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古事記、 日本書紀への回帰。 記紀史観の復元

まえがき


 古代史の探求をするうちに、何故か通説とされるものに違和感を感じるようになっていた。それをはっきりと感じたのは、奈良、橿原市の神武天皇を奉斎する橿原神宮を参拝した時だった。
 記紀神話によると、この国を治めるために日向の高千穂宮を発し、東行した神日本磐余彦命(神武天皇)は数年を費やして熊野から大和に入り、畝傍山の麓、橿原宮で即位する。が、現在の史学は神武天皇の存在を含め、神武東征説話は史実ではないとする。

 橿原神宮より橿原神宮前駅へと向かう参道の右手は久米町。古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による神武東征の論功行賞において、大久米命に与えたとされる地である。久米町の久米御県神社は大久米命を祀った式内社。隣接して古刹、久米寺。久米氏族の氏神と氏寺が町中に並ぶ。

 神武東征において、神日本磐余彦命の側(そば)に在って能く藩屏とされた大久米命の存在がある。大久米命配下は神武東征において皇軍の主力であったとも。
 久米は古代日本の軍事氏族、のちの隼人系の海人とされ、大久米命は黥利目(入墨目)であった。入墨は海人の習俗とされる。橿原における久米氏族の痕跡は神武東征説話の史実性を感じさせる。

 現在の史学は神武東征は内容が神話的であるという、理由にもならぬ理由で神武天皇の実在を否定し、神武東征は史実ではないとする。関西で多くの歴史学者を育てた史学重鎮などは、神武東征説話は高句麗の建国神話に発して創作されたと述べる。


 太平洋戦争終結後、連合国の占領下にあった時代、「WGIP (ウォーギルトインフォメーションプログラム)」と称するGHQによる施策があった。
 この施策は当時の軍国主義の残影を日本から排除し、国民に戦争に対する贖罪意識を持たせることを目的としている。軍国主義に繋がる国家主義的、民族主義的なものをすべて否定する世論操作が行われ、心理戦(洗脳)の手法が使われたといわれる。

 GHQは教育、宗教、芸術などの分野でも国民の意識の再構築を謀り、教育において修身、国史などの授業を停止、教科書から国家主義的なものを排除した。また、民族主義的な歴史文献などが没収(焚書)されている。

 そして、国家の中核にあった20万人が公職追放され、東大や京大などでは教授の交代が行われ、コミュニズム的な人々が抜擢されるなど、旧態解体が行われた。また、第三国人と呼ばれた在日朝鮮人などが、戦勝国人待遇とされて公職など社会的な地位を得ている。(wikipediaなど)

 歴史学においては民族主義的とされる史観はすべて否定、研究者たちの思想は規制され、出版物も検閲を受けている。古事記や日本書紀は史実ではなく、創作されたものとして歴史学の対象から外された。戦後の古代史研究は記紀の否定から始まっている。
 それまでの国家史観に対する信頼は失なわれ、日本人としてのアイデンティティは喪失している。

 万世一系とされた皇統もその断絶を説く歴史学者たちが説を競い、1948年(昭和23年)には応神天皇は大陸からやってきたとする「騎馬民族渡来説」が唱えられ、1952年(昭和27年)には欠史八代の非実在や崇神、応神、継体の「三王朝交代説」などが唱えられた。
 また、戦前の日韓併合を円滑に行うための理論、日韓が同じ先祖から別れたとする日鮮同祖論は韓半島渡来人が日本文化をつくったとする韓国起源論へと変化、韓半島文化の優位性を示す理論とされている。

 このWGIPの存在はGHQ文書の中で公開されている事実。そして、WGIPの実施において主導的な役割を担った新聞社やNHKなどのマスコミや大学、歴史学の学者たち、そして、教育現場。彼らはWGIPの思考を転換できないまま現在に至っているといわれる。

 結果、多くの歴史学者は大和王権の生成は韓半島勢力に依るという思考に固執、そのため、記紀で述べられる南九州における日向三代の国家生成のストーリーや神武東征説話の否定は今だに続いている。


 今、史学はこの国の正史である古事記、日本書紀を真摯に見つめ直し、その記述を検証することが最も必要。記紀神話に投影された史観を復元することで、国家生成の大いなる謎が解ける。

 偏西風が西から東に吹き、黒潮が南から北に流れることで、列島に拘わる事象の主体が南域から東シナ海を北上したのは自明の理。わが国の基層文化は飽くまで南方系のものであった。記紀が述べる南九州を舞台とする国家生成のストーリーが示す意義とはこの国のアイデンティティ。

 

第1話 天照大御神と邇邇藝命。天孫降臨の歴史的意義


 古事記の冒頭において、「天地(あめつち)のはじめ」で始まる天地開闢の折、高天原は天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神(造化三神)の登場に始まり、つづく神代七代の生成の末に二柱の国産みの神、伊邪那岐命と伊邪那美命が生まれる。

 伊邪那岐命と伊邪那美命は矛で混沌をかき混ぜ、大八洲国と多くの島々をつくる(国産み)。そして、二柱の神は多くの神々を生成し(神産み)、最後に天照大神、月読命、須佐之男命の三貴神を生み、天照大神に高天原を治めるように命じる。

 やがて、高天原の天津(あまつ)神によって大国主神が治める葦原中国が平定され、天照大御神と高木神(高御産巣日神)は天忍穂耳命と高木神の娘、万幡豊秋津師比売命との子、邇邇藝(ににぎ)命に葦原の中つ国を統治するため天降りを命じる。
 邇邇藝命の天降りには天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒が従い、さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副えた。
 邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、天忍日命と天津久米命が武装して先導し、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降る。


 記紀神話において、邇邇藝命が降臨した筑紫とは九州のこと。日向とは、古く、南九州の総称。日向より薩摩、大隅が分割されるのは8世紀以降のこと。

 邇邇藝命は高天原から日向の高千穂に天降り、そして、笠沙(かささ)の岬へ到ったとされる。天上から舞い降りたという話はあまりにも非現実的。東アジアの建国神話は王権の神聖さを示すため、天上からの降臨を類型とする。が、舞い降りて笠沙の岬へ到ったのであればリアリティがある。笠沙の岬とは南薩の野間半島。ここは黒潮が洗う域。東シナ海を北上する船団はこの域に辿り着く。
 南九州を舞台とする降臨説話が何らかの史実を投影しているとすれば、東シナ海より南薩への上陸が最も整合性が高いとされる。

 神話は政治的な意図を持って創作されたといわれる。が、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げた訳でも無く、史実を投影して創作されたことも事実であろう。

 史学は日向神話の意義として、記紀編纂の時代、頻繁に叛乱を繰り返す隼人に対し、彼らが王権に服属する理由として、隼人の祖、海幸彦が天皇の祖、山幸彦に服従するという神話の創作に拘わり、南九州を降臨の地とする必要があったとも述べる。が、国家生成の大叙事詩がそのような姑息な意図で構想されるものでもあるまい。


