Art & Life in Toronto

カナダ・トロントに住んで出会ったアートを紹介します

nuit blanche toronto

2016年10月17日 13時02分51秒 | カナダの芸術
10月最初の土曜日の日没から夜明けまで、トロントの街中で現代美術に出会えるnuit blanche。一夜限りの大イベントに立ち会うのも今年で4回目。今年は休みなしで働いている最中で、忙しいけれどやっぱりはずせないと思い、仕事の後、夜9時頃から街へ出た。

まずは市庁舎でガイドマップを入手。市庁舎からほど近いCampbell House Museumは、nuit blancheの夜は毎年建物を取り囲むように長い行列ができるので、これまで入ったことはなかった。今年はビル・ヴィオラのビデオ作品が展示されているということで、覚悟を決めて並んでみた。結局、入館までになんと2時間近くかかった。


Campbell House Museum

展示作品は<Visitation>と<Transfiguration>という2つのビデオ作品。前者は、2人の女性らしき姿が、ビル・ヴィオラ独特の西洋の静物画のような漆黒の背景にぼんやりとうかびあがり、見る者のほうへ徐々に近づいてくる。最初は服の色すらわからないほどに不鮮明だが、ある瞬間、水のヴェールを突き抜けて、こちら側に鮮やかに姿を現わす。想いを遺し、水のヴェールという生死の境を越えて一瞬、この世に姿を現した死者のように。
2つのビデオ作品は人物が異なるだけで同じ作り。水のヴェールという巧みな装置によって、現実には表現不可能なことを伝えてくる、よくできた作品だ。

マップを見て、街を歩き始める。道路を封鎖して設置されたこのような作品は、nuit blancheらしい作品だ。


Paco Barragán<Utopia’s Ghost (Fallen Flags)

向かったところはAGO。現在開催中の「Toronto: Tributes + Tributaries, 1971-1989」展出品作家の一人であるレベッカ・ベルモアが、パフォーマンスを行っていた。レベッカ・ベルモアはオンタリオ州北西部のアップサラ出身で、先住民族のひとつであるアニシナアベ族の作家である。先住民族をめぐる問題をはじめとする社会的な問題をテーマや契機に作品を発表してきた作家で、2005年には先住民族出身の作家として初めて、ヴェニス・ビエンナーレカナダ館の出品作家となった。





およそ10メートル四方の画面に、茶色の粘土を塗りつけていた。画面の外に積み上げられた缶からバケツに粘土を移す。そのバケツをもって画面内に入り、かがんだり、座り込んだりしながら、まだ塗りこめられていない場所に自らの手で粘土を塗りつけていく。長時間続ける作業としては、しんどそうで痛々しい。見ているうちに、私の代わりに何かと戦ってくれているように思えてきた。いつ、どのように終わりを迎えたのだろうか。

AGO最寄りのセント・パトリック駅から地下鉄に乗り、ユニオン駅に行く。ユニオン駅では駅舎内に2つの映像作品。David Hammonsの<Phat Free>は、真っ暗な画面からパーカッションらしき音のみが聞こえてくると思いきや、しばらくして映った画面には、歩道でバケツを蹴飛ばしながら歩く男(作家自身)。パーカッションの音と思ったのは、実際はバケツがコンクリートの道を転がる音だった。ただそれだけの映像作品だが、なぜか印象に残る。
それと相対して設置されたテレビモニターで上映されていたのはブルース・ナウマンの<Slow Angle Walk (Beckett Walk)>。

ユニオン駅には駅舎外壁に映像作品がもうひとつ。市民参加型の作品で、つまりは匍匐前進する人々の姿を壁に映し出したものだが、外壁をよじ登っているように見える、楽しい作品。これもnuit blancheらしい作品だ。


Daniel Canogar<Asalto Toronto

これはBrookefield Placeというオフィスビルの1階ロビーに設置されたKevin Cooleyの<Fallen Water – Niagara Escarpment>。




船が?

最後はDesign Exchangeの映像作品2つ。John Akomfrahの<Vertigo Sea>は、クジラ漁やホッキョクグマ漁などの圧倒的な映像が、巨大な3面スクリーンで上映される。あまりに雄大な映像なので、いかにして一作家が撮影したかと思いきや、BBCのアーカイブの映像とのことで腑に落ちた。すごいことはすごいのだが、もう疲れてきていたからなのか、うまく受け止められない。

もうひとつはAngelo Muscoの<The Body Behind the Body>。会場の手前に、この作品には裸体が含まれています、との注意書きがあったが、中に入ったら、含まれているというより裸体のみ、だった。宮殿のような建物やさまざまな構造物が、クローズアップすると全て全裸の人間の組み合わせでできている。疲れたアタマにも刺激的な、すさまじい作品だった。





ということで今年は、見た数は少なかったけれど、いい作品が見られて満足でした。3時まで頑張りました。

nuit blanche toronto
(10/1-2/2016)

ローレン・ハリスの都市と自然

2016年09月25日 08時55分12秒 | カナダの芸術
最近The Wardという言葉をよく目にする。普通名詞のwardは「区」の意味だが、トロントでThe Wardというと、正式名称はSt. John's Wardという昔の地名で、カレッジ、ヤング、クイーン、ユニバーシティという4つの大通りに囲まれた、現在のトロント・ダウンタウンのど真ん中にあたる地区のことだった。この地区は、19世紀からアフリカ系、アイルランド系、ユダヤ系、そして新しくは中国系の貧しい移民が多く住みつき、貧困と不衛生が蔓延するスラムであった。20世紀に入る頃から都市開発が始まり、それと共に移民の居住地も移動していったが、1960年代以降は、この地区に新市庁舎が建ち、広場ができ、巨大ショッピングモールや高級高層ホテルができて、今は、昔の名残はすっかりなくなっている。
トロントという都市の歴史を振り返り、今後の都市計画を考える流行の中で、昨年The Wardについての本が出版されたのも契機となり、この地域の歴史が注目されているらしい。

グループ・オブ・セブンのメンバーであったローレン・ハリスは、1910年代にThe Wardの姿を描いた。AGOで9月18日まで開催されていたローレン・ハリスの個展は、ロサンゼルスとボストンで開催された後トロントに巡回したものだ。展覧会名は「The Idea of North」といい、もともとの巡回展の内容は、1920~30年代にスペリオル湖北岸やロッキー山脈、極北地方を旅して描いた、ローレン・ハリスの代名詞ともいえる抽象的で神秘的な「北の風景」が中心だった。



