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暁光の城。筑紫広門伝

 

 大友、龍造寺、島津の三大勢力が割拠した戦国末期の北部九州。肥前、基養父の牛原河内に山塞を構える武将、筑紫広門は生残るためにはどの勢力にも与する狡獪な人物と評される。
 島津の筑前侵攻においては共に島津の大軍を相手に戦いながら、筑前岩屋城で奮戦、玉砕した高橋紹運の名声の陰に隠れてその評価は低い。
 が、その果敢な生残り戦略と武将としての器(うつわ)には人間、筑紫広門の魅力が溢れている。筑紫一族の若き将士、白水の九郎の眼を通して、異才の武将、筑紫広門の生きざまを描く。


 高良山


 紹運の馬印が眼前で揺れていた。

 鉄砲の轟音が鳴り響き、干戈の音と怒号が飛びかっていた。が、九郎の耳には何も聞こえていない。
(紹運をこの手で討ち取る。)
 九郎の頭の中はそれだけであった。激しい戦さであった。九郎は筑紫勢の左翼で手下を叱咤して紹運の旗本勢を責め立てていた。すでに敵将、高橋紹運を高良山の登り口にまで追い詰めている。
「もう一押し。」
 それは、もう手の届くところにあった。

「深追い無用。九郎殿、退かれよ。お屋形の下知である。」
 眼の前で広門の使い衆が叫んでいた。気がつけば鶴翼の左翼だけが突出していた。陣形の中央にある広門の本隊はすでにはるか後方にあった。
(馬鹿な。)
 九郎が唇を噛んだ。手勢を退かざるを得なかった。


 天正十二年。
 筑肥は波乱の中にあった。盟主、竜造寺隆信は島津と結んで叛旗を翻した有馬晴信を討つために、二万余の大軍勢を率いて島原半島に出陣した。が、隆信は沖田畷において有馬、島津軍と激突。まさかの戦死を遂げた。
 隆信の戦死で竜造寺家の力は衰え、隆信の嫡子、竜造寺家政家は島津の傘下となった。島津は今や肥後にまで勢力を伸ばし、やがて筑後にも兵を進めるものと思われていた。

 一方、大友宗麟は竜造寺に蚕食されていた筑後の回復はこの時とばかり、豊後より七千の軍勢を筑後に送った。大友きっての戦さ上手、立花道雪、高橋紹運の両将も筑前より参戦した。
 大友勢は黒木、蒲池、田尻をはじめとする筑後の諸将を一気に降していった。そして、高良山に陣を張り、佐嘉をも陥す勢いをみせた。が、その年も越し、長陣となった大友勢には厭戦気分が広がりつつあった。

 翌、天正十三年、四月。竜造寺勢は肥前で八千ほどの軍勢を集め、筑後川を渡って高良山に迫った。竜造寺配下の肥前、基養父の国人、筑紫広門も手勢、千五百を率いて参陣した。筑紫勢は竜造寺勢の左翼、高良山下の千本杉に陣を敷いた。

 その朝、大友勢が高良山を下り、その戦さは始まった。鉄砲の撃ち合いから始まった戦闘で、筑紫勢の働きは目覚ましいものがあった。正面に在った高橋紹運の先手は筑紫勢の鉄砲隊の前に壊滅し、崩れた高橋勢は高良山上に向けて退却していた。

 が、九郎らの後退を機にこの戦さの趨勢が変わった。退却していた筈の高橋勢の主力が反転し、咆哮を上げて筑紫勢を襲ったのである。突然の反攻に筑紫の兵は浮き足立った。

 兵が騎馬の白刃に罹っていった。側面からも騎馬が襲いかかる。押しまくられて翻弄された。九郎は恐怖に肌が粟立っていた。混乱が極みに達し、筑紫勢は体勢を立て直す間もなく総崩れとなった。
「馬鹿な。」
 九郎は悪夢でも見ている様な気がしていた。筑後川がすぐ目の前にあった。馬を川に乗り入れた。あとは筑後の野をひたすらに駆けた。

 筑後川を渡り追撃してくる大友勢に鳥栖の辺りまで追われた筑紫勢は、ほうほうの体(てい)で基養父の牛原谷に逃げこんだ。そして、この筑紫勢の潰走を機に竜造寺勢は総崩れとなった。


 牛原谷


 筑紫広門の本拠、牛原河内は狭隘な谷である。谷の前面の台地に総構えの大空堀が走っている。空堀の刎ね橋を渡り、大城戸を入ると町屋が並ぶ。町屋からは炊飯の煙が上がり、人々が営みをみせている。
 町屋の背後の高みに葛篭(つづら)ノ城の高矢倉が立っている。二重の深い空堀と柵が廻り、谷の入り口を堅固に護っている。

 町屋を抜けて西に折れるとその山塞は初めて姿をみせる。谷の中央を四阿屋川が流れ、両岸の峰々には高取城、鬼ケ城、若山ノ砦などの城砦群が谷を抱くように築かれている。谷の背後の高峰には詰めの要害、勝尾城が聳える。
 狭い谷あいに将士の屋敷がひしめいて、大手道は川の右岸を登る。谷のいちばん奥、右手の高みにある当主の館に、最も早く朝日があたるようにその山塞は構えられていた。


