歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

パロット『パーセル_テ・デウムとユビラーテ』

2010年07月31日 | CD パーセル
Purcell
Te Deum & Jubilate
King, Platt, Van Evera, Wheatley, Davidson, Agnew, Berridge, Covey-Crump, Daniels, Parry, Grant
Teverner Consort, Choir & Players
Andrew Parrott
5 45061 2

1994年録音。70分05秒。Virgin。パーセルのアンセムはさまざまなスタイルの録音が出ていてそれぞれが聴くべきものを持っている。その中でもこのパロットのはかなり有力だと思います。《Te Deum & Jubilate in D》《In guilty night》《Jehova, quam multi sunt hostes mei》《When on my sick bed I languish》《Beati omnes qui timent Dominum》《My beloved spake》、以上のアンセムと、パバン第1~4番を併せて収録。パロットはパーセルとも相性がいいですねえ。とても活きのいいパーセルを聴かせます。最初の《Te Deum & Jubilate》と最後の《My beloved spake》はソリストたちによる独唱重唱と合唱の組み合せ。のこり3曲のアンセムはパート各1人のOVPPによる演奏。OVPPで聴くパーセルもなかなかいいなあ。

ソリストのキングは、テナーのアンドルー・キングではなくてメゾのキャサリン・キングのほう。この人はゴシック・ボイスでも歌っている人ですが、バロックも歌うのね。バリトンのベン・パリーは90年にパロットの『ディドー』でエネアスを歌っていた人。タバナー・プレイヤーズのコンサートマスターはマンゼ。

収録曲の中では、1694年の聖セシリアの祝日のために書かれたさわやかな『テ・デウムとユビラーテ』がやはり秀逸。ここではベテランのカビィクランプが存在感のある歌唱。次の『罪深き夜に』は最近パーセルの代表曲のひとつとして認知されつつある曲。シャルパンティエのオラトリオの一場面のような、派手ではないが奥行きのある宗教画の雰囲気。歌手はバンイブラ、ダニエルズ、グラント。いづれも意欲的な歌唱と演奏を聴かせてくれる。

ただし、あえて言えば全体にソプラノがやや地味に聞こえる。キャサリン・キングもバンイブラもメゾだしね。スカッと空に突き抜けるような声ぢゃないんだよねえ。カークビーが出ていないのが残念です。

デスクトップパターン

2010年07月30日 | MacとPC
OSXのデスクトップピクチャは工夫が足りないと思います。ゐんどうずでは「壁紙」といってるアレの話です。

OS9までのMacは、ピクチャならぬ「デスクトップパターン」のバリエーションが豊富でした。Macでものちにはデスクトップに一枚の写真なり絵なりを貼りつけられるようになったけれど、はじめのころは文字通り「パターン」をペーストしてデスクトップに敷き詰めることしかできなかった。でも、Mac OS標準で相当数のパターンを選べました。あれいくつくらいあっただろ。60とか70とか、それくらい選べましたよね。具体的にどういうのがあったかはもうほとんど憶えてないんだよなー。たとえば石ころのパターン、たしかありました。くわえてフリーウェアでもデスクトップパターン用の素材がたくさん公開されていて、わたしもいろいろ使わせてもらっていました。

ところがOSXになったとたんにそれまでのパターンが全部なくなって、たしかにかっこよくはあるけれどサイバーな感じの「デスクトップピクチャ」がデフォルトになった。その後、OSが更新されるにつれて少しづつピクチャの選択肢は増えていますが、それでもOS9までのパターンの充実ぶりには及びません。そもそもOSXでは「デスクトップパターン」は使えなくて「ピクチャ」のみだそうで、だからOSXではデスクトップの背景に一枚の大きな絵なり写真なり、あるいは無地の色なりを貼りつけることしかできないってことらしいですわ。でも絵とか写真とかだと、デスクトップに置いてるアイコンが見づらいことがしばしばあるんですよねー。Macを使っていると、とりあえずデスクトップにファイルを一時保存しとく、って多いと思うんだけど。