その巡回展に、1910年代のThe Wardの絵と写真のセクションを付け加えたのはAGOのキューレーターだ。上のような風景画も、実物を見て意外といいなと思えたが、ローレン・ハリスの若い時期の素直な絵と、およそ100年前の多文化都市トロントの原初に近い姿を知ることができたのはよかった。





描かれているのは1910年代ということで、低い民家の後ろに高い建物が見えたり、建設現場が描かれていたりして、既に開発が始まり、街の姿が変わり始めていることが見て取れる。
一方で、ローレン・ハリスは、絵を描いていられるほどに裕福な家の出であったということで、その彼が移民の人々の貧しい暮らしをどのように見ていたのかしらと思った。また、極北地方を旅したとき、イヌイットの人々に会って、その姿を写真に収めたりしているが、彼が描く極北の絵には人の姿は全く描かれていない。
彼の絵は見やすいけれど、彼の中で作り上げられたイメージとしての風景なのかもしれないな、と思った。

すっかり肌寒くなったトロントから、一足早く黄葉をお届けします。



The Idea of North: The Paintings of Lawren Harris
(9/18/2016, Art Gallery of Ontario

ケベック美術館(その3ケベックの工芸とデザイン編)

2016年09月18日 14時09分17秒 | カナダの芸術
イヌイット美術の展示室の隣には、現代工芸とデザインの、カラフルで楽しい展示室がある。
工芸は、主に陶芸とガラス。陶芸では、日本でも見る機会のあるデリール・ロゼリンの作品があった。ケベック州出身だったとは、意識していなかった。


陶芸作品


真ん中あたりに立っているのがデリール・ロゼリン作品

ガラス作品にも、色や形、表面の表情に惹かれるものが多い。




水の枕に人形の写真?ロマンチックなガラス作品

多くはプロダクト・デザインとグラフィック・デザイン。展示解説では、ヨーロッパで学んだデザイナーたちがケベックに戻ってケベック・デザインを牽引したこと、1967年のモントリオール万博と1976年のモントリオール・オリンピックが、建築、都市計画、交通、サインなど様々なデザイン・プロジェクトの機会となったことが語られている。


モントリオール・オリンピックのポスターと、聖火ランナーのトーチが見える


グラフィック・デザイン(ポスター)


動く書斎!

あくまでも、ケベックの現代工芸史であり現代デザイン史なのである。カナダという国の視点や、それとの関係などは、一切言及されない。ケベックとしてこのように独立した工芸とデザインの歴史があって、しかもそれはこれほどに充実していることを、強く印象づけられる。日本ではあまり思い出すことのない、国民国家を創出したり維持したりするための装置としての文化、美術館ということを思う。

Decorative Art and Design in Quebec
(8/13/2016, Musee national des beaux-arts du Quebec

ケベック美術館(その2イヌイット美術編)

2016年08月28日 14時45分58秒 | カナダの芸術
Pierre Lassondeパビリオンの、明るい階段を3階まで登るとイヌイット美術の展示室がある。ガラスの壁から外光が入る展示室には、島のような大きなガラスケースが設置されている。



ケベック美術館のイヌイット美術は、Raymond Brousseauという個人が50年以上かけて築いたコレクションで、作品数は2600点にのぼる。イヌイット美術は、石や象牙、クジラの骨、鹿の角などの自然の素材を用い、家族や動物との関わりや霊的な事柄をテーマにすることが多いので、古い年代のものかと思ってしまうが、実は「現代美術」である。ここに展示されている作品も、1950年代以降のものである。

かつてイヌイットの人々は、貴重なセイウチの牙を巧みに彫って、櫛や銛などの道具、玩具やゲーム、お守りや儀式のための道具などを作っていた。彼らが外部世界、つまりヨーロッパの捕鯨者や探検家と出会ってからは、縫い針などの交易品も作るようになる。そのような状況が20世紀初めまで続いた後、1940年ごろからは、カナダ政府が彫刻を彼らの産業として奨励したこともあり、美術品としての彫刻が作られるようになる。そうして作られるようになったイヌイット美術は、かつて彼らの生活の中で、彼ら自身の生活のために作られていた彫刻とは異なるけれど、彼らが代々伝えてきた知恵や社会規範、世界観を記憶し伝えるものともなっている。

ひとつの物体の中に人と動物の姿が混然一体となって現れる作品が目についた。彼らにとっては、人と動物が、別々の世界に生きて対立するものではないことがうかがえる。


オモテ(ウラ?)


ウラ(オモテ?)

そのことが、生活情景として描かれた作品もある。



動物の姿が愛らしい。上はセイウチ、下は泳ぐトナカイ。





母子の絆や情愛を伝える作品も多い。左の作品は側面からお腹の胎児が見える。



下の作品は<歌う顔>という、縦2センチほどの小さい作品だが、これを見た時ふと内藤礼さんのことを思い出した。それは、小さくてはかないもの、という作品のたたずまいが似ていたからだと思うが、地上のあらゆる生を祝福するという内藤さんの作品のテーマは、イヌイット美術と通底するものがあるかもしれないな、とも思った。



Inuit Art. The Brousseau Collection
(8/13/2016, Musee national des beaux-arts du Quebec

ケベック美術館(その1建物編)

2016年08月28日 02時51分15秒 | カナダの芸術
週末を使ってケベックシティに旅行した。ケベックシティは、フランス系住民が多数を占めるケベック州の州都で、歴史ある城塞都市。世界遺産に登録されている旧市街の散策は日曜日にして、まずはケベック美術館に向かった。

私が泊っていた旧市街にある民宿のようなホテルからは、旧市街を抜け、サン・ルイ門で城壁の外に出て、セント・ローレンス川に面した広大な公園を歩くこと約30分。


サン・ルイ門

ケベック美術館の建物は複雑だ。よって建物の紹介から。
現在のケベック美術館は4つの建物から成る。一つ目は、最も古いGerard Morissetパビリオン。1933年開館。新古典様式の内部装飾が優雅。ここには20世紀初頭までのケベック美術の展示室と、企画展示室がある。


Gerard Morissetパビリオン外観



二つ目は、1991年にケベック美術館の一部となったCharles Baillairgeパビリオン。この建物は、100年以上にわたってケベックシティの監獄として使われていた歴史的建造物で、レンガ造りの内部には独房が残っている。ここには20世紀初頭から1950年代までのケベック美術の展示室がある。


