ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

一瞬を切り取る心と技

2017年09月18日 | 随筆
 携帯もスマホもカメラの機能が進化して、簡単に美しい写真が写せるようになりました。けれども写真は、その場の明るさや差し込む光の角度によって捕らえた被写体を、更にどこを中心にして、どこ迄写すか、構えたレンズの角度や拡大の仕方などなど・・・、それを写す人の芸術的センス次第で、世界に二つとない芸術作品に変えてしまいます。計算し尽くされた一枚と言うか、精魂を込めた作品は、もう息を呑むばかりの美しさです。
 私のようにただ写っていれば良いという記念写真は、単なる想い出でしかありませんが、専門家の作品には、一つ一つの作品に魂が込められていて、鬼気迫るものが感じ取られます。
 私が写真の芸術性に感動させられたのは、山形県酒田市の土門拳記念館の写真を見に行った時からだと思います。秋の終わりに近く、静かな佇まいの美しい写真館でした。入館して驚いたのは、私が住んでいる市の図書館で見た土門拳の「古寺巡礼」の写真が、大迫力で迫って来た事です。
 奈良や京都の寺々には好んで出掛けた私達でしたが、いくら近づいて仏像を拝観したとしても、肉眼では判別出来ない程の、仏像の足の裏の膨らみや、1本1本の指の指紋さえ拡大されて写っている、迫力ある写真には、ただ感嘆するばかりでした。<(室生寺弥勒堂 釈迦如来脚部 結跏趺坐(けっかふざ)>
 一指ごとに、木目が実物の指紋と同じように楕円形に彫りだされている様子が、何とも言えない感動でした。これを彫った仏師の目と、技術の確かさと、それをしっかり捕らえて写し出した土門拳のカメラワークの見事さに、深く胸を打たれたのです。これほど写真にのめり込んだのは、初めてでしたから、とうとう旅先で買い求めるには重過ぎる「古寺巡礼」の「愛蔵版」を買って帰りました。
 <法華寺 十一面観音立像上半身>の右胸から零れている膨らみが、やはり中心が高く盛り上がっていて、それが円形の木目によって、実に柔らかく温かくふくよかに見えるのです。このように表現することは、とても凡人には出来ないことだと、眺める度にその美しさにうっとりします。
 室生寺や法隆寺・中宮寺、法華寺や唐招提寺・浄瑠璃寺などは取りわけ好きな寺院でしたから、愛蔵版はとても見応えがあります。
 かの有名な「法隆寺夢殿月の出」・「雪の室生寺五重の塔全景」や「平等院鳳凰夕焼け」など、後々この一枚を撮る為の苦労話が有名になった、素晴らしい作品が数多く載っています。
 「おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ」会津八一の歌でとりわけ有名な「唐招提寺金堂正面列柱」が、感動的な歌をゆくりなく表現しています。列柱は七本だけ並んでいて、白く光る月の明るさが、はっきりと察しられるように、柱の後方に真っ黒な影が直線に引いています。白黒で月影を見事に収めているのです。柱の月影が「つちにふみつつものをこそおもへ」と告げていることは、一目瞭然です。思わず東大寺からこの寺に追われるように来られた、鑑真和上の悲しみに想いを馳せてしまう程の、素晴らしい写真だと思います。
 中宮寺の「菩薩半跏像面相」という一枚は、弥勒菩薩の右頬に四本の指が、中指を中心に近づいている様に撮ってあり、やや俯きの菩薩のお顔を、左右の伏し目によってはっきり捕らえていて、すらりとした鼻筋と軽く結ばれた唇とを入れて、額から左肩の途中まででとめて表現しています。
 この写真を見た人は、きっと皆「こんなに優しい菩薩様は見た事がない」というほどの優しさをたたえておられます。このように「菩薩像をどの角度から見て、どのような光をあてて写し,何処までを拡大して一枚に収めるか」「最も美しく優しく感じ取られる様に撮る」ことに専心した土門拳の心眼が切り取った、最高の一瞬の一枚です。
