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鬼の話。鬼とされた古代産鉄氏族の謎


 本殿の裏手から続く長い回廊を歩くと、右手に重い空気を漂わせた釜殿が佇んでいた。温羅(うら)の首はこの釜殿の下に埋められたとされる。そして、13年に亙り、唸り続けたという。古代吉備の統治、温羅は鬼であったという。


 吉備の中山と呼ばれる小山はいかにもその平野の神奈備といった風情で、大きく根張りを広げていた。その山裾で吉備の鎮守、吉備津神社は広大な神域を誇る。吉備津造りと呼ばれる重厚な本殿は室町中期、足利義満の造営にて国宝ともされる。
 吉備津神社の祭神、吉備津彦命は「温羅(うら)」を討伐して吉備を平定したという。温羅は渡来人であり、吉備に製鉄を齎し、鬼ノ城を本拠として吉備を支配したとされる。
 吉備の民は中央に窮状を訴え、第10代 崇神天皇は四道将軍のひとり、五十狭芹彦命(いせさりひこ)を吉備に派遣、五十狭芹彦命は熾烈な戦いを経て温羅を討ち、吉備の統治として吉備津彦命を名乗る。

 そして、この出来事は桃太郎の鬼退治説話のモチーフになったという。吉備津彦命の臣、犬飼武命、吉備県主の楽々森彦命、鳥飼に優れた留玉臣命がそれぞれ、桃太郎説話の犬、猿、雉のモデルとされる。


 吉備津神社は吉備津彦命が陣を敷いた地とも、斎殿を営んだ跡ともされる。本殿外陣の北東隅には艮(うしとら)御崎神として温羅が祀られる。「艮(うしとら)」とは丑と寅の間、鬼門とされる北東のこと。また、牛の角と虎の牙をもつ鬼の意。吉備において温羅(うら)は飽くまで鬼として忌避されている。

 吉備津神社の釜殿では鳴釜神事が行われる。釜殿の下に埋められた温羅の首が唸り声をあげ続けたため、吉備津彦命は温羅の妻女、阿曽(あそ)媛に神饌を炊かせる。すると声は止み、温羅は吉凶を占う神霊となる。以来、巫女が神饌を炊く鳴釜神事が続けられている。
 温羅の妻女、阿曽(あそ)媛は吉備津神社の北西に対面する鬼ノ城(鬼城山)の麓、阿曽郷(総社市阿曽)の祝(ほおり)の媛とされる。阿曽からは古代製鉄の遺構が多数出土して、鳴釜神事の釜は阿曽の鋳物であり、鳴釜神事を行う巫女は阿曽の女とされる。


 肥後、阿蘇(あそ)にも鬼の伝承が遺される。阿蘇の開拓神、健磐龍命(たけいわたつ)は配下の鬼八を伴って、往生岳から外輪山の麓にある的石と呼ばれる大岩に矢を射ていた。鬼八は阿蘇谷を一跨ぎに矢を拾っては往生岳の命に渡していた。健磐龍命は幾度も矢を放ち、やがて、九十九本にもなった。鬼八は最後の矢を拾ったがさすがに疲れ果て、矢を足で蹴って健磐龍命に渡した。
 折悪しく、矢は健磐龍命の太股に刺さり、怒った健磐龍命に畏れをなした鬼八は逃げ出す。鬼八は矢部で健磐龍命に捕まるが、隙をみてふたたび逃げ、高千穂の三田井まで逃がれる。そして、鬼八は高千穂の五ケ瀬川を挟んで健磐龍命と争うが、遂には健磐龍命に討たれる。

 健磐龍命は剣で鬼八の首や手足を切るが、鬼八の躰は直ぐに元に戻り、なかなか死なない。そこで健磐龍命は鬼八の首や手足を異なる場所に埋めてしまう。
 それ以来、鬼八の恨みで阿蘇では霜(しも)の害が続き、人々を苦しめたという。困った健磐龍命は霜神社を造り、「火焚き神事」を行って鬼八の霊を慰めたという。以来、阿蘇の乙女が59日間に亙り、火でご神体を温める神事が行われている。

 この鬼八伝説には統治氏族と先住氏族との間に繰り広げられた抗争が秘められるという。健磐龍命は九州鎮護のため中央から阿蘇へ下向したとされる。阿蘇でも先住の民を統治してゆく過程で争いが繰り返されたのであろうか。