 降臨(上陸)した邇邇藝命は「此の地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の崎まで真の道が通じて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国で良き地である」と述べ、その地に宮処を営む。(古事記)
 笠沙の岬とは南薩、旧笠沙町の野間半島。江戸期の三国名勝図絵に笠砂御崎(かささみさき)と表記される。東シナ海に突出する野間半島は亜熱帯のヘゴが自生し、常緑広葉樹林が広がる。そして、半島中央部には特徴的な山容をみせる野間岳(591m)が聳え、東シナ海航路の目印となっている。

 野間半島の南、リアス式海岸が連なる域に坊津がある。ここは鑑真和上が漂着した港。フランシスコ・ザビエルも初めはここに上陸している。南薩西岸は東シナ海を北上した黒潮が洗う浜。大陸南岸を発して、東シナ海で黒潮にのった船団はこの浜に辿り着く。
 そして、此の地は韓国(からくに)に向かうと謳われる。韓国(からくに)とは唐(から)の国、大陸のこと。笠沙の彼方には長江の河口が広がる。


 邇邇藝命をはじめとする天津(あまつ)神と呼ばれるものは、水田稲作の技術を携えて大陸南岸を発し、南薩に上陸した人々を想起する。

 稲作の起源は約1万年前の長江流域とされる。長江下流域の草鞋山遺跡では約6000年前の水田遺構が発掘され、黄河流域を北限としている。日本の水田稲作はつい最近まで大陸から韓半島を経て北部九州へ伝播したという説が有力だったが、温帯ジャポニカの遺伝子分析において韓半島に存在しない種があり、大陸南岸から直接、列島へ伝わったとされる。

 笠沙の北、金峰町の高橋貝塚は縄文晩期に始まる遺跡。籾痕のある土器や石包丁などが早い時期の稲作の痕跡を示す。古事記や日本書紀が述べる南九州を舞台とした国家生成のストーリーの意義とは古代最大の画期、弥生人による水田稲作の伝播のひとつとも思わせる。また、そんな記憶が天孫降臨の説話を生んだともみえる。

 記紀神話において、降臨(上陸)した邇邇藝命ら天津神が在ったとされる高天原には天ノ安河が流れ、水田が広がって、人間界と変わらぬ暮らしが営まれている。
 素戔男命が乱暴を働く場面では、素戔男命は天照大御神が営む水田の畦(あぜ)を壊し、水を引く溝を埋めてしまう。高天原には水田や用水路があり、天照大御神が新嘗(収穫祭祀)を行う神殿さえ在った。
 高天原を天上界とするのは非現実的。高天原に古く、祖先が在った原郷の記憶が投影されている可能性は否定できない。今、必要なことは古事記、日本書紀を真摯に見つめ直し、その記述の実証を試みること。


 水田稲作の技術を携えて列島に至り、列島本来の縄文人と融合して日本の基層文化をつくった弥生人と呼ばれるものは、大陸南岸から東シナ海を経て渡来した民が主体。稲作は米を作る技術だけでなく生活様式を含めた文化。弥生期の水田稲作域でみられる高床式の建築などは、高温多湿の域から直接、水田稲作が齎された痕跡。

 偏西風が西から東に吹き、黒潮が南から北に流れることで、古く、列島に拘わる事物の主体が、東シナ海を経て渡来したことは自明の理。日本の基層文化は飽くまで南方系のものであった。


 古史によれば、大陸南岸からの民の渡来は幾度にも亙ってあった。BC1000年頃とされる百越(ひゃくえつ)の諸族の渡来。古く、百越と呼ばれる民は江南からベトナムに到る広大な大陸沿岸に在った諸族。かつての長江文明の担い手であった。北方の漢人とは言葉、文化を異とする民で、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、倭人との類似が多いとされる。

 そして、BC473年に春秋期の越に滅ぼされた句呉(くご、こうご)の遺民の渡来があったという。また、BC300年頃には楚に滅ぼされた越(えつ)の民、BC223年には秦に滅ぼされた楚(そ)の遺民の渡来があったとされる。いずれも大陸南岸に在って蛮とされ、北方の漢人に追われた民。

 彼らの渡海は多岐にわたる。東シナ海で黒潮に流されて九州南岸へと渡った民、また、対馬海流に乗って北部九州沿岸へ到った民も。その一部は韓半島南岸にも辿り着く。そして、有視界で航行、北上する黒潮に沿って弧を描く南西諸島を島伝いに移動して、南薩へ上陸した民もいたのであろう。

 南西諸島において、水が豊富な久米島などでは古い時代より水田稲作が行われて、沖縄、宜野座村では縄文晩期の天水田らしき遺構も報告されている。

 

(追補)天照大御神とアマミキヨ(アマミク)。高天原神話の考証


 民俗学者、柳田國男は著作、「海上の道」において、日本文化の基層が南方由来であることに着目し、弥生稲作が大陸南域から南西諸島を島伝いに北上したと述べて、日本人の起源を琉球をはじめとする南西諸島の習俗や信仰と絡めながら解き明かそうとした。

 記紀神話と琉球神話の比較において、琉球の創世神話、アマミキヨ、シネリキヨの兄妹神が日神から命じられて降臨し、国づくりをする説話などは伊邪那岐命、伊邪那美命神話の異体であり、記紀の開闢(かいびゃく)神話は琉球神話を中間に置いて、南方の創造型神話と関連するといわれる。

 琉球神話の女神、アマミキヨ(アマミク)は島々をつくり、稲を齎した神、その子孫は天孫氏として琉球王となる。日本人の氏神とされる天照大神も神田の稲を作り、新嘗祭を行う。その子孫は天皇として列島を統治する。天照大神(アマテラス)とアマミキヨ(アマミク)は多くの共通点をもち、その関係は興味深い。

 そして、日本の神社祭祀の原初を琉球や南西諸島に求める説がある。琉球の御嶽(うたき)は神籬(ひもろぎ)の形態で、自然の聖域を拝する場。琉球では村ごとに御嶽があり、祖霊や守護神が宿るとされて、祭祀は司祭である神女「ノロ」によって行われる。本土の神社の原初も自然崇拝の神籬の形態であり、村ごとに氏神を祀り、古く、巫女が神託を伝える神女であった。神社における氏神と氏子の関係は、琉球の御嶽の神と住民が血縁関係である姿を投影しているともみえる。

 また、琉球の最高聖域、旧知念村の斎場御嶽(せーふぁうたき)はアマミキヨの創祀で、琉球の国家祭祀とされる。そして、神女、ノロの最高位、聞得大君(きこえおおきみ)が祭祀を行う。伊勢神宮においても、倭姫命を斎王として創祀され、古く、祭祀を斎王が行っていた。琉球の御嶽祭祀の構造と重なる。