 翌日、九郎は館の広間に在った。広門を前に筑紫の将たちが顔を揃えている。重い空気が流れていた。

「お屋形はなぜ退かれた。退かずば我らの勝ち戦さであった。」
 広門の舎弟、晴門がたまりかねたように声をあげた。その場のすべての者がそう思っていた。広門は瞑目し、腕組みをしたまま応えぬ。長い沈黙が流れた。

 やがて、広門が静かに眼を開いた。
「おぬしたちはわしの下知に不満があろう。だが、今は高橋を討たぬ。それだけしか言えぬ。」
 広門が瞑目し、再び沈黙が流れた。

(何故じゃ。何年も高橋勢と戦ってきた。今、われらの地を侵した高橋を何故討たぬ。)
 九郎は考えていた。

「まあ、よいわ。お屋形の理あってのことじゃ。昔、われらがこの地を追われて以来、この谷を取り戻し、今、われらがここに在るはすべてお屋形のお力じゃ。われらはお屋形と共にある。お屋形の好きにされよ。」
 筑紫一門の老将、筑紫六左衛門が高笑いをあげた。

 二十数年前、先代の筑紫惟門は筑前擾乱においてこの牛原谷を失う。十年の苦節を経て牛原谷に戻るのであるが、筑紫の家がこの基養父で復権を回復するまでには幾度となく戦うことを必要とした。その間、筑紫主従の労苦は計りしれないものがあった。それ故に、この主従は強い結束を誇っていた。

 九郎は広門が言った「高橋は討たぬ。」という言葉がずっと気になっていた。

 確かに、筑紫と高橋の縁は深い。今は敵同士だが遠く父祖の時代より同じ地に住み、家臣たちのなかにも知己や親戚同士という者も少なくない。なによりも広門の妻と高橋紹運の妻は姉妹であった。
 筑紫合戦の折、筑紫は大友と和議を結び大友の傘下に入る。その折に大友家の重臣、斎藤鎮実の妹を広門は妻に迎えた。そして、その姉は紹運の妻であった。
 やがて、竜造寺の台頭で筑紫は大友を離れ、竜造寺配下となり、以降十数年に亘り、筑紫と高橋は敵同士になったのである。

(島津の進攻も近い今、高橋と和を持ってどうなるという。)
 九郎には広門が何を考えているのか判らない。

 当主、広門は三十半ばだが穏やかな顔つきと髭の所為か、面持ちは年齢より老けて見える。広門は何ごとに対しても淡々と受け止め、悠然と構えている。

(盟友、古処山城の秋月種実は大友勢の間隙を衝き、支配領を筑豊、豊前にまで広げ、筑前一国、豊前半国の屋形とまで呼ばれておる。秋月と共に幾多となく戦ってきた筑紫の家はこの本領、基養父と狭い山間の五ヶ山、そして、筑前の武蔵、那珂川など、いくつかの小郷を領するだけである。そのうえ、島津を敵に回そうとしている。)
 九郎は広門が欲を持たず、自身の運命さえも楽しんでいるかのように思えた。


「くろう。」
 館の石段を下りかかったところで、自分の名を呼ぶ声に振り返った。広門の娘、かね姫であった。かね姫は九郎に駆け寄り、子供のように抱きついてきた。太郎は慌てて跳び退き、かね姫の体を避けた。

 その仕草に怒ったかね姫が九郎を睨んで走り去った。二年振りであった。十五歳になったかね姫は美しい娘になっていた。
(この前はまだ幼な顔の子供であったのに。)
 九郎は動揺する自身に赤面していた。

 九郎はことし十八歳、広門の一族、筑紫姓である。三年前に元服し、良世(よしよ)という名も得ている。今は広門の馬廻り衆である。九郎の父、筑紫良甫は一門衆として家中で重きをなしている。
 幼い頃、九郎の屋敷は広門の館のすぐ下に在った。年の近い晴門やかね姫とは主従の間柄とはいえ、幼な友でもあった。それ故、広門をはじめ一族の者たちからは、未だに九郎と呼ばれる。
 二年前に筑前の白水、牛頚郷の護りとして父の良甫が白水城に入り、九郎も一時はこの谷を去ったが、広門はこの利発な若者を自身の傍に戻し、一門衆として役を与えて可愛がっていた。九郎は屋敷を与えられ、数人の手下を持つ。

 屋敷が並ぶ大手道を下ると左手の高みに神社があり、山桜が咲き誇っていた。九郎は久しぶりにこの谷を歩いた。すでに夕暮れが迫っている。
 少し下った川沿いに大石が在った。幼い頃、九郎は晴門やかね姫とよくここで遊んだ。九郎はその大石に上り、なつかしい想いに耽っていた。数年の後に、この大石の前で何が起こるのかも知らずに。

 夕霞の中で川の水音だけが響いていた。


 宝満山城


 九郎は葛篭(つづら)の砦の守りに就いていた。その秋、大友勢の筑後滞陣も一年を過ぎ、ここ数ヶ月は大友勢とも戦さらしい戦さは無かった。筑紫勢も数百の手勢を御井に在陣させただけで、主力の兵はここ牛原谷に戻っている。
 先月、大友勢は高良山を下り、北野に陣を移した。その時に竜造寺勢との間に小競り合いがあったくらいである。戦さの最中ではあるが束の間の平穏がこの谷には流れていた。
 砦の矢倉からは鳥栖の先に広がる筑後平野から大友勢が陣を張る北野の辺りまで一望する。そして左手には霞の向こうに宝満山が聳えている。高橋の主城であった。

