環境問題スペシャリスト 小澤徳太郎のブログ

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判断基準の相違④: なぜ、共通の問題へ対応に落差が生じるのか

2009-08-14 06:45:25 | Weblog
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8月11日から3回にわたって、次のような具体的な例で「スウェーデンと日本の判断基準の相違とその結果を検証してみました。


①将来の電源(2009-08-12)

②地球温暖化への対応(2009-08-13)

③「クロマグロ」の規制提案(2009-08-11)


スウェーデンの判断基準で日本の現状を見ますと「日本の環境・エネルギー問題に対する対応は不十分である」ということになりまし、逆に、日本の判断基準が正しいとすれば、「スウェーデンの対応は馬鹿げている」ということになるからです。皆さんはどちらの判断基準のほうに合理性があると考えますか。


判断基準が異なれば、対応が異なり、対応が異なれば、結果が違ってくるのは目に見えています。それでは、なぜ共通の問題に対して判断の基準が異なるのでしょうか? 次の図は私なりにその理由を一般化したものです。


「判断基準の相違」は問題に対する認識の相違、つまり、認識の深さと広さの相違によるものです。それではどうして認識の深さと広さが違ってくるかと言いますと、これは社会や人生の価値観の相違に由来するのだと思います。

「社会の変化」と「知識の拡大」に対応して判断基準が変わっていかなければ、本来、見える筈のものも見えず、わかる筈のものもわからなくなってしまいます。重要なことは「変わるもの」と「変わらないもの(あるいは変わるべきでないもの)」を社会や人生の価値観によって見分けることです。

当然のことながら、利害の異なる市民で構成されている社会や個人の価値観を形づくる規範は倫理観です。倫理学は人間が安心して行き続けるために他者に強制できる事柄の限界を決める学問です。最近は環境に対しても「環境倫理学」という言葉が使われるようになってきました。社会問題を民主的に解決するためにも、環境問題の解決をめざすにも現実に則した判断基準が必要です。

私はスウェーデンの発想のほうが合理性があると思います。日本は21世紀に入って世界が大きく変化し、さまざまな変化の兆候が見えてきているにもかかわらず、20世紀の発想と仕組みで対処しているために「問題に対する認識」が不十分なのだと思います。このことは何も環境問題やエネルギー問題に限らず、あらゆる面で認められる現象です。特に、日本の国の骨格を形作っている法体系に顕著な問題点が表れていると思います。





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