goo

鉢の木物語。曲渕河内守伝

 

 筑前、曲渕村に謡曲「鉢の木」の不思議な伝説を残した異能の戦国武将、曲渕河内守。百姓鍛冶屋の倅から名将と呼ばれるまでに成り上がった男は、やがて、自身の出自を飾るために奔走する。夢を追い続けた男の悲しい物語。


 一


 百姓あがりの男たちばかりである。軍装は山賊と変わらない異態の男たちであった。

 曲渕衆と呼ばれる男たちは死に物狂いの戦さ働きを見せ、破天荒な奮迅振りで原田家の将士たちを瞠目させた。甚五兵衛が常に男たちの先頭に在った。大きな体躯はその存在を際立たせ、男たちを鼓舞した。
 梅助は智謀の冴えを見せ奇計を諮っては敵を手玉に取った。獰猛な喜久蔵は山刀を掴(つか)んでは敵陣深く躍りこみ、人間技とは思えぬ働きを見せた。
 長太はといえば男たちを巧みに仕切り、甚五兵衛らの働きを支えた。曲渕衆の男たちは村にいた頃からの見知りのものばかり、温厚で面倒見の良い長太は男たちの信頼を一身に集めていた。
 人は自身に無いものを相手に求める。そういう意味ではこの四人は見事に吊り合っていた。


 筑前、早良の平野を南北に貫く早良川を遡ると内野村の上手から両岸に山が迫り、狭い谷内となる。谷に入るとまず石釜村がある。その先で川は大きく湾曲し、深い渕をつくる。そこが曲渕と呼ばれる。その渕の先に曲渕村がある。山間の谷内には人々がひっそりと暮らしていた。
 村の上手で川は二つの流れに分かれる。北からの流れの先に飯場村があり、南からの流れの奥に飯場村の枝村、野河内の里がある。いずれの村も狭い田畑しか持たない。
 この狭い盆地が曲渕河内と呼ばれる。そして曲渕河内の奥には肥前との国境である井原山が聳えている。

 野河内から上は水流が岩を喰む深い渓谷が続く。半里ほども続いた渓谷は突然に開けて、山中に小盆地をつくる。その地を水無という。昔は田畑と数軒の農家があったらしいが、今は小さな猟師小屋があるだけ。その猟師小屋も最近はあまり使われた気配は無い。

「甚五よぉーい。」
 山中に甚五を呼ぶ声が響いた。梅助と喜久蔵が谷を駆け上がってくる。後ろから長太が遅れてやってくる。長太は芋やとうきびが入ったしょいこを背負っている。
「甚五、大変じゃ。山の上で戦さが起きとる。」
 甚五の顔を見るなり、梅助が言った。
「二、三日前に原田様の軍勢が瑞梅寺から山に入ったそうじゃ。山の上には神代の軍勢がおるらしい。」
「そうか、戦さか。」
「それに今朝は小田部様の兵が村に入って来たぞ。物騒なことになりよる。大戦さになるかも知れぬ。」
「そうか。大戦さか。」
 甚五が考えていた。
「うむ。その戦さで手柄を立て、武家になるのも悪くは無いな。」
 甚五が言った。
「ふふふ。無理じゃ。いくら手柄を立てても、わしら百姓は武家にはなれぬ。」
「そんなものか。」
「もっとも、ご先祖様が滅んだ少弐の家に仕えておった。とでも言えば判らんがな。」
「そりゃいい。今は、訳あって鍛冶屋ばしとるとでも言え。ふふふ。」
 喜久蔵が相いの手を入れる。
「ははは。おまえら、家来にしてやらんぞ。」

 永禄の頃。曲渕村に住む鍬作りの鍛冶屋の倅(せがれ)、甚五は殊に悪童であった。体が大きく、身の丈が六尺も有った。腕っぷしが強く、近隣の餓鬼どもを集めては悪戯を重ねる。十四、五歳の頃には石釜村や飯場村にまでその悪童ぶりが鳴り響いていた。
 甚五は喧嘩の強い乱暴者というだけではなかった。胆が太いところもあるかと思えば涙脆く、子どものように泣いたりもする。激しい気性の中に優しい心情をも併せ持っている。故に甚五の許には甚五を慕う悪童たちが集まった。
 梅助は曲渕村きっての俊才であった。村にある長福寺の和尚に気に入られ、学問も習っている。喜久蔵は石釜村の地主の倅。放蕩者にて今は勘当同然である。この二人は甚五と同い年。
 長太は三人より二つ、三つ年長である。面倒見の良い男であるが、人が良すぎて貧乏くじを引く。他にも仲間はいたがこの四人は幼い頃から何をするにも一緒であった。