「九郎。」
 九郎は自分を呼ぶ声に振り返った。晴門が砦の虎口を入ってくる。
「かね がおまえに逢いたがっておるぞ。かね はおまえを好いておるようじゃ。」
 晴門は悪戯っぽい眼をして、昔と変わらぬ物言いで九郎をからかった。九郎は晴門を睨みつけたが悪い気はしなかった。九郎はなによりも晴門のそんな気性が好きであった。

 広門の弟、筑紫晴門は九郎よりもふたつほど年嵩である。逞しい体躯と豪放さは若いながらも堂々たる武将の風格を備えていた。

「お屋形は何を考えておられるのでしょう。高橋は討たぬと言われた。」
 九郎はここ数ヶ月の疑問を口にした。
「うむ。兄者はわしにもはっきりと言わぬ。」
 晴門は九郎の唐突な言葉に戸惑った。
「兄者は高橋と和議を結びたいようじゃ。」
「島津を敵にまわして、大友方に就くのでしょうか。」
「うむ。兄者は関白のことを言っておった。関白が大友に就いて島津を攻めると。」
「関白とは豊臣秀吉ですか。」
「うむ。このところ兄者は博多の島井殿や毛利家と繋ぎをとっておるようじゃ。島井宗室は関白と懇意じゃという。」
「兄者は他人(ひと)がやらぬことを平気でやる。ま、兄者に任せておこう。」
 晴門が笑った。これ以上、聞くなと言っているようでもあった。

 二人の眼に一騎の将士が霞の野を駆けてくるのが映った。その将士は惣構えの城戸を潜るや町屋を一気に駆け抜け、広門の館へ大手道を駆け登ってゆく。晴門がなにかを察して館へ駆け戻った。


 翌朝、九郎は出陣の隊伍の中にあった。五百ほどの兵である。昨夜遅く、評定も無いままに出陣の命が下った。
 そして九郎はその隊伍の中で、昨日、北野の大友陣で立花道雪が病死したこと、そして、今、紹運不在の宝満山城を攻めるために出陣していることを知った。

(なぜじゃ。お屋形は高橋は討たぬと言った。それも北野の陣を攻めるではなく、なぜ宝満山城なのじゃ。それも大友勢の大将とも言うべき道雪が死んだ翌日に。尋常ではないぞ、卑怯と謗られよう。)
 九郎は考えていた。


 千手六之丞の指揮のもと、宝満山城攻略の兵は大友勢が眼を光らせる筑紫路を避け、牛原谷から園部、平等寺の山間を経て山口の谷を抜けた。
 そして、九郎らは夕闇を待って宝満山城の西南、愛岳の麓に密かに取りついた。そこには修験の姿をした三十ほどの一隊がいた。
(お屋形らしい周到さだ。)
 普段は日和見な広門だが、ここぞという時の広門の才気を九郎はよく知っている。この山城では修験の姿は目立たぬ。宝満山は天台の道場でもある。山中には多くの行者たちが徘徊している。

 宝満山城は大宰府の北東に聳える。高橋家の本城である。南麓、大石の上手に城主の館が在った。急峻な山中に多くの郭を配し、仏頂山の尾根に詰めの郭が在る。西麓の内山と北谷からも城道が在る。周辺に岩屋、枡形、笹尾等の出城群を配する要害である。

 月明かりの中、筑紫勢は修験の者を先頭に密かに城道に取りついた。完璧な奇襲であった。守城兵は油断していた。主立った家臣は立花道雪の死と城主の帰城への対応に追われ、城の守りは手薄であった。
 筑紫勢は無防備な城に取りつき、一気に城戸を破って攻め上がった。九郎も自身の手勢の先頭に立ち、太刀を翳して駆け上った。城方の反攻は殆んど無かった。
 留守を守っていた高橋家の伊藤某は筑紫勢の突然の来襲に紹運の子、統増(むねます)とその母、雲井の方を岩屋城に落とすのが精一杯で、防戦の余地は無かった。双方とも死傷者は殆んど無かった。


 宝満山城を占拠した筑紫勢はもう何日もこの山城に居座っていた。高橋勢の反攻は全く無かった。防備を固めた時のこの城の堅固さは高橋勢がいちばんよく知っている。
 九郎はこの城を攻める折に内応者が居たこと、そして統増母子を捕らえずに敢えて岩屋城に逃がしたことを千手六之丞から聞いた。九郎は葛篭の砦での晴門の言葉を思い出していた。

 風雲の天正十三年も暮れようとしていた。

 この年、中央では豊臣秀吉が四国征討を終え、その政権を確たるものにしていた。秀吉の眼は九州へと向けられ、この冬、秀吉旗下の佐々成政が豊後の大友宗麟の許を訪れて秀吉への臣従を約させていた。

 高橋紹運は北野の陣における立花道雪の死の後、太宰府の岩屋城に在った。筑紫勢に主城の宝満山城を占拠されたままである。手狭で不便な仮住まいではあったが、道雪の喪も明け、久しぶりの平穏な日々であった。


