764年、孝謙上皇は重祚し、第48代 称徳天皇として即位します。
称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間続けられますが、
しかし飢饉や謀叛事件が起きるなど、政情は不安定。
761年に平城宮改修のため、都を近江国保良宮に一時的に移した際、
病をかかった孝謙上皇(称徳天皇)を看病して以来、その寵を受けることとなった道鏡。
仲麻呂亡き後は、太政大臣禅師を設け、その地位につきます。
その後、「法王」という地位まで上り詰めます。
769年、宇佐八幡宮より称徳天皇に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けます。
和気清麻呂が勅使として向かい、この神託が虚偽であることを上申します。
これを宇佐八幡宮神託事件といいます。
この後、称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、
事件の決着がつきました。
道鏡が天皇の地位を望んだのか、称徳天皇が道鏡を天皇位に就けたかったのか、
はっきりは分かりません。
770年、称徳天皇が崩御。
独身の女帝に後継者はなく、天武天皇の嫡流(男系)にあたる皇族がいなくなってしまいました。
そこで天皇に即位したのは、天智天皇の孫にあたる白壁王。
聖武天皇が阿倍内親王に譲位した際、
同じ聖武天皇の皇女である異母妹、井上内親王・不破内親王は結婚を許され、
井上内親王は白壁王に、不破内親王は塩焼王に嫁ぎます。
(塩焼王は仲麻呂の乱で、仲麻呂に与し、殺害されています。)
白壁王は天智天皇の孫(施基親王の子)。
称徳天皇の異母妹・井上内親王を妃にむかえ、他戸王をもうけていました。
他戸王は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の最後の一人。
このことから白壁王は他戸王に皇位をつなげるべく、即位(第49代 光仁天皇)。
即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てますが、
そのわずか2年後、772年に光仁天皇を呪詛したとして井上内親王は皇后を廃され、
息子・他戸親王も皇太子を廃されることになります。
他戸親王の廃太子後、皇太子についたのが山部親王です。
井上内親王の立后と他戸親王の立太子に尽力した左大臣・藤原永手が771年に他界し、
藤原家の政権が、藤原北家から藤原式家へ移動したことが、
大きく関わっているのでは、といわれています。
光仁天皇の皇子・山部親王の立太子を狙う、
藤原良継や藤原百川等の藤原式家の陰謀ではないかと。
井上内親王と他戸親王は、大和国宇智郡(奈良県五條市)の邸に幽閉。
775年4月27日、二人とも同じ日に亡くなります。
暗殺説が有力です。
これにより天武天皇の皇統は完全に絶えてしまいます。
次は・・・・「平安京遷都」
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