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鉄鏃出土数をみれば邪馬台国論争は終わる。

 邪馬台国は2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる倭人の国。元々男王が治めていたが、国の成立から70~80年後、長く、騒乱が起き、卑弥呼を女王に共立することで混乱が収まり、邪馬台国連合が成立したという。

 対立する南の狗奴国との戦いがあったのち、248年頃に卑弥呼が死去、男王が後継に立ったが混乱は収まらず宗女の台与が女王になったという。そして、台与は266年に晋の武帝に朝貢している。

 邪馬台国の位置については、江戸期から九州説と畿内説に大きく分かれて論争が続いてきた。魏志倭人伝における記述について、道程は連続説や放射説、方角の間違い説、距離については誇張説や短里説などで現在も賑わっている。(wikipedia)

 が、弥生期の鉄鏃出土数を示したこのグラフをみれば邪馬台国論争は終わる。

 

 このグラフは弥生期の鉄鏃出土数が県別に示された有名なデータである。弥生期の鉄器出土において最も数が多いのは鉄鏃である。そして、魏志倭人伝に「倭人(邪馬台国)は鉄鏃を使う」と記されている。

 弥生期の鉄鏃出土数は福岡県と熊本県が突出している。それは、邪馬台国域とその南にあったとされる狗奴国の存在を見事に投影している。そして、奈良県はほぼゼロ。弥生期の大和には鉄の文化は普及していなかったのである。この事象は所謂、物証みたいなもの。

 而して、メディアなどで高名な学者が複雑な理論をもって、纏向説などを述べても空虚というしかない。また、卑弥呼が朝貢品として魏に贈っていたと倭人伝に記される「絹」も鉄鏃と全く同じである。弥生後期の北部九州から出土する絹は大和からは全く発見されない。そして、多くの畿内説論者は鉄鏃や絹の話には触れようとしない。

 
 
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