 そんな紹運の許に筑紫家の使者が突然訪ねてきた。使者は筑紫広門の娘、かね姫だという。自身の城を襲い、占拠している張本人の娘の来訪に紹運は驚いた。
 かね姫はまだ十六歳の娘であった。広門とは妻同士が姉妹であり、この娘は紹運にとって姪にあたる。怪訝な顔の紹運をよそに、かね姫は可憐に挨拶をした。

 かね姫には筑紫家の長老、筑紫六左衛門が同行していた。
「恐れながら。」
 と、六左衛門が口を開いた。それは和議の申し入れであった。紹運は当惑していた。
「小娘と老人相手では力が入らぬ。」
 と、姪の来訪を悦ぶ妻にかね姫の相手を任せ、紹運は広間に重臣たちを集めた。

「それはよき話ではござらぬか。」

 岩屋城代、屋山中務の一言でその場の空気が決まった。屋山をはじめ、重臣たちの多くが筑紫方に親戚縁者や知己を持っている。筑紫家が竜造寺に就く前は行き来も多かった。而して、筑紫との和を望む空気は以前よりあった。紹運は苦笑せざるを得なかった。
 紹運にしても島津進攻の脅威が迫るなか、この筑前の前衛ともいえる基養父、筑紫の合力は大きな意義があった。そして何よりも宝満山城を筑紫に占拠されていたのが島津の進攻に備えるにあたっての最大の悩みでもあった。

 筑紫家と高橋家の和議は成り、紹運の子、統増とかね姫の婚儀さえも整った。

 九月以降、宝満山城に在った九郎はこの話を聞き、宝満山城攻めがこの和議のためのものであったことを悟った。
「お屋形の謀術が紹運さえも手玉にとった。」
 九郎は思っていた。そしてこの和議がどういう意味を持ち、何を齎すのかを考えていた。

 宝満山城からは眼下に太宰府の岩屋城が、そして霞の向こうには基養父の勝尾城が望まれた。筑紫野の穏やかな景色を望みながら、九郎の脳裏には年明けには婚礼に臨むのであろう、かね姫の可憐な顔が浮かんでいた。


 牛原谷


 天正十四年、正月。九郎は牛原谷の館に在った。

 筑紫家の主立った家臣が顔を揃える年始の席であった。広間の上座で広門が居並ぶ男たちを睥睨している。舎弟の晴門、筑紫六左衛門と島忠茂のふたりの家老、一門衆の筑紫奥門、千手六之丞、土肥出雲らが脇に座る。

天判山城主 帆足備後
柴田城主 村山近江
牛頚城主 旗崎兵庫
一ノ岳城主 山田河内
長岡城主 原大隅
八町嶋城主 岩橋麟可
那珂川猫嶺城主 広田権左
 筑紫版図の諸将が居並んでいる。九郎の父、筑紫良甫は高橋との相城となった宝満山城に筑紫方の在番として入っており、この席にはいない。九郎は広門旗下の物頭衆、小河伊豆、権藤帯刀、梅見監物、長田頼母らと末席に座る。

 家臣たちの年始の挨拶と二月に決まったかね姫の婚儀の祝いの口上が終わり、広門が徐(おもむろ)に口を開いた。

「お主らの中にはわしが高橋家と和を結ぼうとしておったことを知らなんだ者も、この和議に異を唱えたい者もいよう。まずそれを謝っておく。わしは大友方に就いて関白、秀吉様の臣となる。その為に島津と戦うことになるやも知れぬ。が、この筑紫の家が生き残るにはそれしか無いと思っておる。」
 いつにない力強い言葉に広門の覚悟が滲んでいた。

 そして、一同は六左衛門の口から秀吉の九州征討が今年行われること、筑紫家が秀吉の臣下となることを毛利家が取持ってくれたこと、そのために大友方に就かなければならなかったことを知った。
 また、筑紫家の盟友ともいえる秋月種実が広門のこの誘いを頑くなに拒んだため、高橋家との和議を隠密裏に、そして迅速に進める必要があったことを知らされた。

 最後に六左衛門が言った。
「これでわが家は竜造寺家、秋月家と手切れをし、島津を敵に回した。その覚悟の無きもの、異を唱えたいものは、今、この席を去られるがよい。」
 一瞬、広間に静寂が流れた。少しの間を置いて、強面ての帆足備後が口を開いた。
「いつぞやか六左衛門殿は、われらはお屋形と共にある故、お屋形の好きにされよと言った。あの時は皆、手を叩いて喜んだぞ。此度(こたび)も同じであろう。」
 備後が高笑いをあげた。広間が笑いに包まれた時、九郎は広門の眼が潤んだのを見逃さなかった。


