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一昨日のブログで原発に関する私の論点8点を、昨日のブログで日本の原子力委員会の「原発の特性と位置づけ」5点を紹介しました。私の論点8点は、1995年に、私の原発に対する視点を明らかにするために当時の原発論争をベースに設定したものですので、96年の私の前著「21世紀も人間は動物である 持続可能な社会への挑戦 日本vsスウェーデン」(新評論 1996年7月10日)の226ページに掲載してあります。
一方の原子力委員会の「原発の特性と位置づけ」5点は、昨日もお話したとおり、私の論点8点よりも5年遅れて「長期計画策定会議第二分科会」の報告として公表されたものです。両者を比較してみれば、私の論点8点は原子力委員会の5点をすべて含んでおり、その意味で私の原発への視点のほうが広いといえるでしょう。
さて、昨日のブログに対してお2人の方(冨田さん、XAITOさん)からコメントをいただきました。議論を進めるのに好都合なことに、冨田さんは「原発の安全性が確保され、核廃棄物も安全に処理・処分される技術があるならば、原発は拡大の方向でよい」と考えるとのことですし、XAITOさんは「足りないが問題なのではなくて、使いすぎ自体が問題」とコメントされているので、「原発の拡大は好ましくない」と判断されていると私は解釈しました。
お2人の判断は、まさにこのブログの一番上に掲載している「バーナー」(オレンジ色に白地)に書いたような状況になっています。
そこで、次の図をご覧ください。この図はこれまでの内閣府や新聞社の世論調査をもとに、私が「原発に対する国民の意識」を分類したものです。95年に作成した図ですが、10年を経た2006年の内閣府の世論調査でも不安に感じる人の割合は大体同じようです。
この図に示した国民の認識の割合(%)が「まあ、そんなものだろう」と合意していただけるなら、一昨日のブログで皆さんに問いかけたように、仮に設問のような「夢の原発」が開発されたと仮定すれば、国民の95%(理由はともかく、原発の存在そのものが嫌な5%の人々を除く)は原発へのさらなる依存に異議を唱えないでしょう。
これは「日本政府がこれまで言い続けてきたこと」であり、「原発に不安を感じるが必要である」と考えている一般の人(原発は必要悪という人もいます)が納得してきた「安全に十分配慮した上で、原子力を推進する」という日本の主流の考え方に基づくものです。おそらく冨田さんのお考えも大きく括れば、ここに分類されるのではないでしょうか。
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設問の小澤さんの深い意図から紐解くと、私が「安全に十分配慮した上で、原子力を推進する」派であると思われても仕方がない発言をしたともおもいます。しかしここで、あえて私はこういいます「私は、原子力発電が安全ではない現時点でも”ある意味で”原子力推進派です」
というのは、私が生まれてきたときには既に原子力は使われていて、その廃棄物は処理しきれないのが現状のようで、今もそうでしょう。その現状を目の当たりにして私が思うのは、その既に在る廃棄物を安全に廃棄する、もしくは管理するように努めなければならないということです。なので、より安全に処理する(使用する)ために、技術開発はこれからも推進していかねばならないと思います。その処理する技術が「放置すること」だったとしても、その放置する技術でさえ人間は皆で話し合って決めて「推進」していかねばならないのだと思います。
話は少しずれますが、数日前の私のコメントで、私は(もしも、完全に安全な原子力があったら)「人間と電気の関係を今一度見直す必要がある」と付け加えましたが、それは、小澤さんの「原発を考える⑤」にある「出口」付近の問題に関連することになると思います。
問題なのは、エネルギーを悪用する人間に甘んじて振り回される人がとても多いことだと思います。
余談ですが、日本アニメの「科学忍者対ガッチャマン」ではそんな無限クリーンエネルギーをつかって世界を支配しようとした悪役が描かれていたことを思い出しました(笑)
私がこのブログで原子力を取り上げたのはあくまで発電手段としての原子力の是非です。その結果排出される核廃棄物の研究は例え原発を電源として廃棄しても
すでに蓄積されているものについては安全な核廃棄物のための処理・処分の技術開発を進めけなければならないのは言わずもがなです。
この分野でも、現時点ではおそらくすスウェーデンが総体的に世界の最先端にあると思います。
資源の限界と自然の浄化能力の限界を自然科学が示唆しているときに、異なるエネルギーの間で、例えば
安全な原子力(そのような原子力があったとしたら)と石油とを比較するのはあまり意味がないと思います。この両者を比較してどちらのほうが良いかを選択するのは、エネルギーを使う対象となる資源が十分にある場合だと思います。
私たちが今しなければいけないことは環境にやさしいエネルギーのほうを現在より増やすというのではなく、エネルギーの総消費量を削減するということなのです。