Charles Baillairgeパビリオン外観


独房

また、5階からつながる塔には、ダブリン出身でモントリオールに移住したDavid Mooreの<aLomph aBram>が設置されている。絞首台に上っていくかのような狭い階段を上がった先に、ミケランジェロの人物像を思い起こす、等身大よりも大きくたっぷりとした人の形の木の彫刻が、見上げる位置に設置されていてびっくりする。


aLomph aBram

三つ目は、今年6月にオープンしたばかりのPierre Lassondeパビリオン。地上3階、地下1階の各フロアに、1960年代以降のケベックの現代美術、イヌイット美術、デザインの各展示室と、企画展示室がある。


Pierre Lassondeパビリオン外観

設計は、レム・コールハース率いる建築設計事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)のニューヨーク事務所が担当。ニューヨーク事務所の代表は、重松象平さんという日本人だ。美術館としては異例のガラス張り、真白な館内に金色のアクセントがあり、どこもかしこも光に溢れている。









以上3つのパビリオンは、中央パビリオン(1991年完成)と地下通路によってつながっており、かなりの規模ではあるが、雰囲気の全く違うパビリオン間を行き気することは苦にならず、楽しい。


中央パビリオン

中央パビリオンからPierre Lassondeパビリオンへの長い通路は、モントリオール出身のJean-Paul Riopelleによる<Tribute to Rosa Luxemburg>という長大なフレスコ壁画の展示室となっている。スプレーペイントによる鳥。釘や蹄鉄、シダ植物などが使われていることも見て取れる。30枚の絵の連なりだが、1枚1枚から何か違う歌やストーリーが感じられるようだ。


Tribute to Rosa Luxemburg

さて、まずはPierre Lassondeパビリオンの展示室へ。

Musee national des beaux-arts du Quebec
(8/13/2016)

ゲリラ・フォーク・オペラ「羊を数える」

2016年06月13日 10時51分04秒 | カナダの芸術
ユーロマイダンという言葉を知っているだろうか。マイダンは、ウクライナ語で「広場」を意味する。ユーロマイダン(欧州広場)は、かつては「独立広場」と呼ばれていた、キエフの中央部にある広場の名前である。

この広場を舞台に、2013年11月、ウクライナのEU加盟やヤヌコーヴィチ大統領の辞任を求める反政府デモが始まった。当初は平和的だったデモは、2014年に入ると治安部隊が鎮圧に乗り出してデモ隊と衝突するようになり、2月には大規模な衝突に発展した。非公式な数では780人を超える死者が出たという。ユーロマイダンは、この反政府運動を象徴する言葉となっている。

ユーロマイダンを描いたオペラを見に行った。オペラといっても普通想像するようなものではない、その名もゲリラ・フォーク・オペラ。会場はここ、元は小さな教会だった建物。



祭壇があったであろう位置に布を張って3面のスクリーンとし、デモのニュース映像などを映し出している。最初は、会場中央の大きなテーブル(食卓)のまわりと、会場両脇に階段状に、客席が設けられていたが、ダンスに誘い出されるうちにテーブルと長椅子がなくなり、気が付けばそれらはスクリーンに映し出された治安部隊との間を隔てるバリケードとして積み上げられている。バリケードのこちら側にいる役者と観客はみな反政府デモ参加者となり、なんと炊き出しまであって本物の食べ物がふるまわれる(チケット代にincludes foodとあったのはこのことだった!)。治安部隊との対立は激しさを増し、我々も一緒になってレンガ(っぽいもの)を投げたり、武装した一部のデモ隊(役者)が治安部隊の暴力から守ってくれたりする。ユーロマイダンで実際に起こったことをなぞるように、最後は衝突によって死者が出る。100人以上いるであろう観客が、もう座るところもなく役者の誘導で動かされるので、見せ物として高い集中と緊張を保つのは難しい。だが、観客にデモに参加させ、体感させるためのシミュレーション装置としては、大掛かりで、手が込んでいる。役者も大変なことだろう。

同時代のウクライナの事件がカナダで芝居になるのには恐らく訳がある。19世紀末に始まったウクライナからカナダへの移民(奇しくも今年は移民125周年)は、農業ができる広大な土地を求めて多くは中西部に向かったが、第1次大戦後、第2次大戦後、ソ連崩壊後と大きく3つの波を経て増えていった。現在カナダには、ウクライナ本国とロシアに次いで第3位、約125万人のウクライナ系住民がいる。カナダの中のエスニック・コミュニティとしても9番目の規模である。

実際にユーロマイダンに立ち会い、デモ参加者に様々な支援を行った Marczyk夫妻(MarkとMarichka)がこの作品を書き、トロントでLemon Bucket Orkestraと共にこの作品を作り上げた。ちなみにLemon Bucket Orkestraのほうは、「カナダで唯一のバルカン・クレズマー(東欧系ユダヤ)・ジプシー・パーティ・パンク・スーパー・バンド」という自称。バンドメンバーがデモ隊と化していたので、音楽の魅力は十分に発揮されておらず残念だったが、映画『アンダーグラウンド』(エミール・クストリッツア監督)好きの私としては愛する世界だ。しかもなんと、そのファンファーレ・チョカリーアとのジョイントライブがトロントであるではないか!

A Guerrilla Folk Opera Counting Sheep
(5/28/2016, Broadview Place

クロノス・カルテット with ターニャ・タガック

2016年06月12日 13時15分06秒 | カナダの芸術
クロノス・カルテットは、サンフランシスコを拠点に40年にわたって活動している、現代音楽を専門とする弦楽四重奏団だ。結果的にはクロノス・カルテットもとても面白かったのだが、私が王立音楽院の美しい音楽ホール、ケルナー・ホールで開催されたこのコンサートに行ったのは、実は特別ゲスト、ターニャ・タガックの歌を生で聞いてみたいと思っていたからだった。

ターニャ・タガックはイヌイットの自治準州であるヌナブト準州のケンブリッジベイ出身の歌手で、イヌイット伝統の喉歌(Inuit throat singing)をベースに、エレクトロニカ、インダストリアル、メタルなどの要素も取り込んだ、独特の音楽を作っている。クロノス・カルテット以外にもビョークなどとのコラボレーションもある。