 そして、阿蘇が古代製鉄の地ともされる。弥生後期において、阿蘇の狩尾遺跡群は鉄に拘わる遺構が列島で最も密集する域とされ、大量の鉄器を集積したことで知られる。
 弥生期の鉄器生産は韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として、のちの砂鉄などを原料とする「たたら製鉄」は5、6世紀に韓半島より伝わったとされる。
 が、阿蘇の狩尾周辺では「阿蘇黄土(リモナイト)」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出、鉄滓などが検出されることで褐鉄鉱による製鉄の存在が示唆される。
 褐鉄鉱とは鉄の酸化鉱物、天然の錆(さび)。沼地などに鉱床をつくり、採取が容易で低い温度で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。そして、褐鉄鉱による製鉄は南方系の技術とされる。


 科野(しなの)にも鬼の伝承が遺される。悪事を働く安曇野の魏石鬼八面大王は朝廷から派遣された征討軍によって討たれる。そして、魏石鬼八面大王もやはり、首や躰を切り分けて埋められたという。

 阿蘇と科野の系譜において不思議な事象がある。阿蘇の主神、健磐龍命(たけいわたつ)と諏訪の氏神、武五百建命(たけいおたつ)は同一であり、諏訪の系譜において武五百建命は崇神天皇の代に科野国造とされ、武五百建命の子のうち兄の速瓶玉命は阿蘇に下向して阿蘇国造を賜り、弟の健稲背命は科野国造に任じられたという。
 速瓶玉命の系譜は阿蘇大宮司家に繋がり、健稲背命の系譜は諏訪大社大祝の金刺氏、神氏に繋っている。つまり、諏訪と阿蘇の統治は同じ氏族であり、類似する鬼八と魏石鬼八面大王の伝承もひとつの説話が移植されたとも思わせる。
 また、諏訪において武五百建命の妃が建御名方命の裔、会知速男命の女(むすめ)の「阿蘇比売命」とされることで、諏訪の伝承が阿蘇から移植されたものとも思わせる。科野にもアソ(安曽)地名が遺される。

 そして、諏訪も古く、褐鉄鉱の産地として知られ、科野褐鉄鉱の象徴ともされる「諏訪鉄山」の存在があった。


 吉備の温羅(うら)、阿蘇の鬼八、科野の魏石鬼八面大王ともに首と躰を切り分けて埋められたとする伝承の類似。また、神饌を炊く吉備の鳴釜神事と阿蘇、霜神社の火焚き神事が重なって、アソ(阿曽、安曽)地名の共通も氏族の移動などによる事象とも思わせる。古く、阿蘇に在った産鉄、金属精錬氏族が吉備や諏訪に入ったのであろうか。
 同じ系譜の民が分断されて、ともに忌避されて鬼と呼ばれ、中央から派遣された征討軍によって討たれるという構図。背景に古い時代の製鉄の残影と産鉄民の存在。殊に、阿蘇や諏訪で古く、南方系の技術とされる褐鉄鉱による産鉄が行われた痕跡が興味深い。

 果たしてこれら特異な事象が意味するものとは。

 弥生期における鉄器の出土は九州北半が突出し、また、丹波、北陸など日本海沿岸にも夥しい。そして、弥生期の大和盆地には鉄器は見当らない。大和盆地に鉄器が普及するのは古墳期以降である。前述の温羅や鬼八の伝承で語られる第10代 崇神天皇の代が3世紀後半から4世紀前半ともされ、当に、大和王権が基盤を築いたとされる古墳期が始まる時代であった。

 崇神天皇は北陸、丹波、東海、吉備へ四道将軍を派遣する。北陸、丹波、吉備は弥生後期の鉄器出土の集中域。大和王権はまず、鉄器文化を持つ域に征討軍を派遣、統治氏族を討伐したともみえる。
 また、九州の国造は阿蘇国造と火(肥)国造が最も古く、第10代 崇神天皇の時代とされる。そして、第12代 景行天皇の九州巡行で豊後から日向、球磨や南九州域が平定され、第13代 成務天皇の代に筑紫や肥前の米多、豊国造などが九州北半に置かれている。大和王権の九州征討は阿蘇から始まっている。

 大和王権の国家生成において、脆弱な青銅の武器しか持たなかった大和盆地の兵は、まず、鉄製武器(鉄鏃)を欲したのではないだろうか。そして、討伐した統治氏族が再起できぬように、「鬼」として徹底して忌避したともみえる。それが鬼の伝承の正体とも思わせる。