 御嶽は男子禁制で、聞得大君は琉球王の姉妹から選ばれ、琉球王兄妹による治世が行われた。琉球の基本概念として、姉妹はその兄弟の守護神である「おなり神」の信仰があり、姉妹は兄弟のおなり神として神格化される。
 おなり神の信仰やノロの存在は女性優位や母系社会の痕跡とされ、魏志倭人伝に記された邪馬台国の女王、卑弥呼が鬼道を行い、弟が佐けて国を治める話を彷彿とさせる。琉球や南西諸島には日本の古代世界の象徴、母性原理の文化が色濃く遺っている。


 そして、南西諸島の民間伝承とポリネシア神話などの比較において、南西諸島の伝承が記紀神話より古い形を遺し、オオゲツヒメや海幸山幸モチーフにおいて、記紀神話に無いエピソードが南西諸島に遺されるという。
 また、南西諸島の考古において、宮古、八重山諸島などは台湾東部と同じ文化圏を形成して、フィリピン周辺と類似する貝斧などが出土して、南西諸島の文化の南方由来を実証する。

 これら琉球や南西諸島の民俗学的な事象は記紀神話における天津(あまつ)神と呼ばれる存在が、大陸南域、東南アジア、ミクロネシアなど、多岐に亘る民が琉球や奄美をはじめとした南西諸島あたりで集団化、独自の文化を派生させたとも思わせる。
 黒潮が南から北に流れることで、古く、列島に拘わる事象の主体が南域から南西諸島を北上したことは自明の理。日本の基層文化は飽くまで南方系のもの。

 国生み神話において、高天原に在った伊邪那岐命と伊邪那美命の二神は淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の大八洲国を生み、続けて児島、小豆島、周防大島、姫島、五島列島、男女群島の島々を生む(古事記)。高天原が実在の地を象徴しているのであればこれらの域外。当に、琉球、奄美をはじめとした南西諸島あたりは相応しい。それとも、彼らの原郷である大陸南岸、東南アジア沿岸、ミクロネシアの島々など、それぞれの域を投影するのかも知れない。

 日本語は独自に発展した言語とされる。が、比較言語学において音韻体系や語彙の類似に依り、日本語の起源を南方系のオーストロネシア語族とする説がある。その域は台湾を始め、東南アジア沿岸、ミクロネシアの島々とされる。

 

第2話 邇邇藝命と木花之佐久夜比売(阿多都比売)。阿多海人の考察


 考古学以外の史学の周辺領域を考えた場合、古文献や地方神話、神社縁起などといったもので、第一の資料は必然に口碑であろう。
 地域に伝わる口碑をそのまま歴史解釈とはできぬが、史学の外に置くべきかの判断のためにも、記紀神話に最も適合する地域の口碑を軸に考察していきたい。


 記紀神話において、笠沙に在った邇邇芸命は大山祇神の女(むすめ)、阿多都比売(あたつひめ、木花之佐久夜比売)と出会って求婚する。阿多は旧阿多郷(南さつま市金峰町)、阿多都比売とは阿多のヒメの意。そして、邇邇芸命はこの地で阿多都比売と笠沙の宮を営む。

 野間半島の東、加世田の万之瀬川の左岸、宮原の丘陵に笠沙の宮跡がある。御座屋敷とも呼ばれる地に二段の広場があり、その奥に笠狭宮跡の碑が建つ。
 付近には古代祭祀の跡とされる磐境が遺され、前方、竹屋ヶ尾は阿多都比売(木花之佐久夜比売)の火中出産の地と伝承される。そして、万之瀬川を隔てた対岸は阿多都比売の本地、旧阿多郷。また、万之瀬川の下流域には太古の水田稲作の痕跡を遺す前述の高橋貝塚の所在がある。


 神話において、木花之佐久夜比売は一夜で身篭り、邇邇芸命が国津神の子ではないかと疑ったため、木花之佐久夜比売は誓約をして産屋に火を放ち、その中で火照命、火須勢理命、火遠理命の三人の御子を産む(古事記)。
 兄弟のうち、三男の火遠理命(ほおり)が海幸山幸説話における山幸彦の彦火々出見尊(ひこほほでみ)。長男の火照命(ほでり)が、のちの隼人の阿多君の祖とされる海幸彦である。

 この域の伝承では邇邇藝命は晩年、木花之佐久夜比売と海路を北上して、薩摩川内へ移り、そこで没したとされる。薩摩川内の中枢、神亀山には邇邇藝命の可愛山陵(えのやまのみささぎ)と木花之佐久夜比売の端陵(はしのみささぎ)が遺される。


 降臨(上陸)した邇邇芸命がこの国でまず行ったことは、大山祇神の女(むすめ)を妻に迎えること。この国で最も重要な神が大山祇神であった。神話や伝承において、大山祇神は多くの神々の親神とされ、素戔嗚命の妻となる奇稲田姫の祖父であり、伊予、大三島の大山祗社では天照大神の兄神ともされる。
 大山祇神(オオヤマツミ、大山津見神)とは大いなる山神の意。別名の和多志大神の「ワタ」とは海のこと、すなわち、この列島の山と海、すべてを司る神。また、大山祇神は里に在って、恵みを齎す田の神ともされる。大山祇神を祀る社は系列に拘らず全国に分布して、その数は一万社を越えるともいわれる。
 その茫洋とした神格は海神、豊玉彦命や国土神、大国主命など、他の国津神たちとはニュアンスを異としている。

 大山祇神とは在地の地主神として、渡来の民(弥生人)によって象徴化された神格ともみえる。そこには縄文の流れをくむものに対する渡来の人々の畏怖が感じられる。在地の民との融合の象徴として邇邇芸命が阿多のヒメを妻に迎え、そして、この地の山海を司る神の女(むすめ)とすることで、列島古来のものに敬意を示したとも思わせる。
 筆者が住む九州北部でも山中の神妙な場所には、必ずといってよいほど大山祗神が祀られている。それは、小祠(ほこら)であったり、時には大岩などの神籬(ひもろぎ)の形態であった。当に、縄文以来の祭祀。南九州では縄文と弥生文化の重なりが極めて長いといわれる。

 そして、記紀神話は天孫、邇邇藝命から御子の彦火々出見命(ひこほほでみ、山幸彦)、孫の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)へと到る。日向三代と呼ばれる悠久のストーリー。南九州を舞台として、この国の生成を大らかに謳う。

 

(追補)南九州は南方海人の坩堝。


 記紀神話において、大山祇神は邇邇芸命に姉の石長比売(磐長姫)と妹の木花之佐久夜比売を嫁がせる。が、邇邇芸命は醜い石長比売を帰し、美しい木花之佐久夜比売とのみ結婚する。木花之佐久夜比売は天孫の繁栄の象徴とされ、石長比売は天孫の長寿の象徴とされて、石長比売が帰されたために天孫(天皇)は短命になったといわれる。この説話は「バナナ型神話」と呼ばれ、東南アジアに類型がみられるという。