イヌイットの喉歌は、元々、二人の女性が向き合い顔を近づけて歌い合うもので、どちらが長く歌い続けられるかを競う、ゲームの要素も持つものだそうだが(例えばこのように)、それをタガックは一人で歌う形式にした。
ちなみに興味深いことに、二人の女性による喉歌の風習はアイヌの人たちも持っていた(レクッカラと呼ばれる)ということだ。

全11曲のプログラムのうち、タガックが共演したのは「Snow Angel」「Sivunittinni」「Nunavut」という3曲。私が知っている「歌」ではない。ある種、野蛮な「音」の連なり。喉、口、鼻がいったいどうなって、この奇妙な音を作り出しているのか。怖いもの見たさのような感じで目が離せないが、自分が何を見ているのかよくわからない。演奏後、ケルナー・ホールの満員の聴衆は熱狂的に拍手で称える。望んで見に来ている人たちだとは分かっているが、コンサートを楽しむ普通の紳士淑女のように見える人たちが、これをどんなものとして楽しんでいるのだろうかという疑問も湧いてくる。

(現代)音楽には疎い私だが、クロノス・カルテットが見せてくれた現代音楽の多様さは楽しいものだった。例えば、Mark Applebaumという作曲家が2015年に作った「Damstadt Kindergarten」という曲は、音とメロディを身体のジェスチャーで表わして、最終的には楽器による演奏は無くなり、無音の中で全てジェスチャーに置き換えられてしまう。音が鳴っていなくも、ジェスチャーを見ることで音楽が聞こえてくるような気がして、「音楽」の概念が広がる経験だった。

クロノス・カルテットは世界各地の作曲家に委嘱して新しい曲を生み出し続けているが、最も印象に残った「Bombs of Beirut」という曲も、若いアルメニア系アメリカ人作曲家Mary Kouyoumdjianによって2015年に作られたものだ。
アルメニア人虐殺から逃れてレバノンに移り住んだ一族だったが、両親と自分の代になってレバノン内戦により再び逃れざるを得なくなった経験を持つ作曲家は、家族や友人へのインタビュー録音音声をこの曲に織り込んでいる。人の声に楽器の演奏が重なって進むが、曲の半ばで声と楽器の演奏が止まると、激しい爆撃音が鳴り響く。これは実際にレバノンのアパートのバルコニーで1976年~78年に録音されたものとのことで、コンサートのホールにいながらも恐怖を感じるほどの激しさだった。

アンコールはなんと3曲、8時から始まったコンサートは、終わった時11時近くになっていた。生まれたばかりの新しい音楽たちが残した余韻は、5月の夜風より爽やかだった。
ターニャ・タガックについてはソロコンサートも見てみたいと思うが、機会があるか、どうか。

Kronos Quartet with special guest Tanya Tagaq
(5/25/2016, Koerner Hall, The Royal Conservatory

Videofagでの最終公演「S h e e t s.」

2016年05月23日 00時20分42秒 | カナダの芸術
新進気鋭のカナダ人劇作家・演出家Jordan Tannahillが、パートナーと共にVideofagというアートスペースを持って展示や上映、公演などの活動をしていることについては、以前ブログに書いたことがあった。そのVideofagが3年半ほどの活動をもってこのたび閉鎖されるとのことで、ここでの最終公演だという芝居「S h e e t s.」(Salvatore Antonio作・演出)を見に行った。


色あせたオレンジ色の小さな看板がかかるVideofag
もともと床屋だったスペースを改装、白く覆われた窓の向こう側が公演会場

タイトルのとおり、ホテルのベッドのシーツを巡るオムニバス形式の物語。4組の客が登場する。ホテルの部屋というプライベートな空間で、それぞれが、心と身体、そして人間関係を赤裸々にさらして見せる。つまり、全員が全裸になる。本番の「行為」にまでは至らないが、かなりいろいろなことが行われる。登場人物10人のうち、最初から最後まで服を着ているのは客室係の女性だけ。彼女は舞台回しである。客が去るごとに現れて、シーツの残り香をかぎ、ベッドメイキングをして、次の客を迎える。実はもう一人、この空間で起こることを見つめ続ける存在がいる。男性の幽霊である。ちなみに彼も全裸で、芝居が始まる前から壁際に立っていて、場所を変えながらずっと部屋の中にいる。

この芝居が行われているのは、それこそホテルの部屋より広いかどうか、というくらいのスペース。中央にクイーンサイズのパイプベッドがあり、それを左右から取り囲むように、約15席ずつの客席が設けられている。つまり観客は約30人。私は思い切って最前列に座ったら、足にあたりそうな距離で全裸の役者が行ったりきたりする。

4組目の客が部屋から立ち去った後、客室係の女性の独白。シーツに残ったにおいや汚れは、洗っても全ては取り除けずに残っていく、そうやって人々は見知らぬ誰かと互いに出会っている、とつぶやいた後、「I see you.」と言いながら観客一人一人の目を見つめる。それによって、観察者であった観客を、シーツを介して出会う人の群れのなかに引きずり込む。そして最後は「That’s it.」とあっさり幕を下ろした、観客にシーツの切れ端をおみやげに持たせて。

会場に入るとき、ドアにあった「開演後は途中入場できません」という張り紙がなんとなく気になったが、つまりそういう「親密な」ものを見たのだと思った。でもそれは、「プライベート」ということを描く方法として、必然性のあるものだとも思えた。見た目の過激さにかき消されることなく、人の姿や関係がストーリーとしてしっかり残っている。

Videofagはトロント市内のケンジントン・マーケットという地域にある。もともとユダヤ人居住区だったところで、現在は、八百屋、肉屋、魚屋、パン屋などの食料品店に加えて、様々な国の料理のレストランや、古着屋や雑貨店が立ち並ぶ楽しい市場である。ようやく気温が20度にまで上がり、街歩きをする気持ちになれた今日、芝居終わりに両手にいっぱいの野菜、果物、パンを買って楽しかった。

S h e e t s. (Written & Directed by Salvatore Antonio)
(5/21/2016, Videofag

トロント画廊めぐりGallery Hop

2015年09月28日 00時12分11秒 | カナダの芸術
画廊めぐりをしようと思った矢先、Gallery Hopの情報に接した。Gallery Hopは、美術雑誌『Canadian Art』を発行しているCanadian Art Foundationが主催するイベントで、今年は9月26日、27日の2日間に計10コースを実施。地域ごとに設定されたコースはそれぞれ約2時間、4~7つの画廊を訪問する。コースの名前を並べると、Yorkville, Dundas West/Morrow, West Queen west, 401 Richmond/King West, Dupont/Miller, Bloordale, Dundas West/Ossington, Niagara/Techseth, 180 Shaw/West Queen West, King East/Distilleryということで、それぞれトロント市内の画廊が集まる地域である。

