阿羅漢果までの道のり

悟りの階梯 阿羅漢果までの道のりで感じた事、
この世界の真理について時間の許す限り記事を書いていこうと思います。

何をすれば、死んでもいいのか?

2013-06-30 14:48:27 | 本質
自殺を肯定するようなタイトルですが、
自殺を肯定している訳じゃありません。
文句、批判は記事を最後まで読んでからお願いします。


“この世”に生まれてきた人は

全員が長生きする訳じゃありません。

若くして死ぬ人もいます。


“何をすれば、死んでもいいのか?”の答えは、

その人生での生まれてきた意味を理解し、

人生における仮説を立証すれば、死んでもいいというのが

私の答えです。


逆に言うと、上記をしないまま、

“死”を享受するのは、無駄死に、です(あるいは悪い事)。

長寿で人生を謳歌して死ねば、自然と仮説立証をするでしょう。


ここで、問題になってくる事柄があります。

それは、自殺と呼ばれる行為です。

なぜ、自殺が問題なのかというと、

本来の流れと逆行する行為だからです。

人は本来、幸せになるために生まれてきました。

それを強制削除する行為が自殺です。


ただ、自殺を全否定する訳でもありません。


例えば、の話をします。

ある人が完治不可能の死にいたる病気になりました。

現代の医学では命を1年、延命させるのが精一杯です。

しかも、延命させるには内臓を全て取り、

管に繋がれ、自由に生活をすることも出来なくなります。

人でありながら、人でない姿に変えられ、

それでようやく、延命できる。

こういう時、延命措置を取らないという選択は

自殺になるのか?

正直、私にはわかりません。

ただ、私には、延命措置の方が誤りな気がしてなりません。


“この世”には抗いようのない事があります。

それは、“老い・病・死”です(他にもあると思いますが)。

これらに抗う行為は

時間を操れる人以外は成功しないでしょう。


結局、何が言いたいかというと、

本来の流れを妨害する行為は

良くないという事です。



生まれてきた意味を、

なぜ、生きなければいけないのかを、

何をすれば、あるいはどんな状態になれば、

死んでもいいのか、を理解した人を想像してみて下さい。

それらがわかっている人は

自殺なんてしません。

かといって、愚かな行為もしません。

ただ、流れに沿うだけで良いんです。

そうすれば、苦しみが薄らぎ、やがて消えてなくなります。

例え、目の前に“死”が待っていたとしても、

恐怖も動揺も感じません。

“ただ、それがあるだけ”なんです。



抽象的な話になってしまいましたが、

お分かりいただけましたか?

次は、これから記事を書くにあたっての前置き
(本質は簡単、など)を書こうと思います。
(この文章は自分のために書いてます。
 書こうと思った頃に忘れてしまう事があるので…)


なぜ、人は生きなければならないのか?