 夕刻、九郎は晴門の屋敷に在った。晴門の屋敷は谷の左手、館の少し下手の山裾に在る。晴門の持ち城である高取城への登り口に位置している。
 九郎は晴門と久しぶりに酒を汲み交わしていた。
「お屋形も思い切られましたな。驚きました。」
 九郎はここ数ヶ月の出来事と今日の館での興奮を口にした。
「うむ。兄者も随分、迷ったようじゃ。が、関白の四国征討の話を聞いた折に決めたようじゃ。関白の軍勢は四国を僅か二ヵ月で降した。あの長曾我部が何もできなかったという。」
 晴門が続けた。
「それとな、関白が来てから降っても遅いのじゃ。関白は我らのような国人を皆、旗下の将の寄力にしておる。今、関白の家来にならずば、筑紫の家が生き残ることは出来ぬ。」
「それでお屋形はあのようなやり方で事を急いだのですか。」
「うむ。兄者は時々とてつもないことを考えるが、今度だけはわしも驚いた。」
 晴門が笑って盃を煽った。
「しかし、これは賭けでもある。敵に回した島津が攻めてきたらこの筑紫などひとたまりも無い。その覚悟だけはしておけ。おまえも筑紫の一族じゃ。」
 九郎は晴門の眼の中に強い決意を感じ取っていた。

「九郎。かねに会ってやってくれ。今度の婚儀はあいつから言いだした。高橋との和議の使者にも自分が立つと言った。それが自分の役じゃとも言った。まだ子供じゃと思っておったが、健気(けなげ)なやつじゃ。あいつも筑紫の家のために戦っておる。」
 晴門が酔ったふうに言った。九郎は身体の内から熱くなってくるのを感じていた。それは酒の所為だけでは無かった。

 その夜、牛原谷に雪が舞いはじめた。北西の季節風が勝尾城の背後に聳える九千部山から吹き下り、夜半には谷全体を揺らすような吹雪となった。吹雪はやがてこの谷を襲うであろう風雲を暗示するかのように激しさを増していった。


 勝尾城


 麓より百五十間ほどの高き峰上に、東西百五十間、南北百三十間ほどの大城を構える。勝尾城といふ。四周に堀を設け、石塁を以って城壁を巡らす。塀柵を打ち並べ、半間毎に銃眼を穿つ。郭多く、矢倉、井楼を打ち立て、攻めるに難し。殊に不落也。

 谷のそこかしこで普請の槌音が響いて、多忙な日々が続いていた。九郎も普請に駆り出され、山上の城で手下と共に城の斜面に長大な石塁を築いていた。

 九郎は普請の指揮を執る長田修理と勝尾城の本丸に在った。修理は物頭の長田頼母の舎弟である。この温和な中年の男は普請や作事に天稟の才を見せた。南蛮や高麗の築城法をも取り入れ、工夫を凝らした城造りをする。九州でここまで石造りにした山城は他に無い。牛原谷防衛の縄張りと普請は殆んどがこの男の仕事であった。

「九郎殿はこの城の強みは何だと思われるか。」
 修理が唐突に問う。
「はて。この長石垣ですかな。」
「うむ、違いますな。あれじゃ。」
 修理が城の背後に聳える九千部山を指した。
「麓からは判らぬが、あの山の上には大きな台地が広がっておる。そこに縦横に軍(いくさ)道を造っておる。その道を使えばこの城から五ヶ山まで半日とかからぬ。そして筑前にも肥前にも人知れず軍勢を送れる。」
 修理が眼を輝かせていた。
「筑紫家はこの山のおかげで生き残れた。島津の大軍が攻めてきても恐れることはない。この城が落ちれば九千部から五ヶ山の一ノ岳城に移ればよい。五ヶ山では大軍は身動きがとれぬ。」
 修理が不敵に笑った。
(面白いお方だ。お屋形が気に入ったのが良く判る。)
 九郎は思っていた。

 勝尾城の背後に聳える九千部山は背振山系の東端に位置し、筑前、筑後、肥前の三国に跨る広大な山体をもつ。西は五ヶ山に接し、北は大峠を経て筑前の那珂川へと至る。南は石谷山、綾部峠を経て肥前へと下る。殊に要衝に位置する山であった。
 筑紫家が本拠を牛原谷に置いたのもこの九千部山の存在が大きい。勝尾城のある峰は九千部山の尾根のひとつである。本丸からは右手に鬼ケ城の砦、眼下に牛原谷を望む。谷を挟んで晴門が守る高取城とは指呼の間である。その向こうに筑後の平野が広がり、筑後川が横たわる。そして正面には高良山が霞んでいる。


 その月、上阪して秀吉の歓待をうけた大友宗麟は上機嫌で豊後に戻った。その宗麟から秀吉の九州征討の日が近いことを告げる使者が牛原谷に来た。それから暫くは平穏な日々が牛原谷に流れていた。

 が、広門の賭けはここに到って見事に外れた。

 肥後八代に本陣を置いていた島津の当主、島津義久が遂に動き、一族の島津忠長らを将とする二万もの大軍が八代を発したのである。それは梅雨を間近にした六月中旬のことであった。
 島津の動きは予想以上に早かった。筑紫家が大友方に就いたことが少なからずも影響していた。島津は秀吉の九州征討の前に、九州のすべてを抑えておきたかった。とくに博多は手中にしておきたかった。

 牛原谷に迫る風雲は急を告げていた。八代を発した島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元らを将とする島津軍は肥後で城、隈部、小代等の兵を加え、三万を越える大軍勢となって筑後に入った。