私が参加した「Dupont/Miller Tour」では、トロント中心部からは西北のDupont通り・Miller通り沿いにある7つの画廊をめぐる。ちょっと行きにくいところも含むので、貸切バスで回るこの機会がありがたい。それぞれの画廊では、画廊主や担当者が画廊の歴史や開催中の展覧会について説明してくれる。いつも思うが、画廊主をはじめ画廊で働く人たちはとってもおしゃれ。街中ではあまり見かけない種類の人たちだ。一方、ツアーの参加者は約50人。割合としては年配の白人女性が多く、実際に美術品を買うような人たちなのかな、と思う。

ひとつめはBarbara Edwards Contemporary。ここではウィリアム・ケントリッジの「Universal Archive」を展示している。ばらした辞書の1ページあるいは2ページに、黒インクで人や木、猫、タイプライターなどを描いたもので、このシリーズが始まった当初はドローイングだったそうだが、ここにあるのは最近の版画である。ケントリッジについては、彼が演出するオペラ「Lulu」が、11月にニューヨーク・メトロポリタンオペラで上演されるという。どんな演出をする人なのか、想像もつかない。


Barbara Edwards Contemporary

2つめはKatzman Contemporary。ここは去年も来たところで、しかしそれ以来だった。Meryl McMasterという作家の「Wanderings」という写真作品を展示している。アルバータ州南部のシクシカ族をルーツのひとつに持つ作家で、自然の中で、自らさまざまな衣装をつけてオート撮影する。写真1点1点にストーリーがあり、それを自ら演じるということでは、シンディ・シャーマンの手法に似ているだろうか。Meryl McMasterは弱冠27歳、新進気鋭の美術作家で、今年は北米で14の展覧会への出品があるという。民族文化・伝統の香り(見る者の気持ちをざわざわさせる感じ)を残しつつスタイリッシュにまとめられた作品に人気が出ているのは分かる気がする。




Katzman Contemporary

3つめはKatzman Contemporaryの並びにあるTrack and Field Gallery。入口はこんな感じだが、



中に入ると明るい光にあふれていて驚く。なんと、奥のソファーセットの向こうは外だった。



白い壁には、色鮮やかな絵画。トロント出身のNicole Katsurasの作品で、キャンバスに絵具をそのまま絞り出したような作品だが、よく見ると絞り出された絵具は1色ではなくマーブルになっているものもあるので、もう少し手が込んでいるらしい。キャンバス上で絵具をモノとして扱う手つきは心地よい。画廊主は、自然光の中で作品を見せたいということでこの空間だが、確かに、こんなプライベート空間が持てたらいいなと思わされた。



ESP|Erin Stump Projectsp|m GalleryCooper Coleとさらに3つの画廊を見て、最後に訪れたのはAngell Gallery。実は、ESP|Erin Stump Projects、p|m Galleryと並んでここも移転したばかりだという。倉庫の一角のような空間には油絵の具象画が並ぶ。ニューヨークを拠点とするBradley Woodの作品である。大小の作品全てが室内の人物(群)を描いたものだが、人を描いても肖像画という感じではなく、壁紙やカーペットの模様や室内調度と、人物が等価である。絵具のこってりした感じからも後期印象派を思い起こさせ、懐かしい感じもするが、見たことがない感じもする。

ツアーの後、そのままここAngell GalleryでワインとチーズのWrap Partyが始まった。ワインを飲みながら、心の緊張を解いて作品を見ると、違うものが見えてくるようだ。自宅に美術品を持って、いろんなふうに付き合うことは、美術館等で眺めるのとは全く違った経験なのだろう。そういう経験もしてみたいと思うようになった。

Gallery Hop
(9/26/2015, Canadian Art Foundation

マーク・ルイス<Invention>(Wavelengthsさらにつづき)

2015年09月22日 05時53分11秒 | カナダの芸術

時間的にはあとさきになるが、マーク・ルイスの<Invention>を見た。マーク・ルイスはカナダの現代美術作家。もともと写真からそのキャリアを始め、1980年代には、ジェフ・ウォールを代表的作家とする「バンクーバー・スクール」の一員でもあった。その後フィルム制作の道に進み、2009年ヴェニス・ビエンナーレ美術展のカナダ代表として出品したのは<Cold Morning>という映像インスタレーション。<Invention>は彼にとって初めての長編映画であるが、<Cold Morning>からの連続性もある。

この作品は、ワルター・ルットマン『伯林―大都会交響楽』などの、1920年代に作られた「シティ・シンフォニーもの」とよばれる無声映画へのオマージュということで、トロントとサンパウロの都市の風景(特に建築物)と、パリのルーブル美術館内を、彼の特徴である長回しで撮影している。最初と最後にピアノ協奏曲のような音楽が入る以外は無声で、特にストーリーもなく、登場人物はたまたま居合わせた一般市民かと思うような人物が、ときどき、台詞もなく、画面の一隅を占める。

トロントでは、トロント・ドミニオン・センター(ミース・ファン・デル・ローエ設計)、市庁舎とネイサン・フィリップ広場(フィンランドの建築家ヴィルヨ・レヴェル設計)、トロント大学ロバーツライブラリーが撮影対象となっていた。ルーブル美術館では<サモトラケのニケ>や<眠るヘルマフロディトス>などを、近づいたり遠ざかったり、また、様々な角度から、舐めるように、あるいは撫でまわすように撮影している。その感触は、建築物を撮る時も同じ。「舐めるような、あるいは撫でまわすような」感触を実現しているのは、長回しにおけるカメラの絶え間のない、滑らかな動きだろう。構図は絶えず動いているため、手持ちカメラで身軽に撮っていると考えそうになるが、例えば地面から高架の道路上へとふわりと移りかわったりする不思議な場面に出会うと、大がかりな機材と設営によって実現したものなのだろうと思う。実際、エンドクレジットに表示されたプロジェクトチームのメンバーの数は、劇映画と比べても引けを取らない。