 国譲り神話において、建御雷命との力競べに敗れた建御名方命(たけみなかた)は諏訪に逃げこむ。
 建御名方命は風の神とされ、風を操る鞴(ふいご)に纏わる産鉄、金属精錬氏族を彷彿とさせる。建御雷命は剣の神であり、軍(いくさ)神とされる。当に、征討軍の投影。
 建御名方命と建御雷命の力競べとは、鉄器文化を持つ域に派遣された征討軍が産鉄、金属精錬民の統治氏族を駆逐する「鬼の伝承」と同じ構図。大和王権の生成期における闘争の投影とも思わせる。

 


(追補)鬼とされた古代産鉄氏族の原初。蚩尤(しゆう)と都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話

 中国神話において「蚩尤(しゆう)」は夏の君主、黄帝から王位を奪うべく、魑魅魍魎を率いて暴風雨を起こし、黄帝と戦う。蚩尤は黄帝の軍を苦しめたが遂には討伐される(琢鹿の戦い)。
 蚩尤は鉄沙をもって剣、戈、矛、戟など優れた兵器を造り、兵主神ともされた。また、暴風雨を支配する風の神とは「ふいご」によって風を操る産鉄、金属精錬の民を投影するという。
 そして、蚩尤は人の身体に牛の頭を持ち、頭には二本の角があったとされる。而して、鬼の姿。蚩尤神話は「鬼」ともされた古代産鉄氏族の原初ともみえる。

 伝説によると、揚子江流域に在った蚩尤の族は流浪の民となり、漢人はこの民を三苗と呼んだ。この三苗が苗族の祖であるという。
 「苗族」は中国南域からベトナム、ラオス、タイ北部の山岳地帯に分布する民族集団。焼畑で陸稲、棚田で水稲を作る。雑穀、芋を作り、納豆を食べ、麹で酒を造る。家の中に祖霊を祀り、万物に神が宿るとして依代を祭祀して五穀豊穣を祈る。
 当に、日本古来の文化そのもの。行事、祭祀、儀礼など、日本人と苗族の基層は大きく重なるという。古く、苗族祖先の列島への渡来を示唆する研究者は多い。


 また、韓半島の伝承では蚩尤の族は兵主の地、山東半島から新羅の曽尸毛犁(そしもり)へ渡る。韓半島の桓檀古記によると、檀君王倹は番韓を蚩尤の裔、蚩尤男に治めさせたという。
 日本書紀では素盞嗚尊が韓半島の曽尸毛犁(そしもり)に天降り、子神の五十猛命とともに列島に渡ったとされる。曽尸毛犁とは牛頭山。のちに素盞嗚尊は二本の角をもつ牛頭天王と同一視される。

 もうひとり、鉄の文化に由来して「鬼」を想起させる人物が在る。

 敦賀(つるが)の地名由来、角鹿(つぬが)の地主神ともされる韓半島渡来の「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の存在がある。
 越前国一宮の気比神宮は伊奢沙別命(いざさわけ)を主祭神とし、古く、角鹿(つぬが)氏が管掌していたという。伊奢沙別命とは第11代 垂仁天皇の時代に渡来した加羅の王子、都怒我阿羅斯等とも。都怒我阿羅斯等は鉄器を齎した神とされ、韓半島の金属精錬の民が奉斎するという。

 そして、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは「角があるひと」の音ともされ、二本の角をもつ牛冠を被るといわれる。当に、「鬼」の姿。吉備などで鬼ともされた産鉄氏族とは「牛冠」を被る氏族であったのかも知れない。

 気比神宮では吉備の桃太郎神像が守護とされ、気比、けひ(きひ)と吉備(きび)が音を同じくする拘わりがあった。都怒我阿羅斯等と吉備の温羅との繋がりを思わせる。温羅は渡来人ともされていた。
 また、吉備については温羅の妻女が阿曽(あそ)媛とされ、阿蘇(あそ、阿曽)地名がみられることで、吉備の製鉄文化は阿蘇由来の産鉄民とのちの韓半島の金属精錬氏族の二重構造とも思わせる。

 鬼の説話の背景や建御名方神話にみるように、太古の産鉄、金属精錬氏族の地域との拘わりや王権との葛藤は時空を超えて複雑に絡み合っている。この国の古代において、「鉄」の存在感は極めて大きいようだ。

 


(追補)たたら製鉄の謎。褐鉄鉱による弥生製鉄と久米氏族

 弥生期における鉄器生産は韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として北部九州域に集中している。のちの「たたら製鉄」は5、6世紀に韓半島より齎されたという。
 近年、カラカミ遺跡(壱岐)や小丸遺跡(広島)など、弥生期の製鉄遺跡とされる遺構の発見が相次いでいる。が、史学は弥生期の製鉄を認めようとしない。