 「悪たれが手下を集めては悪さをしとる。」
 甚五の許に悪童たちが集まるのを見て村の大人たちは噂した。やがて、名主たちは甚五を村から追放した。
「おおごとにならんうちに、どうにかせんといかん。」
 それが名主たちの理屈であった。甚五の父、甚兵衛は甚五を遠くの親戚に預けようとしたが、甚五が承知しない。

 村を追放された甚五は水無の猟師小屋に住み着いた。仲間たちが一緒に居てくれた。食糧にも困らなかった。山には木の実や野いちごが実り、渓流には山女魚が沸いていた。そして、仲間たちは里の畑から芋や野菜を掠(かす)めては運びこんだ。
 この山は甚五たちにとっては裏庭みたいなものであった。甚五たちは山賊もどきに山中で獣を追い、山暮しを楽しんでいた。が、そのうち仲間たちもひとり、ふたりと村へ戻り、ここ数日はこの山中に甚五ひとりであった。
(冬も近い。この山の雪は深い。そろそろ、考えんといかん。)
 甚五はこの曲渕の里と山が大好きであった。
(この里を離れとうはない。)
 とも思っていた。

 三人が村に戻った後、戦さの話が気になった甚五は山道を少し上ってみた。もう、夕暮れが迫っていた。
 水無の上は谷が狭くなり、流れは再び渓流となる。その渓流を上りつめた先に小さな鍾乳洞があった。夏場には冷気が水蒸気となって吹き出す不思議な洞窟であった。甚五たちは暑い日にはよくここに涼みに来る。
 その鍾乳洞の前にさしかかった時であった。上からひとりの男が谷を下ってきた。足許がふらついている。甚五は草叢に身を隠した。男は甚五が潜む草叢の前まで来ると、渓流の石に足を取られ大きく転倒した。大した鎧具足を着け、ひとかどの武者の身なりをしている。

 上方から人の声が聞こえた。男たちの一団が谷を下ってくる。十数人の男たちが樹間に見え隠れしていた。男たちの背に「立ちの龍」の征旗が見えた。
(梅助が言っておった神代勢の紋じゃ。)
 それを見た武者が岩陰に身を隠した。甚五はその瞬間にすべてを悟り、男の前に躍りでた。突然現れた甚五に男は弾かれたように顔をあげ、驚愕の表情を見せた。
「あんた、原田の者じゃな。助けてやろう。」
 甚五はその男の肩を掴むや、洞口に引き摺り入れた。男たちの一団はすぐ傍まで近づいている。

 鍾乳洞は谷筋から二、三間ほど奥まったところに小さな洞口を開けている。二人は洞窟の奥の暗闇で息をひそめた。男たちの声が間近に聞こえる。
「この先はもう野河内ぞ。小田部領じゃ。こっちではあるまい。」
「うむ。こっちに逃げたと思ったがな。」
「小田部の兵と出くわしても難じゃ。戻るか。」
 神代の兵たちが上に戻るのが気配で判った。

 永禄十年の九月。怡土、高祖山城の原田隆種は雷山の筒城に在った西重国を攻めた。重国は同盟していた佐嘉の竜造寺隆信に救援を求めた。重国は滅ぼされてしまったのであるが、竜造寺隆信はこれを機会とばかり、怡土に触手を伸ばした。
 十月になって竜造寺傘下、山内の神代勢が国境の井原山上に軍勢を集結させ、原田家の本拠、高祖に攻め入る気配を見せたのである。一方、隣国の早良、荒平城の小田部鎮元も敵対する原田勢の窮地に接し、国境付近で不穏な動きを見せていた。


 その夜は冷えこんでいた。甚五が水無の猟師小屋に連れて来たその男は歯を鳴らして震えていた。追われた興奮も残っているのであろう。
(火を熾してやりたいが、この暗い中、薪を集めにいくのも億劫じゃ。)
 甚五は思っていた。小屋の中にここの主の趣味であろう、山樹を盆栽仕立てにした鉢が三つ、四つ並んでいた。甚五はその鉢から山樹を乱暴に引き抜くや、それを薪にして火を熾して派手に燃やした。そして長太に貰った芋をその火で焼いた。