 筑後平野


 天正十四年、七月。筑後の野は島津の大軍勢で満ち溢れていた。

 先月、八代を発した島津軍は筑後に入ってからも、その軍勢は増え続けた。田尻、江上、草野、星野の筑後勢が加わり、竜造寺、有馬、松浦、神代、波多といった肥前勢、秋月、原田の筑前勢、その上、豊前の国人までもが参集してきたのである。
 大友方の筑紫、高橋、立花を除く北部九州の殆んどすべての国人が島津軍に参陣した。その数はなんと六万にも達していた。


「勝尾城と高取城に兵を分け入れ、島津勢を谷に入れて挟み攻めにすればよい。わしが島津勢の後背を衝く。」
 晴門が顔を紅潮させ、強硬に主戦論を主張していた。
「島津は後ろを衝かせるような生半可な敵ではない。まず、あの大軍相手には通用せぬ。」
 六左衛門が晴門を諌める。
「島津勢の出陣を聞いた関白様が数日中には兵を出すと、宗麟殿も言うてきておられる。時を稼ぐためにも手堅く、勝尾城に篭城するが肝要。機をみて五ヶ山の一ノ岳城に移れば、島津とて攻めきれるものではござらぬ。」
 家老の島忠茂が言う。
「わしは自分の城で戦うぞ。面目が立たぬ。」
 晴門が語気を荒げた。
「一日でも長く島津勢を引きつけるのが此度の戦さの狙いじゃ。無意味に兵を死なせてはならぬ。」
 広門が諌めた。

 この日の軍議では惣構、葛篭の城、高取城を連繋させ、守りが破られて島津勢が谷に入れば、高取城から尾根伝いに鬼ケ城を経て、勝尾城に合流するといった策が採られた。


 その日、九郎は広門の旗本として勝尾城の本丸に在った。高良山を本陣として雲霞の如く満ちあふれた島津軍を眼下に望んでいた。
「軍勢も六万ともなると流石に壮観じゃ。わしも此処までの大軍になるとは思わなかったぞ。」
 広門は暢気(のんき)に言った。
「我らが護るのはこの牛原谷ではない。人を護るのじゃ。おまえたちや城下のものたち、この筑紫に拘わるすべてのものを護るのじゃ。城を護るために死んではならぬ。城が落ちても人がおれば家はまた興せる。」
 広門が独り言のように呟く。

 広門の合戦観は十年の歳月をかけて筑紫家の再興をはかり、道半ばにして不慮の死を遂げた広門の父、惟門の遺恨を引き継いでいる。

 そして、七月六日。遂に島津軍は攻撃の火蓋を開いた。

 早暁、伊集院忠棟を将とする二万五千の兵が朝靄を衝いて動いた。迎え討つ筑紫勢は三千余。かってない風雲がこの牛原谷をおし包もうとしていた。


 牛原谷


 夜が明けた。

 風が吹き、朝靄(もや)を揺らしていた。靄の彼方からひたひたと気が押し寄せてくる。やがて地が鳴りだす。二万五千の兵。
 惣構えには筑紫の寄り掛目結紋を染め抜いた幟(のぼり)が幡めいている。塁上の柵で三段に構えた筑紫の兵が銃口を並べる。

 凄まじいまでの光景であった。長槍の穂先を煌かせた徒兵の群れが野を埋め尽くしていた。馬蹄の音、嘶き、兵の甲冑が擦れ合う音が、地鳴りを伴って谷を包みこんでいた。
 やがて、軍貝がびょうびょうと鳴り響いた。陣鉦、太鼓の音が鬨(とき)の声に変わった時、戦さは始まった。

 鉄砲の音が百雷のように鳴り響いた。

 間断なく飛び来る銃弾に島津兵が次々に倒れる。塁上に居並んだ筑紫の鉄砲勢による抗戦の前に島津勢はくぎ付けになっていた。新手を次々に繰り出すが空堀に死体の山を築くだけである。

 惣構えの西、晴門を将として三百の兵が守る高取城にも島津勢は押し寄せた。麓の山浦から取りついた兵が急斜面を這うように攀じ登る。晴門勢は鉄砲、弓矢を雨霰のように撃ちかけ、必死に防いだ。庇うものも無い斜面で頭上から銃弾と矢を浴びせられた島津勢はここでも多くの死傷者を出し、攻めあぐねていた。

 血みどろの死闘が日が暮れるまで続き、その日は戦線が膠着したまま一日が終わった。


 翌朝、緒戦での反攻に苦慮した伊集院忠棟は全軍をあげた総攻撃を指示した。それは凄まじい攻勢であった。咆哮があがり、黒つなみが奔流のように殺到した。

 雲霞のような大軍勢が惣構えに満ち溢れ、倒れても、倒れても新たな兵が湧きだしてきた。怒号が飛び交い、柵が島津兵に包みこまれる。惣構えの城戸がおし破られ、筑紫の兵が四散する。島津勢が城下になだれこみ、町屋に火の手が上がった。そして、主戦場は葛篭の城へと移った。

 九郎は勝尾城の本丸でその様子を見ていた。喚声と鉄砲の音が山上にまで響き渡っていた。やがて、島津勢が谷の入り口の城戸を破り、谷に侵入した。
「合図の狼煙(のろし)を上げよ。晴門を引かせよ。」
 広門が下知を出す。