 また、南薩沖に浮かぶトカラ列島では家の傍に草や竹で編んだ産屋を建て、そこで出産する産屋出産の風習が遺り、産後は産屋に火を放ったとされ、当に、木花之佐久夜比売の火中出産を思わせる。そして、その原初はやはり、東南アジアにあるといわれる。南薩には東南アジア由来の民が在った。

 そして、邇邇芸命の御子、火遠理命(ほおり)と火照命(ほでり)の説話、海幸山幸のストーリーは南洋の神話をルーツにするといわれ、釣針を失う説話はインドネシアのケイ諸島やミクロネシアのパラオ島の神話に酷似するとされる。降臨(上陸)した天津(あまつ)神と呼ばれる氏族の構成には大陸沿岸や東南アジアのみならず、ミクロネシアなど南洋由来の民の存在まで在ったと思わせる。神話の舞台、太古の南薩あたりは東シナ海に面して南方海人の坩堝であったようだ。

 

(追補)阿多海人の系譜


 邇邇藝命と木花之佐久夜比売の子、火遠理命(ほおり、彦火々出見命)が海幸山幸説話における山幸彦で、火照命(ほでり)が海幸彦であった。

 神話において、海幸山幸の兄弟はそれぞれの猟具を交換し、山幸彦は漁に出て海幸彦の釣針を失くす。海幸彦に釣針を返せと責められ、困り果てた山幸彦は塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮へ赴き、海神の女(むすめ)、豊玉姫に失った釣針と潮干珠、潮満珠を与えられる。
 山幸彦はふたつの珠の霊力で海幸彦をこらしめ、海幸彦は山幸彦(彦火々出見命)に忠誠を誓い、隼人の阿多(あた)君の祖となる。

 薩摩半島西岸、金峰町の阿多(あた)郷は海幸山幸の説話にいう隼人の阿多君の本地とされる。

 縄文晩期から弥生、古墳期にかけて、琉球や奄美産のゴホウラ、イモガイなどの貝輪が西日本域で出土する。その時代、貝輪は邪を払う呪術として珍重され、南西諸島から九州西岸を経て、北部九州や山陰、瀬戸内にまで齎され、「貝輪の道」と呼ばれる交易ルートを想定させる。

 金峰町の高橋貝塚は縄文晩期に始まる貝塚。籾痕のある土器や石包丁などの出土が早期の稲作を示し、鉄鏃など最古級の鉄器が出土して、南九州の文化様相を明らかにした。この貝塚から加工途中の貝輪が大量に出土して、阿多が琉球や奄美産の貝輪の加工、交易の拠点であったことを示した。

 海幸彦に由来するのちの阿多隼人とは海人。そして、この海上の交易ルートは、阿多を基点として南西諸島から北部九州まで潮流にのって自在に移動した太古の海人集団を想起させる。

 阿多海人が系譜的に九州西岸を北上した痕跡がみえる。葦北の阿弭古(あびこ)とは阿彦。葦北は阿多海人の地ともされ、対岸の天草には阿村の存在。「阿」の名を冠する港は、古く、天草第一の港であった。阿多海人の系譜が九州西岸、八代海を経て有明海に繋がっている。
 有明海沿岸で祭祀される與止日女(よとひめ)や玉垂神は豊玉比売由来の潮干珠、潮満珠に纏わる海神とされ、有明海の最奥、吉野ヶ里遺跡の弥生中期の甕棺墓からは腕に36個もの貝輪をつけ、絹の衣を着けたシャーマンとされる女性の骨も見つかっている。何よりも、魏志倭人伝が描く邪馬台国の習俗は、黥面文身など南方系海人のものであった。

 

第3話 彦火々出見命と豊玉姫命。枚聞の海人集団の考察


 野間半島の東の海岸に「仁王(二王)崎」がある。ここは山幸彦と海幸彦が猟具を交換し、釣針を失った山幸彦が塩椎神(しおつち)に教えられて、綿津見の宮に赴いた浜と伝承される。また、枕崎は山幸彦が無間勝間の小舟に乗って初めに着いた浜。枕崎の旧名、鹿篭(かご)はそれに由来するといわれる。

 神話において、山幸彦は潮路にのって枚聞の綿津見の宮(龍宮)に到り、海神、豊玉彦命のもてなしを受ける。そして、綿津見の宮で3年ほど過ごし、豊玉彦命の女(むすめ)、豊玉姫命に失くした釣針と潮盈珠、潮乾珠を貰って戻り、ふたつの珠の霊力で海幸彦を懲らしめる。海幸彦は山幸彦(彦火々出見命)に忠誠を誓い、のちに隼人の阿多君の祖となる。


 南薩、指宿の開聞岳北麓に薩摩国一宮、「枚聞神社(ひらきき)」が鎮座する。朱垣に囲まれた神域に島津義弘が再興した朱塗りの社殿群が佇む。神代の創祀ともされ、大日霊貴命(天照大御神)を主祭神として、天之忍穂耳命など五男三女神を配祀する。が、古史は祭神を枚聞(ひらきき、開聞)神として、南薩の総氏神、開拓祖神であるとする。
 枚聞神社は開聞岳を神体として、山頂には奥宮とも思われる御嶽神社が鎮座する。参道から望むと拝殿の後背に開聞岳が聳え、山体を遥拝する配置になっている。

 開聞岳は薩摩半島南端、鹿児島(錦江)湾の湾口に聳える標高924mの火山。美しい円錐形の山容から薩摩富士とも呼ばれる。東シナ海に突出して、古く、航路の目印ともされた。枚聞(ひらきき)とは「開聞(かいもん)」の読み。「かいもん」とは、即ち、鹿児島(錦江)湾の海門の意とされる。

 また、古伝では枚聞神社は和多都美神社とも称される。和多都美(わたつみ、綿津見)神とは海神、豊玉彦命。伝承ではこの宮は海幸山幸の神話において、山幸彦が訪れた海神の宮、龍宮とされ、傍の玉ノ井には海神の女(むすめ)、豊玉姫命と彦火々出見命(山幸彦)の婚姻伝承が遺される。

 枚聞(ひらきき)神祭祀とは、古く、開聞岳を神体とする航海神として、海神、和多都美(綿津見)神を祀っていたものを明治の神社整備の際に皇祖を祭神にしたといわれる。


 綿津見神を祀る社の総本社は博多湾口に浮かぶ志賀島(しかのしま)の志賀海神社とされる。志賀海神社は古代海人氏族、阿曇氏(あづみ)の祭祀で、阿曇氏の氏神として綿津見神を祀る。そして、阿曇氏は日本海沿岸に「越(えつ)」の故名を残し、航海に優れた大陸南岸の越人に由来するといわれる。
 また、阿曇氏は「鹿」トーテムの氏族とされ、志賀海神社には鹿角堂があり、鹿の角が奉納される。鹿トーテムの越人とは、永遠の地へ鹿に導かれた台湾のサオ族や、美しい娘となった鹿と結ばれて繁栄した海南島のリー族など、大陸南域に多くの「鹿」の伝承を遺した民の流れ。(鹿トーテムの海人。参照)