 全体の光の柔らかさも何とも言えず美しく、彼の芸術性の高さを現すと同時に、み仏のやさしさを一層引き立てています。
 私は、日本の仏像の中で、一番この菩薩様が好きで、中宮寺へ行く度に、お堂に上がってしばらく拝顔して来ます。
 今、私の目の前には、ある方が奈良の中宮寺へ行かれて、わざわざ私の為に求めて来て下さった「弥勒菩薩様の額」が飾ってあります。
 何だか全てが、不思議なご縁というしかない、出会いの賜なのです。とても大切な一枚で、一日の始まりに感謝し、終わりのご挨拶をして、私の人生の大切な一日一日が刻まれています。
 写真との出会いと言えば、夫にも良い出会いの賜である、ヴェネツィア「沈みゆく栄光」という一冊があります。持田信夫の作品ですが、えも言えぬ美しいさざ波の光る運河や、この向きで見て欲しい橋や城など、そして、ごく一部のみが浮き出るようにして、回りはぼかした写真や、今にも崩れんばかりの古城の壁など、矢張りどれもこの一枚に命をかけて、どう受け止めたのか、どう眺めてほしいのか、そしてどう感じてほしいのか、一枚ずつに真剣勝負の時間と心眼が光っているのです。
「スコットランド風物詩」も持田信夫の作品です。
 写真は、有りのままをそのまま写すものですから、ごまかしの効かない芸術だと思います。思えば私達の人生も、有りのままの真実を、正直に表現しながら生きて居ることに気付きます。その真実の一瞬をとらえて、その人の個性を生き生きと写し出す「写真家」という人達の不思議な力に驚きます。
 濱谷浩という写真家の「学芸諸家」という一冊は、人物像の傑作集です。時折開いては、一人微笑んでいます。写っている様々な人物(91人)が、いかにもその人らしい感じで、伝わって来るからです。
 写真集の最後に濱谷は、「虎の皮の斑文は見易いが、人の心は見ることが難しい」「写真は人の心までは写し取れない」などと書いていますが、ノーベル賞の湯川秀樹の写真は、額がとても広くて、眼鏡の奥の伏し目は、四六時中、凡人には想像も付かない難しい考え事をしているようで、生きている尊い方の思惟像に似ているのではないか、とさえ思えます。
 版画家の棟方志功が、下駄の足で土手道を駆け上ろうとしている姿は、まるでそのまま天まで駆け上がろうとしているほどの迫力で写っています。「釈迦十大弟子」の彼の作品が、画面からはみ出さんばかりに、仏弟子の力強さを現して居るように、この写真は迫力に満ちていて、そこがまたユーモラスに写されているようです。
 杉村春子が座して笑っている写真は、自然体の名演技で有名な彼女の技量を如実に現して居るようで、「ねえ、お茶でも如何」と組んでいる指さえ気さくなその心を伝えているようです。きっと無意識な仕草の中にも、濱谷が彼女に感じた、自然体の演技の見事さとその心、を読み取ったのかと思っています。
 佐藤春夫の眼鏡の奥の真剣な眼差しは、「あの骨太の身体の何処からあのような優しく純情な歌が紡ぎだされるのか」という私の日頃からの疑問を解いてくれているようです。「何事も見逃さない」と言うような、その目のひたむきさが、最近夜寝る前に読んでいる「海辺の恋の物語」などを生み出したのではないか、と私には思われるのです。
 人物像を写す時の写真家は、被写体を見つめる時に、その人の個性や心情を引き出して、それをありのまゝ写し出している、と私にはそう思われます。私が実際には知らない人の写真(小杉放庵の後ろ姿や千宗室)を見ても、その人のちょっとした顔や仕草の一枚から、誠実さやひたむきな思いが伝わってくる気がするからです。写真家の被写体を見る心眼と芸術性には、ただただ驚嘆するばかりです。
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