おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

口之津の港に歴史あり、涙あり

2012年08月14日 00時00分00秒 | 景観

写真1 眼下の口之津港は天然の良港。1562年、南蛮船に開港し、今年2012年は450周年。写真の前方は天草。


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 2012年8月1日、JICA(独立行政法人国際協力機構)の集団研修「農業普及企画管理者」コース研修員14名のうちパプアニューギニア、ソロモン、ケニヤの研修員3名といっしょに、長崎県南島原市の「農林漁業体験民宿第十七号 白玄」さんに投宿。
 2日早朝、黒胡麻踏みを終えて朝食までの間、経営者S氏が近隣を案内してくださる。その一つが島原半島先端にある口之津港の遠景(写真1)。同港には次のような歴史、栄枯盛衰がある。
1.口之津港は16世紀中後期の南蛮貿易港
 同港は、1562年に南蛮貿易港となり、1582年まで計7隻が入港し賑わう。その後、島原の乱、鎖国のなかで歴史の表舞台から消える。
2.口之津港は、19世紀後半から20世紀初頭、三井三池鉱産石炭の輸出中継港
 同港は、1876年、三井三池鉱産石炭の上海などへの輸出港として活気を取り戻し、再び歴史の表舞台に登場。石炭は、水深の浅い三池港から小型の団平船で口之津港の貯炭場へ陸揚げされ、同港に停泊する大型船へ積み替えられた。最盛期は1897~1906年。1906年の同港輸出額は長崎港を大きく凌駕した。
 積替え作業員は口之津村だけでなく近郷近在や天草から集められ、1899~1901年には与論島など鹿児島県の離島から1,000人余が集まった。
 しかし、1909年に大型船が入る三池築港が完成し、口之津港からの石炭輸出は激減。その後、1922年に三池内港が完成すると口之津港からの石炭輸出は皆無となった。
3.「からゆきさん」は石炭輸出船に乗せられて
 さて「からゆきさん」は、女衒と組む石炭輸出船員の手で船底に匿われて口之津港から中国や東南アジアなどへ売られて行った。悲愴な落涙が黒粉塵を固めた。故郷に帰ることなく、若くして異国で命を落とす女性が多かった。同港は悲しい、涙の歴史も秘めている。
4.「船員のまち、口之津」
 三池港完成に伴い仕事を失った口之津港の人たちを、三井物産は優先的に石炭輸出船に雇用した。これが「船員のまち、口之津」の嚆矢。
 その後、1954年4月に国立口之津海員学校(2001年4月、国立口之津海上技術学校に改称。)が開校し、経済高度成長期の船員需要増加に応えて「口之津のまち」から船員が輩出した。
 ちなみに、JICA研修員といっしょに訪れたアスパラ栽培者S氏の父親は船乗りを定年で辞めてから農業を始めた。うべなるかな。

 引用・参考文献等:*南島原市広報紙 2012年2月号・8月号 *当ブログ2012年08月07日08日09日10日11日
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2012年08月02日05:57 撮影地:長崎県南島原市口之津町
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