ケネス・ブラナの『から騒ぎ』

2010年07月27日 | 演ずる人びと
YouTubeでケネス・ブラナの映画『空騒ぎ』をみかけて、「これはいける」と思ったので楽天ブックスでDVDを注文、先週末に届いたので見ているところ。やっぱDVDはいいですな。新潮文庫の福田訳もあわせて注文し、読み直しつつ。

ケネス・ブラナのベネディック、エマ・トンプソンのベアトリス、デンゼル・ワシントンのドン-ペドロー、キアヌ・リーブスのドン-ジョン、マイケル・キートンのドグベリー、他。原作戯曲の舞台はシチリアの港町メッシーナですが、映画では北イタリアにロケしたそうで。港町ではなく、明るいイタリアの陽の降りそそぐ丘の上の屋敷での話、になっているけど、まあこれはこれできれいな映像に仕上がってるので、ゆるす。

原作と突き合わせながら見ていくと、ブラナの演出の冴えが見てとれて面白い。話の運びはもちろん原作尊重で、せりふに関してはところどころ省略してある程度ですが、原作にはないシーンを巧みに挿入して、それがいちいち決まっている。

たとえば冒頭。メッシーナの領主レオナートーら一族郎党が葡萄畑?でくつろいでいるところに、戦いに勝利して帰還するドン-ペドローら一行が、馬に乗って、丘を越えてやってくる。迎える女たちと、やってきた男たちが、出会う前にべつべつに大騒ぎで水浴び。子どもみたいに。そして身じたく。このあたりのお祭り的などんちゃん騒ぎがいいです。わくわくしてくる。

中山元『高校生のための評論文キーワード100』

2010年07月24日 | 本とか雑誌とか
中山元『高校生のための評論文キーワード100』(ちくま新書)をまた読んでいます。この本はほんとにいいですね。いつどこを読み返しても、わたしみたいな物知らずの粗忽者にはことばの勉強になります。

そして今回読み返していて気がついたのは、一つのキーワードについて見開きで完結するということからくる読みやすさ。この本ね、新書だけど上下二段組で、小さな字で組んであるのよ。ポイントでいうとなんぼだろう。8とか7ぐらい? でも、字が小さいことからのストレスはほとんど感じない。開いた左側のページのお終いまで読めば話が完結すると分かってるからね。先が見えているから、途中の文章を読んでても気分が楽なのよ。ほら、新書を読んでて、この話はどこまでつづくんだろうって、先のページをちらっとめくって節の切れ目を確認してから読み進めるってこと、ありませんか?

この新書、厚みはほかの新書とそう変わらない。ねだんも740円+税で、今どきの新書としてそんなにお高いわけぢゃありません。でも、小さい字の二段組だから、情報量はほかの新書の丸二倍、くらいはあると思います。しかも高校生に分かるように、って考え方の本ではあるし、中山元さんにとってもそうとう手間のかかる仕事だったのではないでしょうか。入門書って、どの分野であれ、読むほうはすらすら読むかもしれないけど、書くほうはなにをどう書くか頭を悩ませるもんだと思う。

どのキーワードについても二段組で見開き二ページ、と枠をはめられていると、ある面書きやすくもあるだろうけれど、でも多くの場合、このことばについてはもっと書きたい、と思うのではないでしょうか。清水幾太郎『論文の書き方』にも、長さを決めて書くことの大切さについて触れた個所がありましたが、長さを決めて書くってけっこうむつかしいです。まあ多くの人は書くことがなくて困るんですが、せっかく書いた長い文章を短くちょんぎらざるを得ない時もある。つらいもんですよ。

来日シンガーズ

2010年07月22日 | 音楽について
あらー。今月前半、King's Singersが来日して歌って行ったんですね。ぜんぜん知らなかった。

King's Singersの最新メンバーによる〈Now is the Month of Maying〉をYouTubeで見ました。ナッシュビルでのライブだそうで。背の高いほうのカウンターテナーが、前の人もけっして年とった感じではなかったけど、Timothy Wayne-Wrightという若いイケメンに交替していた。この曲は6人で歌ってたけど、ウェインライト君だけ、まだ歌詞を覚えてないので楽譜のページをひんぱんにめくりめくりしながら歌っていた。そうなのよ。イギリスのマドリガルは有節形式の曲が多いので、とくに歌詞が憶えにくいの。

