朝マナ

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ヨシュア記 9章

2017年07月03日 | ヨシュア記
ヨシュア9:25 我々は、今あなたの手の内にあります。我々にあなたがして良いと思い、正しいと思うことをしてください。

カナンの地は、先のエリコやアイのような都市国家が林立する地域でした。そして、その中にギベオン(新改訳では「ギブオン」)という町がありました。

ギベオンの人々はイスラエルと和を講じよと、遠方の住民をよそおってヨシュアのもとに面会を申し出ました。イスラエルの人々はそれを見抜けず、ギベオンと和平条約を結び、主の御名で誓いを立てました(9:14)

しかしその後、ギベオンの人々がカナンの住人であることを知り驚きます。そして、ギベオンの指導者たちを問いつめたのですが、結果的には、彼らを生かし、イスラエルのために下働きをさせることにしたのです。主の御名によって誓ったことであるが故にくつがえすことを由としなかったのです。

この出来事は悪魔の巧妙な手口を表しているという解釈があります。悪魔はギベオンのように姿を偽って仲間に入り込むのだから、油断してはいけないと教えます。

私は、どうもそのようには思えません。確かに、イスラエルは主に祈らずに和を講じたのであり(9:14)、彼らの油断がこの結果を招きました。しかし、イスラエルの人々は、主の御名によって誓ったので御名を汚さないために約束を守ったことは注目すべきことです。また、そのことを主はお認めになりました

イスラエルの失敗さえも用いて、神は異邦人をお救いになるのです。神は、イスラエルだけを偏愛する神ではなく、主なる神を畏れ従おうとする者たちをお救いになる神ですここに希望があります

事実、ギベオンの人々は、主に対する信仰を告白しています。主なる神が、カナンの地をイスラエルに与えたことを認めています。つまり、自分たちが滅ぼされて当然であることを認めているのです

ところが、それを認めつつ彼らは生きる道を必死で模索したのです。エリコの町の遊女ラハブもそうでした。神の哀れみを求めて生きようとする者を、神は受け入れてくださるのです。罪人が悔い改めて生きようとするのを、神は喜ばれるのです

私たちは、己の罪のために神の御怒りによって滅ぼされて当然であることを認めているでしょうか。自分は神によって聖絶されなければならない罪人であることをご存知でしょうか。

神が、罪人である私をさばき滅びにお定めになったのは当然だと認めることは神が義であることを告白することです。しかし、「神のさばきは不当だ」として対抗することは、自分の義で生きようとすることです。

神のさばきを認めたくない人は、神に敵対する者です。その人は、自分の義(自己正義)を盾にして神と戦おうとする者です。神の民イスラエルに敵対するカナン人とは、そのような人々のことです。

しかし、神のさばきは正しいと認める人は、神の哀れみを受けます。ギベオンの人々は、神の義を認めて、神の哀れみを求めました。彼らは、自分たちの義を捨てて、神の義を認めました。

神の義を認める人は謙遜になります。だから、ギベオンの人々はこう告白しました。「我々は、今あなたの手の内にあります。我々にあなたがして良いと思い、正しいと思うことをしてください(9:25)

神の御前に、ありのままの自分をさらけ出し、「どうぞ御心のままになさってください」と告白できる者は幸いです。「御心のままに」とは、自分たちが滅ぼされることが御心なのであれば、それも受け入れます……という意味です。

日本では、「よろしくお願いします」と言いますが、それはあくまでも「自分にとってよろしくなるようにして下さいね」という下心がないわけではありません。そんな下心があると、神に躓く(つまづく)ことになります。つまり、自分の義がある人は、神に躓きます。

ギベオンの人々はカナンの中でも有能な民族です。その評価の高いことは次の10章2節で明らかになります。そんな自分たちの有能さにおごらずに、イスラエルための水くみや薪あつめに従事することを受け入れました。自己正義があったら、そのような取り扱いにを不服に思ったことでしょう。

彼らは自分の義を捨てて、謙遜に仕えました

ギベオン人たちは、その後のイスラエルの歴代に名を残しています。あのバビロン捕囚後に帰還民の中にも、彼らの名は記されています。彼らは、神に従った人々でした。(Ω)