福田恆存「大衆は信じうるか」より。
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極端な言ひ方をすれば、「言論の自由」を否定し懐疑する「言論の自由」はありうるか。なるほど、それはある。法律的には何等の「禁縛」も置かれてはゐない。が、それを主張するのにためらひを感じるとすれば、そしてそのためらひの原因が、自分の中よりも外側の世間にあり、それが自分を圧迫して言ひたいことを言ふのをためらはせるのだとすれば、さういふ世間には「言論の自由」があるとは言へない。法律的には自由であつても、人々の精神には何かの「禁縛」が置かれてゐる。さういふ心理的な「禁縛」のことを「禁忌」と呼ぶ。(新潮社版『福田恆存評論集』第七巻、p.180)
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こういうこともいろんな人が言ってると思いますが、つい先日読み返した山本夏彦『毒言独語』にも同じようなことが書いてあるのを読んだばかりだったので、面白く思ってついでにこの福田恆存の文章も書き写してしまいました。山本さんのほうのもキモのところだけ書き写しておきましょうかね。「大ぜいが怒る怒りを、うそいつわりだと論ずることは危険である。ほとんど禁じられている。俗に世論といって、世論は一世をおおうもので、これにさからうのはタブーである。」(中公文庫旧版、p.164)福田さんのも山本さんのも何十年も前に書かれた文章ですが、世のなかの事情はいまも全然変りませんわね。おそろしいほど、そのまんま。
福田恆存の本はちくま文庫で『私の幸福論』が出て以来、ぼちぼち文庫でも復活してきた。いいことです。でも、文庫本も買ってるけど、わたしは学生時代に東千田の図書館で出会ってその後就職してから古本で買った新潮社版の『福田恆存評論集』七巻で読むことが多いです。ところどころ校正漏れもあるけど、読みやすい本です。昭和40年代にしては装丁もスッキリしてしゃれている。福田さんが亡くなるころに文藝春秋から出た全集は、(もともと買う気もなかったけど)本棚から出すとそのまま取り落としそうになるくらい重くて、あんなの、手に取るのもイヤだ。
山本夏彦は学生時代に先生からすすめられた憶えがあるんですけどなぜかそのころは手に取ることなく、つい二三年ほど前に恩師のことばを思い出してようやく読みはじめました。言い回しはクセがあるけど、愛敬のあるおじいさん。
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極端な言ひ方をすれば、「言論の自由」を否定し懐疑する「言論の自由」はありうるか。なるほど、それはある。法律的には何等の「禁縛」も置かれてはゐない。が、それを主張するのにためらひを感じるとすれば、そしてそのためらひの原因が、自分の中よりも外側の世間にあり、それが自分を圧迫して言ひたいことを言ふのをためらはせるのだとすれば、さういふ世間には「言論の自由」があるとは言へない。法律的には自由であつても、人々の精神には何かの「禁縛」が置かれてゐる。さういふ心理的な「禁縛」のことを「禁忌」と呼ぶ。(新潮社版『福田恆存評論集』第七巻、p.180)
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こういうこともいろんな人が言ってると思いますが、つい先日読み返した山本夏彦『毒言独語』にも同じようなことが書いてあるのを読んだばかりだったので、面白く思ってついでにこの福田恆存の文章も書き写してしまいました。山本さんのほうのもキモのところだけ書き写しておきましょうかね。「大ぜいが怒る怒りを、うそいつわりだと論ずることは危険である。ほとんど禁じられている。俗に世論といって、世論は一世をおおうもので、これにさからうのはタブーである。」(中公文庫旧版、p.164)福田さんのも山本さんのも何十年も前に書かれた文章ですが、世のなかの事情はいまも全然変りませんわね。おそろしいほど、そのまんま。
福田恆存の本はちくま文庫で『私の幸福論』が出て以来、ぼちぼち文庫でも復活してきた。いいことです。でも、文庫本も買ってるけど、わたしは学生時代に東千田の図書館で出会ってその後就職してから古本で買った新潮社版の『福田恆存評論集』七巻で読むことが多いです。ところどころ校正漏れもあるけど、読みやすい本です。昭和40年代にしては装丁もスッキリしてしゃれている。福田さんが亡くなるころに文藝春秋から出た全集は、(もともと買う気もなかったけど)本棚から出すとそのまま取り落としそうになるくらい重くて、あんなの、手に取るのもイヤだ。
山本夏彦は学生時代に先生からすすめられた憶えがあるんですけどなぜかそのころは手に取ることなく、つい二三年ほど前に恩師のことばを思い出してようやく読みはじめました。言い回しはクセがあるけど、愛敬のあるおじいさん。
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