同じライブでの〈Say, Love, if ever thou didst find〉の動画もあり、それはウェインライト君と、もう一人バリトンの若手を除いた古株の4人での歌唱。このダウランドの曲は80年代にリリースされたイギリス・マドリガルのアルバムでも歌われていましたから、キングズ・シンガーズのいわば持ちネタなのでしょう。そのCDの録音よりもさらにテンポが遅くなっている。これ以上遅くなると無理だと思う。ぎりぎり。この曲はリュート伴奏の独唱曲としても演奏されますが、やっぱ重唱むきですよねえ。

「時を得れば、世に並びなき英主ともなられた王子。」

2010年07月21日 | 気になることば
四季の『ハムレット』DVDの幕切れ。フォーティンブラスの最後のせりふ。演じた増沢望はハムレットの死を悼んで、「時をえれば、世に並びなき英主ともなられた王子。」と言っていましたが、わたしはこの読み方に引っかかった。「時をうれば」ぢゃないのか? 文庫本では「時を得れば」とあり、訳者は「うれば」と読ませるつもりだったに違いないですよ。「えれば」ぢゃくだけすぎだし、直後の「世に並びなき…」という格の高い調子と合わないよ。たしかに今では、「得る」は下一段動詞として活用させる人のほうが多いだろうけど、福田恆存訳のシェイクスピアにおいては、そして次のデンマーク王となるべき貴人フォーティンブラスのせりふとしては、この動詞はとうぜん下二段に活用させるべきものと思われます。え、え、うる、うる、うれ、えよ。だから「うれ+ば」で「うれば」。「うれば」だと「売れば」かと思われるからとかいう理由で、あえて「えれば」と読ませたのかな浅利さんが。でも訳者はあんな読み方されるとは思っていなかったろう。

四季『ハムレット』の台本

2010年07月20日 | 演ずる人びと
四季の『ハムレット』は福田訳そのままではなくてところどころせりふを刈り込んで多少短くしてある。これはどこの劇団がだれの訳を使うときでもそうするんですね。何しろ原作は長いから。でも一つのシーンが丸ごと削除されている、というのはないみたいです。長ぜりふをちょいちょいと刈り込んで大意が変わらないように短くしてある程度で、おおむね、原作を尊重した台本になっている。

福田訳にある「気ちがい」という言葉がさけられて、たとえば「気ちがいになる」は「気がくるう」と言い変えられているけれど、これはどちらにしたって差別的表現であることには変わりない。いやわたしはどちらも使うなというんぢゃなくて、どちらの言葉を使うにしても、演出家も俳優も観客もざらざらした違和感をしっかり心にきざみながらこの差別的表現に相対してほしいと思う。

最後のほうにしか出てこない伊達男のオズリック、これはむかし昴が『ハムレット』をかけたときには藤木孝さんがやったそうですが、これを青羽剛という人がやっていた。二枚目です。何年か前まで青年座にいたそうです。この青羽さんて人もかつて高畑淳子さんに唇を奪われたんでしょうか。

四季は舞台だけで食べていける。これはすごいことなのだそうで、すでにキャリアのあるいろんな俳優さんたちが入団試験を受けて四季に入ってきてるそうですね。

トーマス・ベタートン

2010年07月19日 | メモいろいろ
17世紀のイギリスの俳優トーマス・ベタートン(Thomas Betterton)というひとはハムレットを20代から演じはじめて70歳のときまで演じたそうです。『福田恆存飜訳全集』シェイクスピア編に附載の「上演史」に書いてあった。トーマス・ベタートンてどっかで見た名前だなあと思ったら、このベタートンはパーセル『ダイオクリージャン』の作詞者でもあったんだよね。

指揮者のマッケラスが死去した。マッケラスはヘンデルもしばしば録音したけれどパーセルにも意欲的で、『インドの女王』や『ディドーとエネアス』を60年代に録音していた。