 その武者はまだ若い男であった。甚五より三つ、四つほど年上であろうか。暖をとり、焼けた芋を口にして人心地が着いたのか、やっと口を開いた。
「ここは何処じゃ。」
「ここは水無という里じゃ。野河内から半里ほど山を上った所じゃ。人はわし一人しかおらぬ。」
 甚五が応えた。
「ここから怡土へは行けぬか。」
「山を下って飯場から峠を越えれば怡土に抜けるが、飯場には小田部の兵が入って来ておるらしい。出会うと不味(まず)いじゃろ。」
「うむ。他に道は無いか。」
「ここから怡土の川原に抜ける獣道がある。わしが案内してやってもよい。」
「うむ。頼む。」
 甚五が男の顔をじっと睨んだ。
「なんじゃ。」
「条件がある。」
 男が怪訝な顔をした。
「あんたは名のある大将だろう。わしをあんたの家来にしてくれ。」
 甚五が言った。二人の間に沈黙が流れた。
「いいだろう。家来にしてやろう。おまえには恩がある。」
 男が笑った。

 原田親種。その若い武者は原田家の嫡子であった。甚五が助けたこの原田家の嫡子には元来、無鉄砲なところがあった。
 数日前、当主の原田隆種は山上の神代勢を牽制するために、井原の将、松崎安光に命じて山麓の瑞梅寺に陣を張らせた。そして、嫡子の親種に手勢を与え、安光の加勢を命じた。
 今朝になって血気にはやる親種は安光の制止を無視して、少数の兵で山上へ物見に向かった。山内の神代勢は山岳戦を得意とする。親種主従は山頂直下の谷筋で神代勢の待ち伏せに遭った。親種は血刀を振るって単身その場を脱した。そして、道も判らぬまま山中を逃がれ、水無で甚五と遭遇したのであった。

 怡土、高祖の原田家は中国の雄、毛利家と結んでいる。南は井原山、雷山などの嶺々を国境として竜造寺方の神代領と接し、北には眼と鼻の先に豊後、大友家の志摩代官、臼杵新介の柑子岳城。東には日向峠を境に、同じく大友配下の早良、荒平城の小田部鎮元の所領と接し、三方を敵に囲まれた状態であった。
 とくに柑子岳城の臼杵勢とは周船寺の水道を隔てるだけであり、たびたび小競合いを繰り返していた。
 原田隆種は獅子身中の虫であった雷山、筒城の西重国をやっと攻め滅ぼし、自身の国内を纏め上げたばかり。神代勢の来襲は殊に原田家の窮地であった。


 甚五が親種と出会い、高祖へ入って十日ほどが経っていた。甚五は親種の屋敷内に小屋を与えられ、雑用をこなしていた。あれから親種に会う機会は無かった。

「自分は曲渕の郷士の嫡男であり、父祖は滅んだ少弐家に仕えていた。今は姓を捨て、野に下っておるが、声をかければ手先の数十人も集まる。」
 と、甚五は周りに吹聴していた。甚五は梅助の言葉をよく覚えていた。

 原田家の本拠、怡土、高祖の里は高祖山の麓にある。将士の屋敷が山裾の斜面に犇めき、山上に詰めの城砦が築かれている。高祖山の西には怡土の平野が広がり、村々が散在する。平野の脊背には背振山稜が屏風の様に障壁をつくり、この国を護っている。風雲が迫っているとは思えぬ静かな日々がこの里には流れていた。

 日を置かず、甚五の出番はやって来た。その朝、甚五は親種の許に呼ばれた。その場には井原の松崎安光が同席していた。

「井原山へ抜ける間道を造る。」
 甚五が座るなり、親種が言った。
「この前、おまえが案内してくれた道程じゃ。おまえにその間道造りを頼みたい。」
「はい。」
 甚五が眼を耀かせた。
「神代勢はまだ山上に在ってこの高祖を覗っておる。今、井原村の鹿我子に砦を築いておる。これは山から下ろうとする神代勢に対する備えじゃ。それで、砦から水無を抜けて山上に兵を動かせるようにしたいと思っておる。」
 親種が言った。
「急を要する。四、五日でやれるか。」
 安光が言った。
「はい。」
「わしの郎党が加勢する。」
「お願いがございます。」
 甚五が言った。
「この仕事、曲渕のわしの仲間も加えさせて下され。」
「おまえの手先どもか、よかろう。」
 甚五は曲渕村へ駆けた。

