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"so-whatical" music review

カバーズ ~RCサクセション

2011-03-18 23:41:43 | 音楽
 今回は、この様な非常時に、批判覚悟で書こうと思う。

 多くの音楽ファンが、今回の原発事故によって、このアルバムを思い出したんじゃないだろうか?もう25年も前の忌野清志郎の歌が現実になってしまったと思った人もいただろう。勿論、今は、このアルバムの事や原発の是非論なんか語ってる場合じゃないのは、百も承知だ。だけど、昼夜、命がけで作業されている方々や避難されている方々を見ていると、自分自身に腹が立って仕方がない。今回は、原発に対する僕の立ち位置を書きたいんじゃなくて、僕の精一杯の贖罪、謝りたい気持ちを書きたかったっていう事だけ御理解頂いて、読み進んで下さい。お願いします。

 
 僕は滋賀県で生まれ育ったから原発はとても身近な存在だ。それは勿論、すぐ北の福井県に沢山の関電の原発があるからだ。子供の頃は、原発に対して何となく色んな矛盾(例えば、原発の周りに無駄な公共施設が沢山建っているとか)を感じながら考える事はあったけれど、さほど知識があった訳ではなかった。
 で、中学生の頃。と言っても、中学生の頃の話だから許して欲しいという前置きをしておくけれど、僕の友達で「俺がもし、世の中に絶望して、もうどうにでもなれ!と思ったら、福井県の原発を狙うね!」と言ってた奴がいた。僕は「原発みたいな危ない所に、そう簡単に近寄れる訳ないやろ!」と言っていたが、その空想家の友達は、本当にそうなのか考えたらしく、映画「太陽を盗んだ男」さながら、色々調べてみたらしい。で、意外や彼の結論は「思ったほど難しくなさそうだ。」との事だった。まぁ、何故なのか詳しくは書かないけれど、それが僕が原発に恐怖を感じた最初だった。「もし、原発が誰かに壊されたら…。原発が攻撃でもされたら…、どこにどうやって逃げたら良いんだろう?」そんな事をよく考える様になった。彼は、まがりなりにも、僕にそういうことを考えさせるきっかけを作ってしまった。

 そして、RCサクセションが「カバーズ」騒動を起こしていたのが、僕が高校生の頃。ただ、高校生の僕が、この騒動の本質をどこまで理解していたか?と言われると疑問だ。それはひょっとしたら「原発があるなんておかしいじゃないか!」っていうメッセージよりも、言いたい事をはっきり言ってる態度がスカッとするとか、「ロック=反体制」みたいなパンク精神みたいなものがカッコよく見えた、程度の薄っぺらい感触の方が強かったんじゃないか、と、今になって思うのだ。
 あの伝説の「タイマーズ夜のヒットスタジオ事件」を観た日は、興奮して朝まで眠れなかったのを覚えているし、「もう、清志郎はTVに出れないだろう。」とも思った。ただ「何故、原発の事をはっきり言うと、メディアは過剰な反応をするのか?」という事を、もっと深く知るべきだった。あの頃にもっと知っておくべきだった。

 そして月日は流れ、僕は、自分のキャリアの中で、たった2年程度だけど、メディア広告の世界に身を置いていた時期があった。まだ何も分からない20代半ばの頃だ。
 そこで、僕は、身をもって、やっと「カバーズ」で、清志郎が言いたかった事が分かったのだった。そして、分かれば分かる程、自分の思いと真逆の仕事をしなければならない事に苦しんだ。

 サラリーマンと呼ばれてる人の多くは、「時には、それがたとえ自分の意思に反した事であっても仕事としてやらなければならない」という経験をした事があると思うし、そんなに珍しい話ではないのだろう。しかし、それは、当時、社会人駆け出しだった僕にとって、あまりに強烈だったし、深く傷付いた。それは、僕にとって、最も大きな価値観を持っていた音楽、その音楽を裏切った様な気がしたからだ。高校生の頃「カバーズ」を熱く語っていた自分は嘘っぱちになった。僕は、それが人生のほんの僅かな期間で、爪の先程度であったとしても、原発広報に加担した。

 僕は広告代理店という仕事が「無いものを売り歩く」仕事ゆえに、実は文化的にも深く、クリエイティブで、必要意義もあるのだ、と、自らの体験から自信を持って言わせて貰いたい反面、僕自身は「無いものを売り歩く」仕事に疲れてしまった。やっぱり向かなかった。だから、今、この世界にいない。

 で、相変わらずメディアは、この非常時に及んでも、偏った報道をしている。9電力と電気事業連合会を中心とした図式のサークルの中で、電気に関わって金儲けをしている人達の体質は、この後に及んでも、まるで変わってないように見える。

 
 


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