 而して、枚聞神社にも「鹿」の伝承が遺される。孝徳天皇の時代、開聞岳の麓で鹿が美しい姫を産む。その姫は入京し、十三歳で召されて天智天皇の妃となる。そして、姫には鹿のひずめがあったとされる(大宮姫伝承)。鹿児島とは鹿の子の島。鹿屋に鹿ノ子、当に、鹿だらけ、鹿児島の名の由来。

 枚聞神社で和多都美神(綿津見神)を祭祀する民とは、阿曇氏と同じ流れ、越人の裔ともみえる。BC数100年、「百越」の列島への渡来、また、BC300年頃には楚に滅ぼされた春秋期の「越(えつ)」の遺民の渡来があったとされる。南薩沿岸は東シナ海を北上する黒潮が洗う浜。大陸南岸を発し、東シナ海で黒潮にのった船団はこの浜に辿り着く。


 そして、彦火々出見命(ひこほほでみ)は枚聞で豊玉姫命と結ばれる。枚聞は彦火々出見命に与した海人の里。やがて、彦火々出見命は枚聞の海人を率いて鹿児島(錦江)湾を北上、湾奥の国分平野に上陸して、神話にいう高千穂宮を営む。神日本磐余彦命(神武天皇)に繋がる日向三代のストーリーは佳境。

 

(追補)鹿トーテムの海人。


 博多湾の湾口に浮かぶ金印の島、志賀島(しかのしま)は古代の海人族、阿曇氏(あづみ)の本拠とされる。そして、志賀海神社には阿曇氏が奉祭する海神、綿津見神(わたつみ)が祀られる。玄界灘沿岸は古代より大陸との交流が深く、志賀島はその海路を見守る神として神格化されたという。

 志賀海神社には鹿角堂があり、鹿の角が奉納される。釣りに使う鈎は太古、鹿の角でつくられ、志賀島の海人たちは鹿の角を貴重とし、祈願成就の折に鹿の角を奉納したとも。

 常陸の鹿島神宮も「鹿」を神使とする。祭神は国譲りにおいて、天孫に先立って降臨した神、武甕槌命(たけみかづち)。社伝では天照大御神の命を、鹿神の天迦久神が武甕槌命へ伝えたことに由来するという。また、藤原(中臣)氏による春日大社の創建に際し、祖神の武甕槌命の神霊を白鹿の背に乗せ、一年をかけて奈良まで運んだとされる。ゆえに春日大社でも鹿は神使とされる。

 八幡愚童訓に「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて」とある。磯良とは阿曇磯良で阿曇氏の祖神とされる。この磯良が藤原(中臣)氏の祖神、武甕槌命と同一であるという。藤原氏は阿曇氏の流れであるらしい。志賀島と鹿島神宮、春日大社の「鹿」の信仰がここで繋がる。

 潮流にのって移動する鹿トーテムの海人は、黒潮の道がつきる浜、常陸まで到ったとみえる。常陸の「鹿島」も鹿ノ子の島由来であった。


 福井の鳴鹿という里に鹿の伝承がある。新田を造りたいと春日の神に祈願したところ、白鹿が現れ、その地に堰を作って鹿が導く跡に溝を掘って田に水を流したという。
 奥州、毛越寺にも鹿の伝承がある。奥州、藤原氏全盛の頃、慈覚大師がこの地で道に迷う。が、大師は白鹿に導かれ、到った地に堂宇を建立したという毛越寺の縁起。いずれも藤原氏と拘わる。

 大陸にも鹿の伝承がある。北方の如寧古塔呉姓が祀る鹿神は女狩人が神の力によって鹿となり、氏族の守り神とされるなど、満洲族の多くが鹿神を氏族の守護とする。また、台湾のサオ族の祖先は白鹿に導かれて美しい日月潭に辿りつき、神から与えられた地として移住する。海南島のリー族は鹿を追って海南島の中心、三亜へと到って繁栄する。

 大陸の鹿信仰には二通りの系統がある。ひとつは満洲族など北方狩猟民族のもの。鹿に霊力があり、鹿を氏族の守護神とする信仰。そして、大陸南岸の信仰は鹿を神の使い、導きの神とする。鹿島神宮、春日大社など鹿を導きの神とする藤原氏の伝承は、大陸南岸の信仰に依るとみえる。


 「越」の中枢、能登を中心に阿曇海人がその氏族名や鹿(しか)由来の地名、そして、綿津見神祭祀を遺している。能登の志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿頭、鹿波。そして佐渡の鹿伏など。阿曇氏は日本海沿岸に展開し、氏族の故名、「越」の名を遺している。

 大陸南岸からの「越」の民の渡来は幾度にも亙ってあった。BC1000年頃とされる「百越(ひゃくえつ)」の諸族の渡来。古く、百越と呼ばれる民は江南からベトナムに到る広大な大陸沿岸に在った諸族。また、BC300年頃には楚に滅ぼされた「越(えつ)」の遺民の渡来があったという。いずれも大陸南岸に在って蛮とされ、北方の漢人に追われた民。

 

(追補)枚聞海人の墳墓、立石土坑墓。


 開聞岳の西麓、山川町の成川遺跡は弥生期から古墳期の埋葬遺跡。100を越える土坑墓(どこうぼ)から350体もの人骨が発見されている。ここで長い自然石を立てた特徴的な墓制、「立石土坑墓」が発見されている。また、開聞岳に連なる枕崎、花渡川河口に松ノ尾遺跡が在り、同じく土坑墓群が発見されている。
 南薩のこの域の生活文化には強い地域性が指摘され、この独特の墓には鉄剣、鉄刀、鉄鏃などが副葬され、枚聞で綿津見神を祭祀する海人集団の墓制とも思わせる。そして、鹿児島湾の最奥、国分平野の中央、亀ノ甲遺跡からも同じ土坑墓が検出されている。彦火々出見尊が枚聞の海人を率いて鹿児島(錦江)湾を北上、上陸して高千穂宮を営んだとされる地である。

 

第4話 彦火々出見命から鵜葺草葺不合命へ。日向三代ストーリーの実証


 綿津見の国、枚聞で綿津見神の女(むすめ)、豊玉姫命を娶った彦火々出見命は枚聞の海人を率いて鹿児島(錦江)湾を北上、国分平野に上陸して神話にいう高千穂宮を営む。
 やがて、彦火々出見命と豊玉姫命は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)をもうける。出産の際に豊玉姫命が産屋を覗かぬように告げるが、彦火々出見命は産屋を覗き、豊玉姫命の本性が八尋和邇(やひろわに)であることを知る。それを恥じた豊玉姫命は綿津見の国(枚聞)へと帰る。
 彦火々出見命は高千穂宮で過ごし、久しくして崩じ、高千穂山の西に葬られたという。北西、溝辺の地には彦火々出見命の陵墓、高屋山陵が遺される。