 間道造りの指揮は松崎安光が執った。安光は井原周辺の数か村を預かる旗頭であった。鹿我子の砦も安光が築いていた。
 甚五は安光の許で近郷から集められた農夫たちを使い、木を切り、谷を埋めて、軍勢が移動できるほどの道を親種との約束通り五日で造りあげた。梅助、喜久蔵、長太との四人で道のりを分けて造った。

 間道ができた翌日には、すでに原田家の軍勢が鹿我子の砦に集結していた。そして、親種が率いる主力が瑞梅寺から井原山へと入った。
 翌日の早暁、朝靄の中を松崎安光率いる軍勢が川原からその間道に取りつき、水無を経て井原山上へと隠密裡に向かった。甚五たちは安光の手勢数人を加え、先駆けとして安光勢を先導した。
 山上に着くまでに神代勢の物見と何度か出くわした。甚五たちは物見の神代兵をすべて生け捕りにした。勝手知ったる山中であった。獣のように草叢から襲いかかる甚五たちに不意を衝かれた神代兵は、悲鳴をあげる間もなく押さえつけられた。安光は間道脇に縛られて転がされた神代兵を見つける度に笑っていた。
 安光勢は昼前に井原山の尾根に取りついた。神代勢は山上から尾根を西へ下った「うなぎれが辻」で瑞梅寺から攻め上った親種勢と対峙していた。

 間を置かず、安光勢は山上から神代勢に猛然と襲いかかった。狭い稜線である。うなぎれが辻は大混乱に陥った。あらぬ方向からの突然の攻撃に神代勢は慌てた。山上に叫喚が飛び交かった。
 親種の軍勢も一気に攻め上り、混乱する神代勢を襲う。半刻も持たずに神代勢は総崩れとなり、自領の神水川に潰走した。山岳戦を得意とし、山内での戦さでは無敵を誇った神代勢も、この戦さでは完敗を喫した。
 甚五たちもこの日の戦さで目覚しい働きぶりをみせていた。

 うなぎれが辻の戦さ以来、甚五は親種の馬廻りに取り立てられていた。「この度の戦さのいちばんの手柄である。」といった松崎安光の推賛の言が功を奏していた。
 そして、安光が烏帽子親となり、甚五は曲渕姓を名乗った。小さいながらも高祖の城下に屋敷を与えられ、梅助、喜久蔵、長太の三人も甚五の配下として高祖に残った。

 甚五が曲渕河内三村を扼し、曲渕河内守を名乗るのはまだ八年ほど先のことである。


 二


「甚五、上がるぞぉ。」
 屋敷の玄関先で菊蔵の声が響いた。元旦以来、甚五兵衛主従は昼間から酒を呑む。
「わしを甚五と呼ぶな。」
 甚五兵衛が盃を傾けながら菊蔵に怒鳴った。機嫌は悪くない。
「すまぬ。」
 菊蔵が笑う。
「おるか。甚五ぉ。」
 間をあけず、庭から長兵衛が入ってくる。
「見ろ。おまえが甚五と呼ぶから長兵衛まで呼ぶ。」
「おまえもわしを菊之丞と呼ばんではないか。」
 菊蔵が言い返す。
「菊之丞などとふざけた名前をつけおって。」
「大概にせんか。おまえらは昔と変わらんなぁ。菊蔵、おまえは菊蔵じゃ。菊之丞はやめぃ。」
 梅介が割って入る。
「それから甚五のことはお屋形と呼べ。他の者に示しがつかぬ。」
「そうじゃ。」
 甚五兵衛が頷く。
「ふん。お屋形さまか。」
 菊蔵が嘯(うそぶ)く。

 高祖の城下に屋敷を構える曲渕甚五兵衛は原田家の当主となった原田親種の物頭である。すでに数十の郎党を持つ身であった。甚五兵衛が親種に仕えて七年になる。
 野心に満ちた歳月であった。甚五兵衛主従は親種勢の尖兵として、多くの戦さで獅子奮迅の働きを見せた。曲渕衆と呼ばれる甚五兵衛主従は百姓あがりの者ばかり。その破天荒な奮迅振りは原田家の将士たちを瞠目させた。
 一昨年の大友方の志摩、柑子岳城の臼杵勢との山崎合戦や、池田川原合戦でも功を挙げ、昨年、甚五兵衛は物頭の任を得た。親種の信も厚く、今や親種勢の先手を預かる。