 そして、韓半島より伝わったとされる「たたら製鉄」に関して不思議な事象がある。

 たたら製鉄は直接製鉄法とされる。直接製鉄法とは砂鉄や鉄鉱石を低温で半溶融のまま還元し、炭素の含有量が少ない錬鉄(れんてつ)を生成する。これを加熱、鍛造して不純物を搾り、強靭な鋼(はがね)を得る。
 が、その時代、中国や韓半島で行われていた製鉄技術は間接製鉄法であった。鉄鉱石を高温で溶融、還元させるが鉄は炭素を吸って脆い銑鉄(せんてつ、ずく)となる。これを再度、加熱溶融、炭素調整をして鋼を得る方法である。中国では大量に鉄を生産できるこの方法が古代より発達している。

 韓半島より齎された筈のたたら製鉄が何故か日本独自の技法といわれる所以。そのルーツとされる中国や韓半島の製鉄法とは技術が異なるという謎。古く、中国や韓半島とは異質の製鉄文化が列島に伝わっていた可能性が考えられる。


 太古、鉄器文化はBC1400年頃の西アジア、ヒッタイトに始まったとされる。鉄鉱石による製鉄で炭を使って還元し、鍛造して鋼を得る直接製鉄法であった。
 BC1200年頃にヒッタイトが滅亡するやその技術は周辺に拡散、エジプトやメソポタミア、インドなどに伝播している。中央アジアではBC800年頃のスキタイが製鉄技術を得ていたとされる。
 中国においては「殷」の遺跡で鉄器が発見されているが金属器の主体は青銅であり、本格的に製鉄が始まるのは春秋戦国期(BC770年~BC221年)の頃とされる。


 奈良、富雄丸山古墳で発見され、その巨大さで世間を沸かせた「蛇行剣(だこうけん)」の存在がある。蛇行剣は剣身が蛇のように曲がりうねったもの。その形状から儀礼用のものとされる。
 全国の古墳などから出土しているがその半数は九州であり、とくに南九州、日向などの地下式横穴墓から集中的に出土することで南九州の発祥ともされる。そして、この域の地下式横穴墓は隼人系集団の墳墓ともされる。

 民族学の先駆、鳥居龍蔵は蛇行剣がインドネシアやマレーシア、フィリピンあたりのクリス短剣を連想させるとして、その原初は東南アジアにあると考察している。南方系海人に由来するという隼人の拘わり。奈良、富雄丸山古墳出土の巨大な蛇行剣は初期天皇の親衛として皇宮を守護した隼人系武人の象徴に相応しい。
 隼人とは南九州の海人。神話において隼人の祖とされる火照命に纏わる海幸山幸の説話や火中出産説話などは東南アジアや南洋にルーツがあり、隼人の楯の渦巻紋や鋸歯紋の類は東南アジアにおいて悪敵を払う魔除けとされる。隼人は東南アジアあたりの海人に由来する。

 そして、前述のクリス短剣(蛇行剣)の原初は、BC300年頃から紀元前後にかけて繁栄したベトナム北部のドンソン文化に由来するともいわれる。ドンソン文化は東南アジア初期の金属器文化。特徴的な銅鼓などの青銅器が発達、鉄器の使用も知られる。そして、ドンソン文化の特徴的な銅鼓は中国南域からマレー半島、タイ、インドネシアなど東南アジア全域に拡散している。

 古く、百越の倭人と呼ばれる存在がある。「百越(ひゃくえつ)」は大陸南域からベトナムに到る広大な沿岸に在った諸族。北方の漢人とは言葉、文化を異とする民で、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が多いとされる。当に、隼人の原初。
 偏西風が西から東に吹き、黒潮が南から北に流れることで、古く、列島に拘わる事物の主体が、南方から東シナ海を北上したことは自明の理。日本の基層文化は飽くまで南方系のものであった。
 つい最近まで大陸から韓半島を経て北部九州へ伝播したといわれていた水田稲作でさえ、大陸南域から直接、東シナ海を経て列島に伝わったことが最新の遺伝子研究などで解明されている。

 而して、ヒッタイトより東アジアへの製鉄技術の伝播ルートにおいて、中央アジアを経た北方の黄河ルートに対して、南方のインドルートがあった。ヒッタイトの初期の技術、直接製鉄法は古く、インド、ミャンマーからタイ、ラオス北部、雲南を経て、ベトナムなどへ伝わったともされる。
 タイ東北部のバンドンブロン遺跡ではBC300年頃の製鉄遺構が発見され、遺構や鉄滓の分析により直接製鉄法であったことが解明されている。