 鹿児島(錦江)湾奥、旧隼人町に鎮座する大隅国一宮、鹿児島神宮は彦火々出見命と豊玉姫命を主祭神とする。創祀は遠く神代とされ、社伝では神武天皇の代に彦火々出見命の宮処であった高千穂宮を社(やしろ)にしたと伝わる。南九州の中枢ともされる国分平野の日向山と呼ばれるシラス台地の麓に鎮座する。

 まっすぐに延びた参道に朱塗りの大鳥居が聳える。神域の入り口には三之社の3つの祠。境内に入り、石段を上りつめると南向きに社殿群が鎮座する。漆塗りの社殿群は宝暦6年(1756年)に、7代薩摩藩主、島津重年により再建されたもの。社殿群前方には鹿児島(錦江)湾がひらけ、桜島が噴煙を上げている。その向こうは南西諸島が連なる東シナ海。

 境内には豊玉彦命を祀る雨之社、武内宿禰の武内神社、大山祇命の山神神社など、14の摂末杜が祀られる。特筆すべきは神域入口の三之社。一ノ社に豊姫命と安曇磯良、二ノ社は武甕槌命と経津主命、三ノ社には火蘭降命(阿多君の祖)と大隅命、隼人命と興味深い祭神群が神域の外に訳ありげに祀られる。

 社地の奥に鎮座する石體神社(しゃくたい)は鹿児島神宮の元宮ともいわれ、高千穂宮の跡とも伝承される。彦火々出見命を祀り乍ら、神体を石(石像)として、謎めいた雰囲気を漂わせている。古く、彦火々出見命祭祀以前の土着の神を祀っていたとも。傍からは縄文早期の貝塚が検出されている。


 神話において、彦火々出見命と豊玉姫命の御子の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)は叔母の玉依姫命に育てられ、のちに玉依姫命との間に四子をもうける。その末子が神日本磐余彦命(神武天皇)とされる。

 鵜葺草葺不合命の宮処は西洲(にしのしま)の宮とされ、大隅、志布志湾に面した肝付の桜迫神社がその旧跡と伝承される。神日本磐余彦命の生育の地ともいわれ、「神代聖蹟西洲宮碑」が建つ。
 鵜葺草葺不合命はこの宮で崩じて、姶良川上流の吾平山上陵に葬られたという。また、鵜葺草葺不合命は日向、日南の鵜戸神宮にも祀られ、鵜戸神宮後背の速日峯上にも吾平山上陵参考地が在る。

 

(追補)太伯説話の謎。


 古記に鹿児島神宮には呉(句呉)の祖とされる太伯(たいはく)を祀ると記される。太伯とは古代中国の伝説上の人物。太伯説話によると、周王の長子であった太伯は英明とされた末弟に王位を譲るべく南に去り、自ら文身、断髪して蛮となり、後継の意志が無いことを示す。文身(刺青)、断髪とは海人の習俗。

 やがて、太伯は長江下流域に国を興し、句呉(くご、こうご)と号す。荊蛮の人々がこれに従がい、のちに「呉」を称す。春秋末期、長江下流域で呉と越は抗争を繰り返し、BC473年、呉は越に滅ぼされ、呉の遺民は海沿いに逃れたという。そして、倭人を太伯の子孫とする説がある。東夷伝などに倭人は「自謂太伯之後」と記される。

 海幸山幸説話において、邇邇藝命の三柱の子神のうち、末子の彦火々出見命が王権を継ぎ、長子の火照命が隼人(海人)の祖となる話や、神日本磐余彦命(神武天皇)が鵜葺草葺不合命の末子であることが、末弟に王位を譲って海人となる太伯説話の投影ともみえ、古代王権における末子継承の由来とも思わせる。

 3世紀の倭国において、邪馬台国と対峙していたとされる狗奴国(くな)の存在がある。大宰府天満宮に伝わる国宝、唐の類書、翰苑(かんえん)は「女王国の南の狗奴国は、自ら太伯の後であると謂った」と記す。
 南九州に在った句呉(く、こう)の裔が、列島本来の民と同化、中南九州において、同じ狗(く)の名をもつ集団、狗奴国を建国したとも思わせる。また、隼人など中南九州の民が狗(く)人とも称される訳もそれに由来するのであろうか。

 最も秀逸な弥生土器とされる免田式土器(重孤文土器)が蛮夷とされる熊襲の地に分布し、熊襲の本地、球磨(くま)の免田から3世紀の江南で鋳造された秀品、鍍金鏡が出土する訳、また、大陸王侯の象徴、玉璧(へき)が日南の串間から出土する意義も、太伯に由来するとも思わせる。免田式土器は金属器を模倣した土器ともいわれ、その起源は江南にあるという。

 そして、神武東征を九州中南の狗奴国に拘わる勢力の東遷、王権樹立を投影するという説が、東夷伝などに倭人が呉の祖、太伯の後裔であると記される訳とも思わせる。

 鹿児島神宮の由緒は神日本磐余彦命が東征に先だち、皇祖発祥の地として祭祀したと記す。鹿児島神宮は本殿、拝殿の前に勅使殿が置かれる独特の造り。勅使殿とは皇室の使者を迎える場。鹿児島神宮には2回に亘る昭和天皇の行幸をはじめ、勅使、皇族の参拝は20回以上に及ぶといわれる。

 

第5話 神日本磐余彦命のストーリー。国家生成への軌跡


 邇邇藝命に始まる日向三代の説話は南薩から南九州を北上している。邇邇芸命と阿多都比売の御子、彦火々出見(ひこほほでみ)命は綿津見の国、枚聞で海神の女(むすめ)、豊玉比売命を娶り、枚聞の海人を率いて鹿児島(錦江)湾を北上、湾奥、国分平野に上陸して高千穂宮を営む。
 豊玉比売命は高千穂宮で鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命を産み、鵜葺草葺不合命は豊玉比売命の妹、玉依比売命との間に四子をもうける。その末子が神日本磐余彦命(神武天皇)とされる。この国の生成を象徴する皇祖のストーリー。


 彦火々出見命が高千穂宮を営んだという国分平野の北東に高千穂峰が聳える。霧島山群の南端に聳えるこの成層火山は御鉢(おはち)と二ツ石の寄生火山を東西に従えた美しい山容をみせる。邇邇芸命の降臨伝承を遺し、南九州を象徴する峰とされる高千穂宮の名称由来。