 甚五兵衛が物頭となり、それまで甚五兵衛の郎党の扱いであった梅助、長太、喜久蔵の三人も、乙名(おとな)としてそれぞれ曲渕梅介、曲渕長兵衛、石釜菊蔵を名乗り、身分を得ていた。
 甚五兵衛は三人に、
「わしの一族である。」
 として、同じ曲渕姓を名乗らせようとしたが、
「わしは曲渕じゃなか。石釜村の出じゃ。」
 と、菊蔵は石釜姓を名乗っていた。

 筑前、怡土は肥沃な平野が東西に広がる。平野の東端に高祖山が聳えている。その麓に原田家の本拠、高祖の城下があった。甚五兵衛主従は天正二年の静かな正月をこの高祖の屋敷で迎えていた。

「殿のところに年賀の挨拶に行ってきたが、まだ具合が悪そうであった。」
 盃を傾けながら甚五兵衛が梅介に言った。
「うむ。若が死んでから殿は弱くなられた。無鉄砲と呼ばれていた頃が嘘のようじゃ。」
「殿は若を可愛がっておったからのう。」
「あの時はわしらが迂闊であった。殿と若を守るのがわしらの務めであったものを。」
 甚五兵衛が盃を煽る。

 七年前、井原の山中で出会い、ただの悪童であった甚五兵衛を家臣として拾い上げ、ここまでの身分にして呉れたのはすべて親種である。それだけに甚五兵衛にとって悔やまれる出来事であった。

 さる永禄十一年。筑前、立花山城の立花鑑載が毛利元就の調略を受けて、主家の大友家に反旗を翻した。豊後の大友宗麟は戸次道雪らに命じて大軍を興し、立花山城を包囲した。
 毛利家に組している原田隆種は立花鑑載支援のため、嫡子の親種を立花山城に参陣させた。大友勢との間で激戦が繰り広げられたが、守城勢から裏切りが出て立花山城は陥落した。
 原田勢は城より逃れたが、数日後に兵を集め、再び毛利勢とともに立花山城奪回の挙に出た。が、大友勢に圧倒され、原田勢は高祖山城へと敗走した。これを大友勢は四千の兵で追撃し、早良の生ノ松原で再び、激戦となった。
 高祖山城から一門の原田親秀ら三千が救援に出て、大友勢をうち払ったのではあるが、乱戦の中で多くの将士が討死した。親種の嫡子、小次郎秀種も大友勢に討たれた。初陣の秀種はこの時、僅か十二歳であった。
 この戦さの後、原田隆種は筑前での大友方の攻勢に抗しきれず、遂に大友傘下となった。隆種は隠居して「了栄」を名乗り、親種が原田家の家督を継いだ。


 翌日、甚五兵衛は梅介を伴い、井原村の松崎安光の許を訪ねた。安光は井原勢の旗頭を務め、鹿我子砦を預かっている。安光は甚五兵衛の父ほどの歳ではあるが、甚五兵衛とよく馬が合い、新参の甚五兵衛をよく引き回して呉れた。
 昨年、甚五兵衛が物頭になった時、安光の娘、三記との間に婚儀の話が持ち上がっていた。三記は甚五兵衛よりひとつ年下で、寡婦であった。前夫は原田家の家臣であったが、先年の生ノ松原合戦で討死していた。前夫との間に八歳になる男子がいた。

 甚五兵衛が三記を見染めた。三記は豊潤な心根を持ち、いつも微笑を絶やさぬ情の細やかな女であった。色白で、愛嬌のある顔にも好感がもてた。
「機嫌のよい女子じゃ。」
 甚五兵衛は三記に惹かれ、三記も甚五兵衛の美丈夫振りに惹かれた。
 「甚五兵衛が嫁に。」
 と、父から言われたとき、三記は頬を娘のように紅く染めて、
「あい。」
 と、即座に答えたものだ。

 甚五兵衛は上機嫌であった。三人はすっかり盃が進み、甚五兵衛は酔いも手伝ってその言葉を吐いた。
「わしは何時になれば曲渕で旗上げできましょうや。」
 昔、安光と小田部家から曲渕河内を奪い取るといった謀りごとをしていた。本来、甚五兵衛に曲渕の領主になる夢を持たせたのは安光であった。安光自身が小田部領の曲渕河内に食指が動いていた。曲渕は安光の井原村に隣接している。