しかし、80分間、音楽もなく、台詞もなく、沈黙のうちにひたすら建築物と絵画・彫刻を映しだす映像は、その風景の幾何学的な面白さもわからないではないけれど、ずっと集中して見続けるのは難しい。ラストでは、走る車のフロントガラスごしに、前方の道と景色を映しだす。カメラがそのまま車になったように、車のスピード感で滑らかに景色が移り変わる。それはそれまでの、建築物をとらえる一筆書きのような映像の延長線上にあるので、特に何かが変わったとも思わずに見ていたのだが、最後の最後、実はその車が、事件現場に向かうパトカー(あるいは救急車)であったことが明らかになる。この映画では最後まで何の事件も起きないだろうと、油断していた観客への仕返しのようなシーンだが、ちょっとあざといとも思う。この上映では、途中退席する観客も少なからずいたが、こういう仕掛けがあるために、美術館などでの(途中入退出自由の)映像インスタレーションとしてではなく、映画館で長編映画として見せたいのかもしれないなと思った。

Invention (Directed by Mark Lewis)
(9/13/2015, Scotiabank Theatre)


ステファン・アンドリュースの絵画

2015年07月19日 01時59分26秒 | カナダの芸術
アート・ギャラリー・オブ・オンタリオの現代美術棟の1フロアで、トロント在住の現代美術家、ステファン・アンドリュースの個展が開催されている。 主な媒体は油彩画。それに、ドローイング、写真、陶芸、エフェメラ(筆記物、印刷物)が加わる。展示会場の風景はこちらで。

油彩画は、大きく分けて3つのシリーズが出品されている。ひとつめはドット(点)のシリーズ。CMYKの4色を用い、最初にイエロー、次にマゼンダ、シアン、キー(ブラック)の順に、それぞれ画面のほぼ全体にドットを捺し重ねている。このシリーズのひとつ<10 IX 01>は、近しい友人がガンと診断された2001年9月10日に描き始められた作品で、捺されたドットは10万個。
ふたつめのシリーズは、写真を基にトロント市内の特定の場所を描いたシリーズ。舞台となっているのは、ユニオン駅やエア・カナダ・センター(アイスホッケー場)、ビジネス街の高層ビルなど。キャンバス表面に置かれた絵具が、水に弾かれたように斑になっていて、写真を基にした写実的な絵ではあるのだが、点描派の絵にも似て、遠ざかった方が対象物をよくとらえられる。<X-men at Union>は、ユニオン駅構内を歩く工事作業員の後ろ姿を描いたもの。改修工事が続くユニオン駅での、オレンジ色の安全ジャケットを身に付けた作業員の姿は確かに見慣れた光景であり、自分の街をこんなふうに描く美術家がいるということは、この街にとって幸いなことだと思う。
最後は、「バタフライ効果」という名前のシリーズで、CMYKの色面をさまざまに重ねた抽象画である。バタフライ効果とはあの、蝶の羽ばたきのような小さな動きが、遠くで何か大きな変化をもたらすという現象についての比喩的な表現だが、カイロに行ったパートナーが現地で拘束された時、作家が、パートナーの出発が1日早ければ、あるいは遅ければと考えたことから生まれたシリーズだという。白のキャンバスにCMYKの4色と、その重なりから生み出される色のみで構成される、シンプルな抽象画だが、バリエーションがあるのが楽しい。
ドローイングは、イラク戦争中、政府が報道させなかった戦場のありのままの姿を、兵士のブログやオルタナティブ・メディアから探し出し、それを基に描いたもの。<The Quick and the Dead>は、一人のアメリカ兵が、下半身むき出しの死体が燃えているのを見つけ、消火器で消火する動画を基に描いたもので、700枚のドローイングによって作られたアニメーション映像と、そのドローイングの中から139枚が展示されている。

明るく広々とした展示室に、大きめの作品がゆったりと展示された贅沢な空間。作品は、ひどく目新しいとか個性的とかいう感じでもないけれど、手間暇をかけてしっかりと作られていて、現代の絵画作品として面白く見ることができる。ただ、どこか腑に落ちない感じも残る。気になるのは、いくつかの作品から感じる死の影と、なぜ作家は、作家自身からは遠いであろう世界で起こっている暴力を作品の主題にするのかということ。

1990年代、エイズ禍の真っただ中にいた作家は、最も悲惨な年だった1993年には15人もの友人を失い、しかもパートナーであった映像作家のAlex Wilsonとスタジオメイトの2人を同じ1週間のうちに亡くすという経験をした。彼自身も1985年にHIV positiveと診断されたが、1996年から服用し始めた薬により、死と隣り合わせの人生ががらりと変わった。
この個展に出品されているのは2000年以降の作品であり、直接にAIDSを主題としたものはない。私の中には、1990年代に、AIDSと共に生き、そして亡くなっていった美術家は、自身のアイディティティと身近な世界を主題にした作品を遺したという印象がある。それが政治的な主題でありえた時代から20年の時が経ち、世界はすこしだけ変わり、病気は致命的ではなくなった。今や、HIV positiveの美術家というアイデンティティは、20年前のようには意味をもたないのだろう。911やイラク戦争を経て、作家は、政治的関心をより広い世界で起こっていることに向け、それらに美術を通じて向き合い、咀嚼しようとしているのだと理解した。

Stephen Andrews POV
(7/11/2015, Art Gallery of Ontario

ロベール・ルパージュのオペラ

2015年05月18日 04時14分17秒 | カナダの芸術
オペラはこれまでの人生で一度か二度しか見たことがなく、知識もないのだが、ロベール・ルパージュ演出と聞いて見に行った。演目はバルトークの「青ひげ公の城」とシェーンベルクの「期待」で、1993年にルパージュが初演した舞台の再演だ。前者は約1時間、後者は約40分、休憩を入れて全2時間というコンパクト(?)な演目で、歌手も前者は2人、後者は1人しか登場しない。しかも「期待」のほうは、失恋により精神に異常をきたした女性の一人語りを精神科医が観察しているという内容で、オペラと言えばモーツァルトやヴェルディ、という知識レベルの私としては、こういうオペラがあるということがまず発見だった。フロイトの精神分析を劇化したものということで、オペラも20世紀に入るとこうなるのかと興味が湧いた。

