ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「早春の雪」 榛葉莟子

2017-05-05 10:51:22 | 榛葉莟子
2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。

「早春の雪」 榛葉莟子

 あっ、梅が咲いた。の声に硝子越し庭に眼をやる。ああほんと、一つ咲いてる。いや、二つ咲いてるよ。どこどこと、まだすっぽりと冬の色相に覆われた堅い庭の梅の木に眼を凝らす。眼を凝らさなければ見つけられないくらいの小さな白い花が細い枝に離れて二つ、けなげに春が来ることを知らせている。いくつ咲いたとか、けなげだとか思うのも、ぐるり家を囲む桜の大木の傍らの日陰に生え出たように細いその木が梅の木であることに、ながい年月まるで気ずかなかった見る側の素朴な心情にすぎないけれど。

 何年くらい前になるだろうか。春が来る待ち遠うしさの退屈の眼がぱっと開いた梅の木発見のある日の午後があった。何もかもが枯れた風景のなか硝子越しの向こうに一瞬煌めいたような白いものに眼が止まった。何だろうあれ、ほら枝に白いもの。まさかまさかと不思議な光を見とどけたい思いで庭に走った。さして気にも止めなかった細々しい木の枝に煌めいたものが、一輪の梅の花だと知った瞬間の驚き。毎年こうして白い花が咲いていたのに気ずかなかった自分への不満も生まれた。けれどもこの木いっぱい白い花が咲いていて気ずかぬはずはない。なるほどと合点がいったのは七日たち十日たち、梅の木をどれほど眺めていても花は数えるもなくなんとも地味にわずかな開花で終わった。そうして初夏の頃、いくつか小さな青い実がぶら下がっていた。梅の木は小梅の木だと分かった。さあ、それからは妙なすまなさも混じり合い梅の木は気にかかる存在となった。のび放題の細い枝の散髪をしたり、根もとに栄養になるかもしれないとなにやかにや気を使う程度の手入れだけれども、いくらか姿はたくましく成っている。毎年細い枝々に並ぶ蕾は増えた。そうしてまだ寒風のなかぽっと光のような一輪が開花する。あれから何回小雪は散らついただろう。小雪から雨になり雲間からちらちらと陽が見えはじめると、枝に留まる水滴はルビーやエメラルドに煌めき、蒸発する間もなく地面に吸い取られる。そうして足の裏に堅く触れていた地面がふっくらと膨らんで来る頃、其処比処と地面の表面が裂けはじめる。裂けてめくれた地面の表皮。その奥に深々と拡がる暗黒の地中を覗く時いつも感じる畏怖。古い英語では黒はひかり輝くとの訳があったと聞く。その訳は闇のなかの光と思い切って口に出してみたい私のなかの畏怖と通じる。

 捜し物があってごそごそやっていると、二十数年前の引っ越しの際、荷物を詰め込んだままのダンボール箱がいくつか湿っぽい暗がりにあった。アルバムとか小物とかマジックペンの黒い字が読める。そこに棒を束ねたように紐で結んである古びたイーゼルがあった。こんなところに…と引き寄せて紐を解く。高校生の頃、兄にねだって手に入れた油絵道具一式の内のイーゼル。ほこりを払い三本の足をひろげてみたが、すっかり金具がさびて調節の鋲も回らない。キャンバスを置く溝の縁に白っぽいくすんだ青色の絵の具がへばりついている。ああそうだったの思いと共に、薄曇りの淡い空が見渡せるすすきっ原でイーゼルに向かって絵を描いている二つの後ろ姿がまぶたの奥に写し出された。絵が好きという共通が近ずけた友人と出かけた早春の武蔵野。彼女は美大に進み私はデザインスタジオの見習いの職を得た頃だった。けれども友人の関係はあまりにもはやい突然の彼女の死と共に消失した。ああ、そうではないな。たったいま古びたイーゼルに残っている青色が友人との再会へと招き寄せてくれたのだから。それにしても再開した彼女の横顔は若いままだ。追憶。それは突如として顔を出す。通夜の夜暗闇の道で友人の死を激しく泣いたのは自分であり、とてつもなくながい時を経たいま、友人の死に激しく泣くこともなく、早春の武蔵野で絵を描く二つの後ろ姿を一枚の絵を見るように、微笑んで見ているのも自分なのだとの思いが浮上した途端、なにかがざわついた。心に描いた明るい一枚の絵は、いまも自分の心に生きる友人との合作ではないのかと想像した。なにか心が定まったような思いがしたせいかイーゼルを修繕して部屋に持ち込んだ。ここに立つイーゼルはすでに友への追憶から遠ざかったただの古びたイーゼルであり、試みているものを離れて見るための仕掛けでしかない。

 朝、カーテンを開けると雪が降っていた。白い庭だった。周りの木々に薄く積もる雪の白と水を吸った黒の枝々は清々しく、延びていく音さえ聞こえるようだ。そして梅の木はどの木よりも早く満開の時を迎えたかと見紛うような美しい雪の花を咲かせていた。


最新の画像もっと見る