劇団四季、DVDの『ハムレット』

2010年07月10日 | 演ずる人びと
DVDで出ている劇団四季の『ハムレット』を買っちゃったんですよ。新潮文庫の『ハムレット』を読んでいて、この福田さんの訳が舞台で語られているところを見てみたくなったもんでね。福田恆存訳のシェイクスピアは、福田さんが創立した劇団昴がシェイクスピア劇をやる際に台本として使われているのは言うまでもありませんが、そのほかに、劇団四季や、歌舞伎の役者がシェイクスピアを上演するときにも今なお使われているんです。歌舞伎や文楽のDVDは買って観たことがあるけど、ストレートプレイの演劇を、今はじめてDVDで観てるところです。

田邊真也という人のハムレットは健闘していた。行動する王子、って雰囲気が出ていた。中野今日子という人のガートルードもよかったと思う。衣裳は、金がかかっていて、ルネサンス時代の宮廷劇って感じがした。しかし演出はあれでいいのかなあ。テンポがノロいと思うんだけど。もっとテンポよく運ばないと福田訳は生きないんぢゃないか。とにかく主要キャストが軒並みべたべたに時間かけてせりふを言うのね。で、時間はかかるんだけど、そのわりにかんじんのそのせりふがこなれていない。シェイクスピアのせりふに、というか福田恆存の日本語に、というか、とにかく言葉に振り回されてただ台本を憶えて喋ってるだけ、って印象を与える人もいる。

劇団昴の人が何人か参加してる。レイアーティーズの坂本岳大さん(玉置浩二に似ている)て人もそう。と思ったら、この坂本さん、いまはもう昴は辞めたんだそうな。ほかにも、ある役の俳優さんの名前を見て、ああこの人もたしか昴……と思って劇団昴のサイトを見たら、そのかたもやはりもう昴を退団なさっているのだった。その後、その俳優さんのブログに行き当たって、ながめていますと、おもに経済的な理由で退団した、と書いてありました。チケットノルマも当然あるだろうし、ほかにも上納金みたいなのがあるのかなあ。とくに昴は福田さんが建てた三百人劇場というのが何年か前に取り壊しになって、その後は公演のたびに劇場を借りなきゃいけなくなったから、団員の負担も重くなってるのかもしれないですね。

フレットワーク『イン・ノミネ』

2010年07月09日 | CD ルネサンス-イギリス
In Nomine
Fretwork
CD-SAR29

1987年録音。59分37秒。SAYDISC/AMON RA。《トマス・タリスのすべてのコンソート・ミュージック(5曲)を含む、16世紀イギリスのバイオル合奏のための音楽》。フレットワークのデビュー盤らしいです。二三年後の『ラクリメ』ほどの完成度ではないなあ、残念ながら。手堅いけれど、まだ聴き手をたっぷり満足させるところまでは至っていない。メンバーはRichard Campbell(Treble)、Julia Hodgson(Tenor & Bass)、Elizabeth Liddle(Treble & Tenor)、Richard Boothby(Tenor & Bass)、William Hunt(Treble, Tenor & Great Bass)で、Christopher Wilson(Lute)が参加。

作曲者はクリストファ・タイ、ウィリアム・コーニッシュ、ジョン・ボールドウィン、ジョン・ブル、ウィリアム・バード、トマス・プレストン、ロバート・パーソンズ、アルフォンソ・フェラボスコ(父)、ジョン・タバナー。いづれもどこかで名前を聞いたことのある人たちばかりで、サブタイトルにあるように16世紀イギリスのバイオル音楽の見本帳になっている。

おそらく弾き手たちは一曲一曲心を込めて仕上げているんだろうと思いますが、これはもう経験不足の悲しさで、聴いてるほうには曲ごとの個性が伝わってこないんだよなあ。みんな同じような曲に聴こえちゃう。バイオル合奏の古雅な響きをBGMふうにざっくりと楽しむアルバム、と申せましょう。

フロント・カバーはメンバーの集合写真で、いちばん左端のイギリス的美少年がたぶんリチャード・キャンベル、その隣がウィリアム・ハント。それから女性二人がいて、リチャード・ブースビー、右端がリュートのウィルソン。ひげ面のブースビーはここではなかなかイケメン風ですね。これが『ラクリメ』のメンバー写真になると、キャンベルはそのまま二枚目に成長するものの、ブースビーはなぜかあやしいオッサンに劣化しちゃうのですよ。