「殿が小田部を攻めることはあるまい。原田家はやっと大友と誼(よしみ)を通じたところじゃ。殿とて宗麟は恐い。曲渕が欲しければ、原田の家を辞した上で、おのれの力でやるしかあるまい。」
 安光が言った。

 僅かな間をおいて、安光が思いついたふうに呟いた。
「山内の神代の力を使えば、出来るやも知れぬ。」
 意外な言葉であった。
「しかし、神代とはうなぎれが辻で戦った敵同士。」
「うむ。大殿と神代家とは元来、懇意にしておった。その昔、神代の先代、勝利公が山内の谷川城で竜造寺に敗れ、この怡土に逃れてきたことがある。その折、大殿は勝利公と兄弟の契りを交わしたと聞く。」
 安光の眼が耀いていた。
「あのうなぎれが辻の戦さの折、神代勢は攻めようと思えばいつでも出来た。が、山上に軍勢を集めただけで、攻めようとはしなかった。今、考えれば、神代は竜造寺の命で出陣はしたが、竜造寺に言い訳さえ立てばよいと思ったのではなかろうか。」
「そう言われると、あの折の神代勢の退き方はやけにあっさりしておりました。」
「うむ。神代は原田家を敵とは思っておらぬやも知れぬ。」
「我ら、曲渕の者が旗上げするにあたって、ことが成った暁には神代家の傘下となりましょうとでも言えば、助勢してくれるやもしれませぬな。」
 梅介が眼を耀かせていた。
「うむ。それに殿とてやむを得ず大友の傘下となったが、大友には恨みはあっても恩義は無い。腹の中では一人息子を奪った大友憎しじゃ。助力はできんにしても反対はせぬ筈。」
 甚五兵衛は心の中に熱い思いが沸き上がってくるのを感じていた。
「しかし、わしは原田の家を辞して、殿の傍を離れるようなことはせぬ。」
 甚五兵衛が笑った。

 そして、その不幸な出来事は突然に起こった。
 その年の四月、豊後の大友宗麟が臼杵勢との池田川原合戦の責を問い、なんと、原田了栄の首を要求してきたのである。

 一昨年の正月、今津の毘沙門天詣でに向かった了栄が、周船寺の山崎で臼杵勢の待ち伏せに遭った。了栄は少数の兵で必死に防戦、高祖からも救援の兵が駆けつけて何とか難を逃れた。
 数日後、平等寺に詣でた大友家の志摩代官、臼杵鎮氏を今度は逆に原田勢が襲い、池田川原で両軍二千騎が激突する戦さとなった。そして、鎮氏は原田勢に追い詰められ、平等寺で自刃した。

 同じ大友傘下の臼杵鎮氏を屠ったのではあったが、
「先に手を出したのは臼杵勢である。それも今になってとは言いがかりじゃ。」
 と、親種は宗麟の不当な要求に怒った。そして、親種は逆上、櫓に駆け上るや家臣たちの前で腹を切り、
「わしが原田家の当主じゃ、我が首を大友に渡せい。」
 と叫ぶや、自らの首を撥ねて自害したのである。

 その夜、甚五兵衛は声を上げて泣いた。

 この出来事は原田家に大きな波紋を残した。突然、後継ぎを失った了栄は竜造寺家に人質として出していた親種の兄である草野鎮永の子、五郎を世継ぎとして迎え入れ、原田信種を名乗らせて当主とした。が、信種はまだ十四歳の若さであった。
 了栄は失意の中、六十の齢を過ぎて、再び、原田家の頭領に戻ることを強いられた。

 そして、甚五兵衛が
「我は親種様の生え抜きの臣である。」
として、親種無き原田家を辞し、牢人となったのはふた月ほど後のことであった。
(親種様を追いつめた大友に一矢報いてやる。)
 甚五兵衛の胸に強い思いが渦巻いていた。

 甚五兵衛が曲渕で大友方の小田部勢を屠り、曲渕河内守を名乗る二年前。甚五兵衛、二十五歳の年であった。


 三


 天正三年の三月。
 甚五兵衛と梅介は背振、三瀬の三瀬武家の屋敷に在った。背振の三瀬城は山内の将、神代長良の本城である。三瀬武家は先代の神代勝利の頃からの神代家の家老であり、この三瀬村を本貫とする。