 それは狼煙が上がるのと同時に起きた。

 高取城の上手の尾根に島津の軍勢が湧き出したのである。晴門勢は島津勢が谷に入れば尾根伝いに勝尾城に入る手筈であった。その尾根を抑えられたため、晴門勢は島津勢の中に孤立していた。

 晴門勢の動揺が手にとるように判った。が、晴門の判断は早かった。間を置かず、晴門勢が谷へと下ったのである。晴門はまだ手薄な谷の島津勢を切り開いて、勝尾城への活路を見い出そうとしていた。その時には島津勢の先手が谷へ入っていただけであった。

「晴門を救けよ。」
 広門が悲鳴に近い声を上げた。九郎が弾かれたように坂を駆け下る。手勢が続く。傍に在った物頭衆も兵を纏めて山を下った。

 谷へ降りた九郎は刃を翳して大手道を駆けた。島津の兵が溢れていた。晴門勢が谷の半ば、川の付近で島津勢におし包まれている。九郎は立ち塞がる島津兵の中に切りこんでいった。

 たて続けに三人ほどの島津兵を切り伏せた。それから先は殆んど覚えていなかった。次から次に湧き出してくる島津兵に九郎は狂ったように血刀を振っていた。

 半刻ほどの後、九郎は若山の砦から延びた尾根の山中にいた。傍には物頭の梅見監物と長田頼母、修理の兄弟、それに数名の将士がいた。何人かは手傷を負っている。
「ご舎弟様は如何したであろう。」
 九郎が呟いた。
「判らぬ。どうしようもできなんだ。」
 梅見監物が応えた。
「とにかくお屋形の許へ戻ろう。」
 長田頼母が薮を登りはじめた。少し登って見通しのよい場所に出た。そこで九郎らは勝尾城へ登る斜面が既に島津勢に埋めつくされてるのを見た。

 茫然としている監物らを他所(よそ)に九郎は広門の言葉を思い出していた。
「九千部じゃ。お屋形は九千部に向かう。」
 九郎が叫んだ。

 島津勢が眼を光らせる中、九郎たちは北の貝方の谷へ下った。そこから尾根に取りつき、九千部山を目指すつもりであった。が、九郎たちが九千部山に上りきることはなかった。九郎は貝方の峰の上から九千部山を見て愕然とした。九千部山上にも島津勢が陣を張っていたのである。

 広門は島津勢を見くびっていた。島津の戦さは敵を囲い込んで殲滅させる。島津勢は伏兵を使う戦術に長けていた。先年の大友勢との耳川合戦でも島津勢は伏兵で大友の大軍を囲いこみ、殲滅させている。島津勢が後方に兵を配するのは予測すべきであった。

 そして、晴門勢が谷へ突出した時点ですべてが狂った。広門は晴門を救うことに固執して勝尾城を捨てる機会をも失っていた。

 退路を断たれた広門はそれから二日間、島津勢の執拗な攻撃を勝尾城で防いだ。が、かっての盟友、秋月種実が投降を勧めるに至って、遂にその言を入れて城戸を開いた。島津軍の来攻より五日目、天正十四年の七月十日のことであった。

 奇しくもその日、大阪では関白秀吉が九州征討の大号令を発していた。


 万歳寺


 九郎たちは九千部山から貝方の谷に直落する林の中の急坂を下っていた。梅見監物と長田頼母、修理の兄弟、それに数名の将士がいた。
 九郎たちは勝尾城に戻るため、昨日から九千部の山中を彷徨っていた。尾根から谷へと何度も上下し、勝尾城を十重二十重に包囲する島津兵の眼をかいくぐり、城に入る道を探したが果たせないでいる。絶望感が漂っていた。

 急坂が尽き、平坦な場所に出た時であった。九郎は自分たちが取り囲まれているのに気づいた。島津の十の字紋が描かれた胴丸を着けた兵たちが、林の中からゆっくりと現れた。九郎たちの倍ほどの人数は居ろうか。それぞれ手に得物を構えている。何人かは火縄に火を点けた鉄砲を構えている。

「おぬしは九郎か?」
 島津の将士が間の抜けた声を上げた。一瞬、九郎は何が起こったのか理解できなかった。
「わしじゃ。権左じゃ。」
 なんと、その髭面の男は岩戸郷、南面里の広田権左であった。筑紫配下の将である。
「権左殿。何故ここに?それにその格好は?」
「うむ。じっとしておれんでのう。戦さの成り行きをこの眼で確かめようと思って出てきた。」
 権左はことも無げに言った。
「途中、大峠でな島津の物見に出くわしてのう、丁度よいと思ってこの胴丸をいただいた。」
 権左が笑った。力が抜けた九郎たちはその場にどっと座りこんだ。

 広田権左は五ヶ山の山田河内守の寄力であるが、もとは岩戸の土豪であった。筑紫家の郎党となり、南面里の猫嶺城主として筑紫版図、北面の守りに就いている。九郎が白水城に居た頃からの旧知であった。

「権左殿、城はどうなっておる?」
 監物が聞いた
「知らぬのか、勝尾城は落ちたぞ。今日の昼のことじゃ。お屋形は今、島津の手にある。」
 権左の言葉に九郎は全身の力が抜けるを感じた。
「お屋形のことは、いま、手下が探っておる。わしは今から万歳寺に行く。おぬしらも来い。」
 権左が言った。