 その高千穂峰の北東麓、諸県の高原町あたりに神日本磐余彦命の伝承は濃い。高原町の狭野(さの)地名は命の別名、狭野命に由来し、神日本磐余彦命を奉斎する狭野神社が鎮座する。上手(かみて)の皇子原は命の生誕地とも伝承され、皇子原社の旧跡を遺す。そして、神日本磐余彦命はこの地から日向、宮崎へ遷ったと伝承される。


 高原町あたりは霧島火山群の東麓に位置し、噴火の影響を最も受ける域。狭野神社は古く、皇子原に鎮座していたが6世紀の噴火により下手(しもて)に遷ったとされる。その後も延暦7年、文暦元年、享保3年と3度も社殿を焼失するほどの噴火に見舞われている。
 この域の伝承において、神日本磐余彦命が日向、宮崎へと遷る訳とは霧島火山の噴火災害から逃れるためとも思わせる。

 日向三代の伝承が南薩から南九州を北上する訳とは、南九州域で噴火をくり返す火山群に因るとも思わせる。南薩、開聞岳は2世紀の大噴火以降、数度の噴火が記録され、9世紀の噴火では村落が放棄されている。桜島に至っては有史以来、30回以上の大規模噴火が記録されている。

 そして、南九州全域にシラス台地が分布する。シラスとは火山噴出物の重層。透水性が高いため雨に脆く、また、土壌は栄養分に乏しいため水田稲作には不向きであった。 日向三代や神日本磐余彦命は火山災害から逃れ、水田稲作に適した肥沃な地を求めて南薩から日向へと北上したとも思わせる。


 やがて、諸県の民を率いた神日本磐余彦命は宮崎へと遷り、日向を統治したと伝わる。宮崎の西方、金崎の大崎山には神日本磐余彦命が狭野より宮崎へ遷る折、山上より東方を望んだとする伝承が遺される。

 宮崎の地名は神日本磐余彦命の宮処の所在に由来し、市街域の皇宮屋(こぐや、皇宮神社)がその旧跡とされる。神日本磐余彦命は皇宮屋で兄の五瀬(いつせ)命と東征の戦略を立てたと伝わり、傍には「皇軍発祥の地」の碑が建つ。
 皇宮神社には神日本磐余彦命と日向妻の吾平津(あひらつ)媛、子の手研耳(たぎしみみ)命が祀られ、宮崎の人々は神日本磐余彦命を神武さまと呼んで篤く奉斎する。

 その皇宮屋の東に宮崎神宮が鎮座する。神日本磐余彦命の旧跡を子孫の建磐龍命(たけいわたつ、阿蘇主神)が祭祀し、景行天皇が社殿を造営したと伝わる。皇宮屋から宮崎神宮のあたりは皇軍の拠点であったという。


 弥生期の考古において、日向には青銅器が無く、遺構も少ないため、弥生文化の空白域ともいわれる。史学は当時の日向に軍事力を伴う勢力があった可能性は無いとして、日向より発したとする神武東征を否定する。

 皇宮屋の大淀川対岸、跡江の弥生後期の墓域からこつ然と鉄鏃や鉄剣などの鉄製武器が出土している。また、小規模な墓域しか無かったこの域に、その時代、大規模な墳墓群が現れ、有力者のものとされる周溝をもつ大型墳墓も検出されている。これら弥生後期の画期が神日本磐余彦命説話の痕跡とも思わせる。

 

(追補)神日本磐余彦命の大義。


 桜島は日々、噴煙をあげ、巨大な霧島の火山群は空を灰で覆っていた。南九州は安住の地ではなかった。

 日向三代の伝承が南薩から南九州を北上する意義とは、南九州域で噴火をくり返す火山群に因るとも思わせる。南薩、開聞岳、桜島、霧島火山群、共に有史以来、度重なる大規模噴火が記録されている。
 そして、南九州全域にシラス台地が広がる。シラスは火山噴出物の重層。雨に脆く、土壌は栄養分に乏しいため水田稲作に不向きであった。日向三代や神日本磐余彦命の伝承は火山災害から逃れ、水田稲作に適した肥沃な土地を求めて南薩から日向へと北上している。

 また、南薩から九州西岸を北上すれば、(のちの時代の)狗奴国をや相克する邪馬台国など、九州北半の強力な国々の存在があり、そこは戦いに明け暮れる域であった。


 神日本磐余彦命は日向、宮崎へと遷るが宮崎も安住の地では無かった。宮崎周辺も不毛なシラス台地が広がり、水田適地は少ない。
 そして、塩土老翁(しおつちのおじ)は遙か東方に美しき青山が四方に周り、稲がたわわに実る楽土が広がると語る。

 日向、一ツ瀬川流域台地からは弥生中期の瀬戸内海沿岸の土器が出土して、日向と瀬戸内を結ぶ海上ルートの存在を想起させる。また、畿内で造られた弥生後期の庄内式土器も検出されている。
 瀬戸内海沿岸や畿内には水田稲作に適した地が広がるという情報は弥生後期の日向に齎され、また、畿内に鉄の文化は未だ無く、脆弱な青銅の武器しか無いという情報も伝わっていたであろう。

 やがて、神日本磐余彦命は肥沃で平穏な地を求めて畿内あたりに遷ることを選択する。
 何よりも、この大八洲(おおやしま)を平定し、統治するための適地へ遷ることは神日本磐余彦命の大義であり、それは、邇邇藝命以来の天津(あまつ)神たちの大いなる思いでもあった。

 

第6話 神日本磐余彦命と久米氏族。神武東征の実証


 神話において、日向に在った天照大御神の五世孫、神日本磐余彦命はこの国を治めるため、塩土老翁が語った東方に在る青山四方に周る美しき地を宮処とすべく、皇子たちと舟師(水軍)を帥(ひき)いて日向を発する。


 弥生期の考古において、日向は不毛の地、空白域ともされる。青銅器は無く、墓域も小規模なものしか検出されない。史学は弥生期の日向に軍事力を伴う勢力があった可能性は無いとして、日向より発したとする神武東征説話を否定する。
 が、弥生後期の日向中枢、一ツ瀬川流域に大量の鉄製武器を集積した大規模な遺跡がこつ然と現れる。日向、児湯(こゆ)郡の川床遺跡である。

 川床遺跡は一ツ瀬川の中流域左岸、台地上に位置する日向最大の弥生墓域。弥生後期の円形周溝墓や方形周溝墓、土壙墓などの墓域より、鉄鏃(てつぞく)を中心に刀剣類など100点近い鉄製武器が検出された。
 弥生後期の列島において、鉄製武器の出土は火(肥)の菊池川流域、方保田東原遺跡や大津の西弥護免遺跡、阿蘇の狩尾遺跡群などが卓越している。そして、次に出土が多い遺跡としてこの日向、児湯の川床遺跡が指摘される。