「やはり無理じゃ。会うてはくれぬぞ。」
「諦めるのか。」
「うむ。」
「ここまで来た以上は腹を据えろ。」
「うむ。」
 二人がこの屋敷に来て、もう三日が経っている。三瀬武家にはまだ会えていない。甚五兵衛が諦めようとするのを梅介が留めていた。

 背振山塊の南には広大な山間の地が広がる。山内(さんない)と呼ばれる。山々が重畳と連なり、多くの山郷が散在する。山内の南が肥前の盟主、竜造寺隆信の本拠、佐嘉である。
 三瀬は山内の最奥に位置する。三瀬より峠を越えれば曲渕である。佐嘉から三瀬峠を越え、曲渕を経て早良に抜ける往還は、肥前と筑前を結ぶ最短の道であった。

 その日の夕刻、二人はようやく三瀬武家からの呼び出しを受けた。
「原田家におられた方とな。」
 その老将は二人の若者を吟味するように鋭い眼で射すくめていた。
「曲渕甚五兵衛と申す。昨年まで原田親種様に仕えておりました。」
「ふむ。親種殿はお気の毒であった。その原田様を辞されたお人がこの神代に何の御用かな。」
「我等は縁あって原田家に仕えておりましたが、元来、曲渕に在する者でござる。曲渕河内はその昔、背振山東門寺より我等の父祖が預かりし地。この度、小田部家より曲渕河内を取り戻すべく、旗上げいたす所存。つきましてはご当家のご助力を頂きたく、参上いたした次第。」
 甚五兵衛が慇懃(いんぎん)に言った。甚五兵衛の手には汗が滲んでいた。武家は眼を瞑り、無言で聞いていた。
「いずれ、ご当家は竜造寺様と三瀬峠を越え、筑前の大友領に兵をお進めになられる筈。その折には我等が先駆けとなりましょう。」
 梅介が言った。武家が眼を開き、暫く二人を見ていた。重たい空気が流れていた。

 武家が徐(おもむろ)に言った。
「わしらに小田部と戦さをせいと言うか。誰かこの者たちをつまみ出せい。」
 一瞬、その場が凍りついた。武家が座を立った。
「我等、亡き親種様のご無念を晴らしたく大友に一矢報いる所存。今、筑前の大友勢に立ち向かえるは竜造寺様しかござらぬ。」
 甚五兵衛が叫んだ。武家が甚五兵衛を凝視していた。

 去る元亀元年。豊後の大友宗麟は竜造寺隆信を屠るために、六万の大軍をもって佐嘉を襲った。が、隆信は大友勢の大将、大友親貞を夜襲にて討ち取り、大友の大軍を退けた。今山合戦である。
 やがて、隆信はその勢いをもって西肥前へと進出、松浦の諸家を攻め降し、肥前に覇を唱えた。隆信はいずれ早い時期に、筑前の大友領にまで進出するものと思われていた。

 数日後、三瀬武家は神崎の執行種兼の許に在った。執行種兼は竜造寺隆信の次男、江上家種の家老である。勇猛をもって知られた神崎、城原衆の頭領でもある。今は竜造寺勢に在って、山内や筑前方を纏める軍監ともいえる将である。

「如何、思われますか。」
「ふむ。確かにいずれ近いうち、佐嘉の大殿も小田部攻めを言われるであろう。」
 種兼が言った。
「はい。筑前へは三瀬峠を越え、曲渕を抜けるがいちばんの近道。如何な竜造寺家とて、義の無い戦さでは諸勢もついては来ませぬでしょう。この話、小田部攻めのよき火種となるやも知れませぬ。」
 武家が語った。種兼が暫く考えていた。
「ふむ、相判った。三瀬殿でその者たちの助勢をしてみられよ。が、暫くは竜造寺家の影を見せぬ様にな。」
「承知致しました。」
 武家が答えた。
「何か、先代の勝利公を思い起こさせる様な若者たちでございましてな。」
 武家が嬉しそうに眼を細めた。
「ほほう、三瀬殿。久しぶりに血が騒がれますかな。」
 執行種兼が笑った。

 甚五兵衛主従は原田家を辞して以来、曲渕河内での旗上げの準備を進めていた。甚五兵衛たちは水無に入り、粗末ながらも屋敷を造って本拠とした。
 井原の松崎安光が密かに援助して呉れた。甚五兵衛たちは「水無の間道」を使い、井原との間を行き来した。安光の娘、三記が甚五兵衛の身の回りの世話をして呉れた。
「わしはもう原田家を辞した身であるから。」
 と、甚五兵衛は断るのであるが、
「私はあなた様の許嫁でございます。」
 と、三記は健気に振舞った。
 曲渕では長福寺の和尚が何かと援けてくれた。この頃には曲渕に構える城砦の縄張りも終え、旗上げへの準備をほぼ終えていた。