 万歳寺は牛原河内の北隣、大木河内の最奥にある古刹。貝方の谷から山ひとつ越えたところだが、島津の物見を警戒しながら進んだため、着いたのはその日の夜半であった。万歳寺は筑紫家と拘わりが深く、往持は監物や頼母などとも見知りであった。

 九郎たちはこの往持から二日前の牛原谷での戦さの顛末を聞かされた。それは悲惨なものであった。

 あの日、谷へ突出した晴門勢は川上左京亮率いる島津勢におし包まれ、殆どの兵が斬り死にしたという。勝尾城より晴門勢の加勢に打って出た家老の島忠茂をはじめ、土肥出雲、小河伊豆、権藤帯刀など、名だたる者たちが討死にしたという。
 晴門は島津の将、川上左京亮と一騎打ちの末、刺し違えて死んだと往持は語った。あの川の傍の大石のところであった。
 その夜、九郎は涙が止まらなかった。


 広門が園部の大興禅寺に幽閉されたとの報せを、広田権左の手下が持ってきたのは翌日の昼のことであった。大興禅寺はこの万歳寺からは山を越え、半里ほど谷を下ったところにある。

「お屋形を助け出そうぞ。」
 権左が言った。
「この人数で出来ようか?」
 長田頼母が言う。
「ふふふ。島津兵に化けて潜りこめばよい。これが役に立つわ。」
 権左が脇に置いた島津の胴丸を叩いた。
「大興禅寺ならばわしがよく知っておる。本堂や庫裏の間取りも判る。」
 長田修理が脇から身を乗り出した。
「待たれよ、まずお屋形と繋ぎをとろう。お屋形のお考えがあろう。」
 梅見監物が口を開いた。その一言で流れが変わった。
(監物殿はお屋形の傍におったからよく判っておる。)
 九郎は思っていた。

 翌日、万歳寺をでた九郎たちは園部に入り、大興禅寺の裏山に潜んで様子を探った。夜を待って監物と九郎が本堂に忍びこむという段取りであった。

 大興禅寺は園部の小松村の北、契山の山裾に在る。門前の集落から百段ほどの石段を上る。山門を入ると広場があり、再び石段を上がったところに本堂や薬師堂などが並ぶ。
 修理の話から広門は本堂に在ると思われた。警固は思ったよりも手薄であった。島津兵の殆どは広場にいた。五十人ほどであろうか。

 夜半、島津の胴丸を着けた監物と九郎は裏手から本堂に忍びこんだ。権左勢がいつでも飛び出せるように草叢で構えている。果たして、広い本堂に広門は一人で在った。引戸の向こうには島津兵の気配があった。
「お屋形さま、監物でございます。お救けに参りました。」
 監物が仏壇の裏から低い声をかけた。
「おお、監物か。」
 広門が気づいた。
 薄暗い灯明の光で見る広門の顔には、ここ数日の苦悩が見て取れた。
「九郎もおるのか。無事で良かった。」
 九郎は広門のその言葉に胸が締めつけられる思いを感じた。

「折角、来てくれたがまだ逃げ出すには早い。」
 淡い灯明の中で広門が言った。
「今は何も出来ぬ。やがて、関白様の軍勢が来れば島津勢は引き揚げよう。その機を待つのじゃ。」
 広門らしい思惑であった。
「それまでに兵を集めておけ。一ノ岳も日を置かずに落ちるであろう。霊仙寺を頼れ。」
 そして、広門はいくつかの指示を出した。
 その帰路、九郎は自身らに与えられた役の大きさに身震いを感じていた。


 五ヶ山へ向かう島津の軍勢が万歳寺に近づいたのは翌日の早朝のことであった。島津勢は一ノ岳城を攻めるため、大木河内より大峠を越え、市ノ瀬から五ヶ山に入ろうとしていた。
 九郎たちは万歳寺を出て、一ノ岳城の守将、山田河内守に広門の命を伝えるため九千部の山道を五ヶ山へと駆けた。(後略、全文は「暁光の城。筑紫広門伝」Kindle版 電子書籍で)


 勝尾城を落とした六万の島津軍は筑紫路を北上、高橋紹運が篭る太宰府、岩屋城を落し、翌月、筑前に唯一残った大友方、立花統虎の立花山城を包囲する。
 そして、五ヶ山の一ノ岳城を棄てた九郎たちは、背振山中、霊仙寺に筑紫の残兵を集め、軍勢の再編を進める。

 それは、関白秀吉軍の先鋒、小早川隆景、吉川元春の毛利勢と黒田孝高の軍勢が門司の浦に上陸し、島津軍が立花山城より陣払いを始めたことで一気に動きだす。
 その日より、九郎たちの鬼神のような活躍が始まる。九郎たちは筑後、大善寺で広門を救出し、筑紫回復の征旗を揚げるのである。

 

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 大友、龍造寺、島津の三大勢力が割拠した戦国末期の北部九州。大勢力に狭間で果敢な生残り戦略を見せた肥前、基養父の武将、筑紫広門。その武将としての器(うつわ)には人間、筑紫広門の魅力が溢れている。筑紫一族の若き将士、九郎の活躍を通して、異才の武将、筑紫広門の生きざまを描く。

 

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