 「たたら製鉄」のルーツが5、6世紀に韓半島より齎されたものではなく、古い時代に大陸南域、東南アジアあたりから伝わっていたものであれば、弥生期の製鉄遺跡の存在やその製鉄技法の主体が中国や韓半島の製鉄法と異なるという謎は解ける。


 弥生期の鉄器について、韓半島輸入の鉄挺(てってい)を原料として北部九州域が鉄器生産を集中させている。が、弥生後期に中九州域、火(肥)北部の鉄器出土が激増、とくに鉄鏃(てつぞく)など鉄製武器の出土数では火(肥)が北部九州域を圧倒している。
 菊池川流域の盟主とされる大規模集落、方保田東原遺跡や大津の西弥護免遺跡などでは弥生後期の鍛冶遺構や鉄製武器が大量に出土、この域における圧倒的な鉄器の集積は際立っている。

 而して、邪馬台国九州説において、鉄製武器の集積を背景にした弥生後期の火(肥)北部域が、女王国の南に在ってその存在を脅かしたとされる「狗奴国」にも比定される。
 魏志倭人伝によると正始8年(248年)、邪馬台国の女王、卑弥呼は狗奴国との戦いを魏に報告、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。邪馬台国が大量の鉄製武器(鉄鏃)を駆使する狗奴国に苦戦していた様子を思わせる。


 阿蘇の狩尾遺跡群の存在がある。狩尾遺跡群は阿蘇谷北西の遺跡群の総称。周辺の弥生集落は鉄に拘わる遺構が列島で最も密集する域とされ、大量の鉄器を集積したことで知られる。
 そして、狩尾遺跡群周辺では「阿蘇黄土(リモナイト)」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出し、鉄滓などが検出されることで褐鉄鉱による産鉄の可能性が示唆される。
 褐鉄鉱とは鉄の酸化鉱物、天然の錆(さび)。沼地などに鉱床をつくり、採取が容易で低い温度で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。
 大和の古墳出土の刀剣類で、褐鉄鉱や赤鉄鉱(ベンガラ)を原料にするものも多いというデータがあり、古く、わが国には褐鉄鉱による古代製鉄が存在したとする説は根強い。

 そして、褐鉄鉱による製鉄法は、古く、東南アジアなど南方系の技術ともされる。前述のタイ東北部のバンドンブロン遺跡の製鉄遺構においては、この域の紅土(ラテライト)由来の原料を使ったともされる。ラテライトの主成分とは褐鉄鉱(リモナイト)であった。


 古く、阿蘇において、褐鉄鉱由来の産鉄、鍛冶の民ともみえる阿蘇祖族、山部氏族の存在がある。姓氏家系大辞典は山部を隼人同族とし、新撰姓氏録は山部を久米氏の流れとしている。
 また、阿蘇には大鯰(なまず)の伝承が遺され、阿蘇の古宮には「鯰」が祭祀されて、阿蘇祖族、山部氏族は鯰トーテムともされる。そして、久米氏の氏寺、橿原の久米寺に鯰の奉納額がみられることで、久米氏も鯰トーテムの氏族とされ、阿蘇の山部が久米氏の流れであることを補完する。

 久米氏族は隼人系の海人といわれ、阿多海人の本拠、上加世田遺跡の墨書土器には久米の名がみられる。久米氏は久米族と呼ぶほうが相応しい異能の集団。神日本磐余彦尊に従った大久米命は黥利目(入墨目)であり、入墨は海人の習俗であった。
 そして、久米氏族の原初を東南アジアのクメールとする説がある。クメールはカンボジアを中心とする東南アジアの民。古く、メコン川の中下流域、タイやベトナムにも分布、高床式の住居に住んで稲作を行い、精霊信仰をもつ。また、タイでは鯰を神使として、カンボジアのアンコール遺跡やアンコールトムのバイヨンには鯰のレリーフが描かれ、神聖視されている。

 倭人に拘るとされる「百越」の民とは大陸南域からベトナムに到る沿岸に在った諸族。百越のいくらかは東南アジアのモン・クメール語派とされ、クメールと同化していたともされる。

 弥生期の阿蘇の褐鉄鉱(リモナイト)による製鉄の痕跡が東南アジアをルーツとする海人、久米氏族に由来するとみえ、その原初が、古く、東南アジアから伝わった直接製鉄法であるとも思わせる。のちの「たたら製鉄」がその技術を引き継ぐものであれば、中国や韓半島の製鉄法と異なるという謎は不都合なく解ける。

 

 

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