舞台のプロセニアム・アーチは、クリムトの黄金の時代を想起させる、金色のモザイクが縁取っている。舞台上は常時薄暗く、はっきり認識するのが難しいが、舞台上の構造物は、舞台右手前から舞台中央奥にかけて建てられた大きな壁面と、舞台の縁に沿ってしつらえられた幅1.5メートルほどの水面のみ。あらゆる場面は、プロジェクション・マッピングのような、構造物にぴったりと合った映像によって展開し、大きな壁面が城壁になったり、青ひげ公自慢の広大な領土の光景になったりする。ルパージュ作品は、2013年に「Needles and Opium」を見たのに続きまだ2つ目だが、ジャン・コクトーとマイルス・デイビスの孤独な生活を描いた「Needles and Opium」でも、舞台上に吊り下げられた巨大な立方体の内部にぴったりと映像を照射することで、そこが安宿の部屋になったり、ライブハウスになったり、ニューヨークの路地裏になったりしていたのと、同じ手法だ。

「青ひげ公」における圧巻は、第7の扉を開けたことで、青ひげ公の過去の3人の妻が登場するシーンだ。舞台左袖の水面に人影が映って、その部分は人が泳げるほども深かったということが突如わかり、3人の妻が、一人ずつ、ゆっくりと水の中から現れる。ドレスが赤く染まっているように見えるのは照明によるものだろうが、舞台は一気に死者の世界に支配される。
同じ水路は、「期待」においては、女性を裏切った男性が、全裸で、舞台上を奥から手前へとごろごろと転がってきて、最後にそれを飲み込むものとなる。全ては病んだ女性の幻覚として何でもありだが、オペラとしてはこれもなかなか衝撃的なシーンだ。

歌手や演奏の良し悪しなど音楽的なことはよくわからないが、いろいろな意味で心に残る観劇経験となった。そういうわけで、この夏トロントで開催されるパンナム・ゲームの文化行事のひとつとして予定されている、ルパージュの新作公演のチケットを早速購入してしまった。

Bluebeard's Castle/Erwartung
(5/12/2015, Four Seasons Centre for the Performing Arts

カナダの美術雑誌

2015年03月26日 09時40分08秒 | カナダの芸術
Gladstone Hotel1階の小さなアートスペースで、美術雑誌の小さな展覧会が始まった。カナダ全土から、今は廃刊になったものも含めて20誌余りの美術雑誌を集めた展覧会で、その名も「SHELF LIFE」。各誌3冊ほどが置いてあり、自由に手にとり、座ってゆっくり読むことができる、ギャラリーと図書室のあいだのような空間だ。出品されていた雑誌について、今分かる範囲の情報をつけて記録しておこう。

Bad Day
Border Crossing (Winnipeg)
Canadian Art
Carbon Paper (Toronto)
Carousel
Ciel Variable (Montreal)
C Magazine (Toronto)
Double Dot
The Editorial Magazine (Montreal)
Esse (Montreal)
File (Toronto, 1972-1989)
Fillip (Vancouver)
Function (Toronto)
Fuse
Hunter and Cook (Toronto, 2008-2011)
Inuit Art
Kapsula (Web magazine)
Little Brother
Lola (Toronto, 1997-2003)
Magenta (Web magazine)
Millions
Momus (Web magazine)
Shift (Toronto, 1992-2003)
Prefix Photo (Toronto)
Public (Toronto)
Pyramid Power (Vancouver)

タイトル数は日本と比べてどうだろうか。人口を考慮に入れるとカナダのほうが多い気がする。発行地が一極集中ではないことも特徴的だ。トロント発行のものが最も多いが、モントリオールで発行されているフランス語雑誌も結構あり、バンクーバーやウィニペグも拠点として存在感がある。モントリオールはトロントと同等あるいはそれ以上に芸術活動が盛んな街だが、モントリオールの雑誌を見て、情報が入手できていなかったことを実感する。また、写真中心のものや評論誌、大学生が制作しているものなど、内容も多彩だ。
この中で気になったのは、『Lola』という、トロントのアートシーンのための雑誌。残念ながら、1997年から16号まで発行して2003年に廃刊となっている。美術雑誌になぜかありがちな高尚な雰囲気がなく、真面目ではあるのだろうがサブカル的というかひと癖ある感じを漂わせている。調べてみると最盛期には12000部を発行し25000人に上る読者がいたフリーマガジンで(回し読みされていたということです)、いろいろ名物コーナーがあったようだが、特に人気があったのは「Shotguns」という、誰でも自由に率直な展評を投稿できるコーナーだという。日本で1950年代に発行されていた雑誌『美術批評』にもそんなコーナーがあったのではなかったか。
『Lola』のごく一部の記事がウェブサイトで見られるようになっている。例えばこんな記事。

ビッグ・ピクチャー:トロントの美術はどんな感じ?
小便をめぐる短い美術史

会場には3冊の『Lola』が展示されていた。正方形に近い版型でそれぞれ100ページほど。こんな立派な雑誌が無料で配布されていたとは。ぜひ現物を入手したいが今となっては難しそう。

美術雑誌つながりでもうひとつ、ウィニペグ・アート・ギャラリーのすぐ近くにあるPlug in Institute of Contemporary Artというアートスペースで「Yesterday was once tomorrow (or, A Brick is a Tool)」展を見た。ここでは1990年代に創刊され廃刊となった5つの雑誌を紹介していた。

Texts (Calgary, 1989-1993)
Flower (Toronto, 1992-1996)
Boo (Vancouver, 1994-1998)
The Harold (Winnipeg, 1995-1997)
Cube (Montreal, 1996-1998)

これらはアーティストやアートスペースによって制作・発行された、いわゆるアーティストブックで、「SHELF LIFE」展出品の雑誌よりも手作り感が強い。1960-70年代の美術の脱物質化、つまりコンセプチュアル・アートの興隆のなかで印刷(物)が利用されるようになった時期とは異なり、1990年代のこれらの雑誌は、アーティスト同士の対話や共同活動の場として、あるいは、地元で美術的な「事件」を作り出していくことを目的としたものだという。

それにしても、アーティストブックの源流がコンセプチュアル・アートにあることは間違いなく、北米ではコンセプチュアル・アートの浸透が思っていたより広くて深いことを最近感じているが、実はこのあたりのことは、カナダに来てからの私の美術における最大の関心事となっている。

SHELF LIFE
(3/22/2015, Gladstone Hotel Ryerson Artspace

Yesterday was once tomorrow (or, A Brick is a Tool)
(3/7/2015, Plug in Institute of Contemporary Art

