。
 知恩院の大鐘は、NHKの除夜の鐘として、馴染み深いものです。17人の僧侶によって撞かれると言います。アイン・シュタインが日本に来た時、鐘の真ん中に入れば音が消える筈だと、もぐったと云われます。その卓越した好奇心に感動して、四国遍路の時に、ある寺院の鐘の真ん中に私達も交互に入って、鐘を軽く撞いて確かめました。鐘の大きさも段違いですが、高潔な人格を持ち合わせていない私達には、音は相殺されることはなく、自由に行き交っていました。
 知恩院の一番奥まで見学すると、千姫のお墓があります。(千姫は徳川秀忠の娘です。姫路城には、千姫の化粧櫓があり、等身大の千姫と侍女達が置かれていました。)
 お墓の好きな私達には、千姫のお墓との出会いは嬉しいことでありました。(秀忠は妻の「お江の方」のお墓を、高野山奥の院近くに、高野山で一番丈の高い見事なお墓を作っています)
 千姫のお墓にお参りの後、下りの道路に出ましたら、大伽藍を見学している内に、何時の間にこれ程登って来たのか・・・と思う程に高く、広大な華頂山知恩院の境内に取り込まれていました。
 私の実家の本山である東本願寺には、数百年続いた祖先の代々の納骨がしてあり、私の実父母も兄も弟も一般に「のど仏」と云われる部分のお骨が治められています。
 このように、菩提寺とご本山との縁(えにし)は、常に親しく、身近に感じられます。この度の菩提寺の大般若の行事に参加して、益々このような菩提寺との関係を好ましく思ったのでした。
 盂蘭盆会が近づくにつれて、義母に教わり、私が継いで来た行事の形を大切にしたいと思っているところです。

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