 川床遺跡の一ツ瀬川対岸に鎮座する都萬(つま)神社は日向国総社ともされ、日向に降臨したとされる天孫、邇邇藝命夫妻を奉斎して、周辺に旧跡を散在させる。
 後背の台地には日本最大級の西都原古墳群が広がり、4世紀初頭に始まる300基以上の古墳が犇(ひし)めく。また、律令期にはこの地に日向国府が置かれ、日向の中枢ともされている。古く、この地は特別な域であった。


 そして、この域には神日本磐余彦命(神武天皇)の伝承が濃い。妻(都萬)の下流域、佐土原の西に広がる丘陵は佐野ノ原と呼ばれる。佐野とは狭野、神日本磐余彦命の別名、狭野命に由来する。

 また、川床遺跡の所在、児湯郡新田には彦火々出見命の濃い伝承が遺る。新田の鎮守、新田神社は彦火々出見命を祭神とし、古く、彦火々出見命は一ツ瀬川の対岸、佐土原から新田の舟津に渡り、御仮屋の地に行宮を設けたと伝承される。
 「彦火々出見命、ひこほほでみ」とは邇邇藝命の御子、火遠理命(ほおり、山幸彦)のこと。が、神武天皇の「諱、いみな」が彦火々出見命であった。孫が祖父と同じ名とされる。児湯の彦火々出見命とは神日本磐余彦命のこと。皇統の古い伝承においては、「諱、いみな」が使われる。

 日向、児湯にみえる神日本磐余彦命の濃い伝承と特異な集団の痕跡。弥生後期の日向において、鉄製武器を大量に集積した域とは、当に、神日本磐余彦命が群臣を帥(ひき)いて東征へと発したとされる地に相応しい。
 児湯郡新田の伝承において、神日本磐余彦命が行宮を設けたとされる成法寺の御仮屋の地は、古く、「やまと、大和」と呼ばれたと伝承され、いまは新田大和の字名や大和池などにその名を遺している。

 辛酉の歳、一月、この国を治めるために日向より東行した神日本磐余彦命は畝傍山の東南、橿原宮で践祚(即位)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を称する。そして、神日本磐余彦命はその日下(ひのもと)の地に自身が発した日向、児湯の宮地に由来して「やまと、大和」の称(よびな)を付したとも思わせる。

 日向中枢、宮崎やこの一ツ瀬川流域、児湯に遺る神日本磐余彦命の濃い伝承と鉄製武器を集積した特異な集団の痕跡が語る意義。史学は神武天皇の存在を含め、東征説話は内容が神話的であるため史実とは考えられないとする。が、荒唐無稽な話をわざわざ作り上げたわけでは無く、神武東征説話に何らかの史実が投影されていることも事実であろう。


 神話において、始馭天下之天皇(神武天皇)が践祚(即位)したとされる畝傍山東南の地に、今は神武天皇を奉斎する橿原神宮が鎮座する。明治23年、国は神武天皇の橿原宮があったという畝傍山の麓に橿原神宮を興し、桜井の多武峰で奉斎されていた神武天皇の神霊を遷している。

 橿原神宮から橿原神宮前駅へ向かう参道の右手は久米町。古えの大和国高市郡久米邑であり、神武二年の天皇による論功行賞において大久米命に与えたとされる地。町の中央の久米御県神社は大久米命を祀る式内社。社前には「来目邑伝承地」の碑が建つ。隣接して久米仙人の説話を残す古刹、久米寺。久米氏の氏神と氏寺が町中に並ぶ。

 神武東征において、常に神日本磐余彦尊の側(そば)に在って、能く藩屏となりし「大久米命」の存在を想起する。大久米命配下は皇軍の主力であったともいわれる。

 久米氏は古代日本における軍事氏族。祖神とされる天津久米命は大伴氏の祖神、天忍日命とともに武装して邇邇藝命の降臨を先導したとされる。そして、神武東征においては大久米命が大伴氏の祖、道臣命と共に活躍し、「撃ちてし止まむ」の久米歌は古代戦闘歌の代表とされる。

 久米氏はのちの隼人系海人ともいわれ、久米族とも呼ぶほうが相応しい異能の集団。大久米命は黥利目(入墨目)であり、入墨は海人の習俗とされる。そして、神日本磐余彦命が発したとされる日向、一ツ瀬川流域の佐野ノ原(佐土原)の丘陵域には久米地名が遺されている。

 いまどきは、多くの歴史学者が記紀の神武東征説話は史実ではないとする。が、日向中枢、宮崎や一ツ瀬川流域、児湯に遺される神日本磐余彦命の伝承と特異な集団の痕跡、また、橿原に遺される久米氏族の所在などは神武東征説話の史実性を当に、実証している。

 

(追補)褐鉄鉱による弥生製鉄の話。


 弥生期の鉄器生産については、韓半島から輸入された鉄挺(てってい)を原料として、北部九州域が鉄器生産を集中させている。のちの砂鉄を原料とする「たたら製鉄」は、5、6世紀に韓半島より齎されたとして、弥生期の製鉄は認められていない。史学はこの国の文化は韓半島に依存するという思考に固執する。

 が、弥生後期の製鉄遺跡ともされる小丸遺跡(広島、三原)の発見や大和の古墳出土の刀剣類の多くが、褐鉄鉱や赤鉄鉱(ベンガラ)を原料にするというデータもあり、古く、わが国には褐鉄鉱(かってっこう)による製鉄が存在したとする説は根強い。

 弥生後期の鉄器出土において、中九州域、火(肥)の鉄器出土が北部九州域を圧倒し、とくに鉄鏃など鉄製武器の出土数では火(肥)北部が突出している。
 而して、邪馬台国九州説において女王国の南に在って、その存在を脅かしたとされる狗奴(くな)国とは、火(肥)北部の鉄製武器の集積を背景にしたともいわれる。

 弥生後期の火(肥)北部における鉄器の生産遺構としては、阿蘇の狩尾遺跡群が注目される。狩尾遺跡群は阿蘇谷北西の外輪山麓遺跡群の総称。周辺の弥生集落は鍛冶工房を持ち、大量の鉄器を集積したことで知られる。

 そして、阿蘇の鉄器生産に関しては、韓半島輸入の鉄挺を原料とするだけではなく、阿蘇に産する褐鉄鉱を使ったといわれる。
 褐鉄鉱とは天然の錆(さび)。沼地などに堆積して鉱床をつくり、低い温度で溶融できるため古代製鉄の原料になり得るという。狩尾遺跡群周辺では「阿蘇黄土、リモナイト」と呼ばれる褐鉄鉱を大量に産出する。

 時代は異なるが日向、児湯の川床遺跡の下流域、三納代のベンガラ工房の遺構から褐鉄鉱の残滓が検出されて、児湯でも褐鉄鉱の産出、製鉄が行われた痕跡をみせている。そして、その技術は東南アジアや江南など南方系のものとされる。(了)

 

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