ヌナヴト準州15周年と卒寿の祝い

2015年03月22日 12時40分55秒 | カナダの芸術
カナダは10の州と3つの準州から成る連邦国家である。ヌナヴト準州は1999年に準州化された、他と比べて格段に若い(準)州で、極北地域に位置し、その人口の84%がイヌイットである。

広さ2,093,190㎡
人口35,591人
25のコミュニティ
1㎞当たりの人口密度は0.01人
ハイウェイの総距離20㎞
人口増加率年2.5%
人口の60%が24歳以下
7月の平均気温は3度
1月の平均気温は-31度

道路がない
木もない
大地は永久凍土
1月には日光がない
7月には闇がない

展覧会場を進んでいくと、ヌナヴト準州の地図と共に、以上の情報が表示されている。日本の国土の5.5倍もの面積を持つ、困難と希望の入り混じったこの準州のことを、どうやって想像できるだろうか。

初めてマニトバ州ウィニペグに行く機会を得て、ウィニペグ・アート・ギャラリーを訪れた。開催されていたのは「Arctic Adaptations: Nunavut at 15」という、2014年ベネチア・ビエンナーレ建築展のカナダ館展示の帰国展である。企画者はLateral Officeというトロントを拠点とする建築・環境設計事務所。展示は3部構成で、第一部はヌナヴト準州に存在する建築物について、石で造った模型と写真の展示。これまでほとんど知られていなかった、ヌナヴトの重要な建築物を紹介するもの。第二部は25の全てのコミュニティについて、地形図と、各コミュニティのアマチュアカメラマンが撮影した風景写真、それに各コミュニティ建設の歴史の情報が付いている。それによって分かるのは、全てのコミュニティが海に面しているということ、そして、多くのコミュニティは20世紀の初め頃、ハドソンズ・ベイ・カンパニーという1670年設立の毛皮貿易会社によって建設されたということだ。第三部は、住宅、健康、芸術、教育、余暇という5つの観点から、この地域の15年後のあり方を提案するプロジェクトで、コンペで選ばれた大学の建築学科の学生と、極北地域で仕事をしている建築会社と、ヌナヴトの団体との共同で制作された模型の展示である。正直なところ、これらの提案によってこの地で生きることが楽になるのかどうか、私にはよくわからないが、展示の全体としては、決して悲観的ではなく、ヌナヴトについて多くの情報を含んで示唆的だ。

「Arctic Adaptations: Nunavut at 15」展の手前の展示室には、Elisapee Ishulutaqという女性画家による絵画と版画の展示。ヌナヴト出身のかわいいおばあちゃん画家は何と90歳。ウィニペグ・アート・ギャラリーからの委託で、絵巻物のような細長い絵画をオイルスティックで描きあげた。1970年までイヌイットの伝統的なキャンプ生活をしていたIshulutaqは、アザラシの皮で覆ったテントや昔ながらの遊びの風景を、飛行機や教会などの近代的な要素と共に描いている。建物も人もやさしいかたちで、制作風景の記録映像を見て、背景は白いままでもよかったのではと思うのは、かたちの魅力からだろう。
ところで、ヌナヴト準州の公用語はイヌイット語、英語、フランス語の3言語で、展覧会のリーフレットも3言語で記載されている。イヌイット語の文字は一見かわいらしいが、よく見ると数学の記号にも似て近代的な感じもする。いつか歴史を調べてみたい。

Arctic Adaptations: Nunavut at 15
Elisapee Ishulutaq
(3/7/2015, Winnipeg Art Gallery

Challenge for Change 社会変革のためのフィルム

2015年03月16日 06時40分49秒 | カナダの芸術
Challenge for Changeは、貧困問題や女性問題、先住民族の劣悪な生活環境といった問題について、ドキュメンタリー映画の製作を通じてカナダ人の中に社会変革の必要性の意識を高めることを目的とした公共プログラムで、1967年から1980年まで実施された。このプログラムには21の政府部局と行政機関が関わったが、主導者はナショナル・フィルム・ボード・オブ・カナダ(NFB)で、期間中、約250のフィルムとビデオが製作された。一般市民が小型ビデオカメラを手にして、政府官僚、映画監督、地域の活動家らと協同でドキュメンタリー映画を製作するという、映画製作の参加型モデルを作り上げたことが画期的であり、そのような参加型、社会変革志向型ドキュメンタリー映画の開拓者として、このプログラムはその後の内外のドキュメンタリー映画製作に影響を与えた。NFBにはその成果物のアーカイブがあり、今ではその一部がウェブサイトで見られるようになっている。
3月13日からMercer Unionで始まった展覧会では、いっぽうの展示室で、Jacqueline Hoang Nguyenという作家がNFBのアーカイブを調査し選定した映画を、スクリーンと4つのテレビモニターで見せている。もういっぽうの展示室には、Krista Belle Stewartという作家による、自分の母親が「出演」している1967年のドキュメンタリードラマと、2013年にバンクーバーで開かれた真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)での証言の抜粋を用いた、2画面の映像インスタレーション。3月14日にはA discussion after Challenge for Changeと題したシンポジウムが開催され、2人の作家も出席していた。
この展覧会とシンポジウムを通じて、いろいろ考えることがある。日本では似たような政策の例はあるのだろうか。むしろ社会変革などという意識は持たないようにされている気がするし、例えば福祉政策といえば手当と施設の充実といった話しか聞かないように思う。また、Challenge for Changeプログラム立案の中心人物であったJohn KemenyはNFB所属の映画プロデューサーで、1956年のハンガリー動乱の後モントリオールに移住したハンガリー系カナダ人であった。市民参加型のドキュメンタリー映画製作を通じて社会を変えていこうというユニークなアイディアの源泉とそれが実現する過程にどんな背景があったのか、もっと知りたくなる。
ところで、Mercer Unionはアーティスト・ラン・スペース(Artist-Run Space)とよばれる非営利団体である。こちらでは商業ギャラリーとは明確に区別されているようで、トロント市内にも幾つかあるが、Mercer Unionはその中でも1979年設立で老舗の一つといえる。作品展示のみならず、今回のシンポジウムのように、ディスカッションの場を提供するイベントの実施にも積極的だ。気温が0度を超えることが多くなり、トロントでもようやく春を感じる今日この頃、これからも時々足を運んでみよう。

Challenge for Change / Société Nouvelle
Seraphine, Seraphine
(3/14/2015, Mercer Union