朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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士師記 1章

2017年07月21日 | 士師記
士師記1:19 主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。

士師記は、カナンの地に入ってからイスラエル初代の王サウルの登場までの約400年間……学者によっては年数が異なる……の出来事が記されています。ヨシュアの死後、イスラエルは各部族からなる共同体として、カナンの地を支配するのですが、王による中央集権国家ではありませんでした。

イスラエルにとって王とは主なる神です。民が神に聞き従うとき平和が保たれるのですが、神に背を向けるとき、他民族の攻撃や支配に苦しむといったことが今後くり返されます。

ヨシュアにひきいられてカナンに入った当時、イスラエルの人々は信仰に燃えていました。神から与えられた嗣業の地を、神の栄光の現れる国にすることが、イスラエルに与えられた使命でした。

しかし、それを妨害する働きもあります。それは、外側からは異教の民による攻撃や影響であり、内側からはイスラエルの不信仰と堕落でした。このことでイスラエルの民は悪戦苦闘します。そして、その悪戦苦闘は、今日の私たちの姿でもあります

さて、イスラエルの各部族は、それぞれ受け嗣いだ地を完全に支配できていませんでした。つまり、偶像礼拝の民がまだ残っていたのです。

第1章には、「住民を追い出さなかった」という記録がくり返されていますが、イスラエルの人々は、神の命令に徹底できていなかったわけです。徹底できなかった原因は何だったのでしょうか

今日の聖句は、ユダ部族の取り組みが記されています。

ユダ部族の人々は山地を支配することができました。それは、主が共に居られたからです。しかし、平地を支配することができませんでした。その理由は、敵が鉄の戦車を持っていたからだと記しています。

どういうことでしょう。神が共に居られるのに、鉄の戦車を持っている敵には勝利できないのでしょうか。 
※戦車とは馬に引かせて戦う馬車。槍や剣が装備された当時最強の武器であった。

そうではありません。ユダの人々は、鉄の戦車を持っている敵に対しては、恐れをなして、主が共に居られることに信頼できなかったので、闘うことができなかったのが真相です。

自分の力で何とか対処できると思える敵(問題)に対しては神に頼るが、自分の手には負えない敵(問題)に対しては、さずがの神でも打ち負かすことができないと思って、神により頼まない……。

こんな態度を、私たちはしていないだろうか

私たちは、自分に出来そうもないことは、神にもできないと思いやすいのです。そうではありません。「人にできないことも、神にはできる」のです(ルカ18:27)

敵が強いか弱いかで態度を変えるのをやめよう。問題が大きいか小さいかで態度を変えるのをやめよう。敵(問題)が大きかろうと、小さかろうと、神が共に居られるなら同じです。

自分で対処できそうな敵だと、勝利の兆候が見えるので、もうちょっとだと思って、「主よ助けてください」と祈るが、何の兆候も見えないと、不可能だと思って祈らないという態度はないだろうか。

これは、共に居られる神を信頼しきっていない態度です。勝利の兆しがなくても、「神にはできる」と信じて祈りましょう

ユダの人々は、鉄の戦車を持っている敵には無理だと思って、戦おうとしませんでした。そして、そのことがやがて妨害となり、罠となりました。

私たちは、この問題は無理だと思って放置していることはないだろうか。その放置した問題(敵)が、やがて信仰生活の妨害となり罠となってしていないだろうか。

自分には解決できなくても、神にはできます。祈って、神に対処していただこうではありませんか。(Ω)