 天正三年の四月。甚五兵衛は三百の三瀬兵と百足らずの自身の兵を率いて曲渕に入った。
 甚五兵衛主従は自らで作事を行い、半月ほどで城を築きあげた。それは村の裏山に東西十五間、南北二十間ほどの規模で、本丸と二の丸を配しただけの城であった。そして、村の入り口にあたる隘路の両岸の嶺に三つの支塁を築き、本城と城道で繋いだ。粗末で小さいが堅固な構えの城塞であった。

「あの悪たれどもが城を造りおった。」
 昔の甚五兵衛たちを知る曲渕村の年寄りたちは唖然として、目を白黒させるばかりであった。かって、甚五兵衛を追い出した名主も今は甚五兵衛の協力者であった。

 そして、城造りをしている頃に、僅かな手勢を連れた小田部家の役人が甚五兵衛たちを糾(ただ)しにきた。甚五兵衛は内野某というその役人を捕らえ、城が出来上がる頃に小田部鎮元宛の書面を持たせて放した。

 我等は父祖の代から曲渕河内に在する者にて候。この曲渕河内の地は、その昔、我等の父祖が背振山東門寺より預かりし地にて候。よってこの度、この地を貴家よりお返しいただく所存にて候。この旨、お聞き入れ下さること無き折は、やむ無く貴家に抗することと相成りましょう。
   小田部民部大輔殿         曲渕河内守(花押)

 と、その書面にはあった。梅介と長福寺の和尚が作ったものであった。

 驚いた小田部鎮元は曲渕を攻めるべく軍勢を集めた。そして、数日後には七百ほどの小田部の軍勢が早くも動き、小城のひとつ一気に踏み潰せとばかり曲渕に迫ろうとしていた。

 曲渕河内を流れる早良川は、石釜村の上手で滝川が南から流れこむ。そこを一ノ瀬という。その辺りから川の両岸に山が迫り、やがて、川は曲渕の深淵となる。
 曲渕を抜けるまで道は隘路となる。曲渕村に入るにはこの道を抜けるしか無い。甚五兵衛たちはその隘路で小田部勢を防ぐつもりであった。

 その日、谷が騒めいていた。川面を吹き抜ける風は強く、草叢が騒いていた。男たちは藪の中でじっと息を潜めていた。
 小田部勢が隘路に入って来る。百ほどの騎馬。後ろに槍の穂先を揃えた徒兵の群れが続いている。馬の嘶きと馬蹄の響き、甲冑の摺りあう音が騒めきとなって谷をおし包んでいた。(後略、全文は「鉢の木物語。曲渕河内守伝」Kindle版 電子書籍で)

 

 数度に亘り、曲渕に攻め入った小田部勢を奇計を諮って屠った甚五兵衛は曲渕の領主ともなる。やがて、原田家の大友離れによって、甚五兵衛は将として原田家に戻り、曲渕河内守を名乗る。
 翌年、竜造寺勢の小田部攻めにおいて小田部鎮元を討ち取った河内守は、旧小田部領、早良十一か村を領する大身の将となる。

 日々、家臣も増え、曲渕家は当に、勢い盛んであった。そんな河内守に災難が突然に降る。

 筑前、曲渕村に謡曲「鉢の木」の不思議な伝説を残した異能の戦国武将、曲渕河内守。百姓鍛冶屋の倅から名将と呼ばれるまでに成り上がった男は、やがて、自身の出自を飾るために奔走する。夢を追い続けた男の悲しい物語。

 

「鉢の木物語。曲渕河内守伝」Kindle版 電子書籍

 戦国末期の北部九州。筑前、曲渕村に謡曲「鉢の木」の不思議な伝説を残した異能の戦国武将、曲渕河内守。百姓鍛冶屋の倅から十数か村を領し、名将と呼ばれるまでに成り上がった男は、やがて、自身の出自を飾るために奔走する。夢を追い続けた男の悲しい物語。

 

「古代妄想。油獏の歴史異聞」Kindle版 電子書籍

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 暁光の城。筑... 叛臣。北原鎮久 »