2013-06-29 00:17:00 | 本質
少し、期間が空きましたが

前の記事の続きです。

生まれてくる意味が幸せになるため、と書きました。

なぜ、人は生きなければいけないか?の答えは、

幸せを経験するため、です。

生まれてくる意味と生きなければいけない理由は

意味合いが似ていますがイコールではありません。


“この世”という世界は非常によく出来ています。

幸せを感じるために、

不幸(不自由)を必ず経験させられます。

幸せな状態がずっと続いても、

幸せな状態しか経験していなければ、それが幸せかどうかなんて

ヒトにはわからないんです。

だから、幸せな状態と反対の不幸な状態が用意されているんです。


各人が抱く“幸せ”という概念はそれぞれ違います。

よって“この世”で経験する“幸せ”は人によって違います。

Aという人がいたとします。

その人が生まれてくる前に“あの世”で

「健康であればきっと幸せのはずだ。」と考えていたとしましょう。

そうすると、“この世”では“健康状態”に沿ったイベントが待っています。

20歳までは風邪もひいた事がないほど、健康な体だったのに、

それが20歳を超えると、完治不可能の難病に罹る。

その病気で死に至るとしても、これは意味ある人生なんです。

何が言いたいかというと

“この世”は“仮説検証の場”なんです。

1度の人生で、1つの仮説を検証するための世界なんです。


ここまでをまとめると

“あの世”で考えた仮説で幸せになれるかどうか検証するために

生まれ、生きているんです。


全ての人に、人生の仮説があります。

もし、あなたが何かの問題に直面しているのであれば

逃げずに、その問題に取りかかって下さい。

あなたが問題を先送りすれば、するほど、

問題は大きくなってあなたの前に現れます。

次は“死”についての記事を書きます。
合わせて“自殺”にも触れようと思います。

何のために人は生まれてくるのか?

2013-06-26 10:03:26 | 本質
人は何のために生まれてくるのでしょうか?

これについて明確に答える事が出来ますか?


全ての人は幸せになるために生まれてきます。

環境に違いはあれど、万人が生まれてくる意味は
これに尽きると思います。


幸せって何か?

幸せ=安らぎ=悟りの境地です。

悟りの境地に達する事が出来るのは

聖者だけか?

いいえ、違います。
正しい順序を踏まえれば、
全ての人が悟りの境地に達することが出来ます。


お釈迦様の偉大な点は

人で在り続けた点です。

自分を神格化しなかった点にあると思います。

“この世”という空間に生きている間は

“欲、煩悩”との闘いです。

悟りの階梯を進む程に

“煩悩”は薄らぎ、やがて消えます。


悟りの境地、

特に、不還果以降からですが

神と呼ばれる存在の領域に足を踏み入れます。

しかし、ここで油断をするとすぐに人界に引き戻されます。

嘆かわしいことですが、

「自分は悟った」

と言って、多くの人から注目されるほど

本来の目的から外れていってしまいます。


お釈迦さまがすごいのは

人で在り続けながら
神と呼ばれる存在の領域に死ぬまでいた事が

尊敬に値するのです。


人であるがゆえに、“この世”で生きる事ができる。

人で在り続ける間は、どうあがいても神と呼ばれる存在にはなれません。

ただ、神と呼ばれる存在の領域にいる事ができるだけです。

多くの人が誤解してる事だと思いますが、

阿羅漢果に達していないサトリビトは

人界と神界(造語です、今、作りました。)を行ったり来たりしてます。

誰も言わない事ですが、これは確かな事だと思います。

悟りの階梯を進んでも、それがどれほどすごい事なのかは

一度、人に戻らなければ、実感できないのです。

人界に戻り、再度、苦しみを味わう事で、

“ああ、あれは素晴らしい事だったのか”と思って

少しずつ、悟りの階梯を進んでいく事ができるようになるのです。

長くなってきたので、一旦ここで切ります。
ご愛読ありがとうございました。

私が預流向を迎えたきっかけとブログを始めようと思った理由

2013-06-26 03:53:38 | 自己紹介
初めまして。仙人老師と名乗らせてもらいます。

私が預流向を迎えたきっかけは
病気になり、現代の医学に絶望し、
“死”というものを目の前に突き付けられた事がきっかけです。

今も命が助かった訳ではなく、近い将来、死ぬ可能性は残されています。
自分が死ぬかもしれない、と感じた時から
悟りの階梯を上り始めていた気がします。

申し訳ないですが、どのタイミングかは正確に覚えていません。
当時は何も意識していなく、その後に学んだ事と照らし合わせると
“あれは預流向だったんじゃないか、うん、そうに違いない。”
というぐらいの感覚です。

病状の悪化とともに
悟りの階梯を上る事が出来ました。
おかげで病状が悪化しているにも関わらず、平穏に過ごせています。

ブログのタイトルに
“阿羅漢果までの道のり”
としましたが、阿羅漢果まで至っていません。
ただ、死ぬ間際までには完成したいな、と思っています。
出来なければ、あの世で完成させようと思います。

私は、無事、欲界の執着が消え、不還果に達し、
阿羅漢向を迎える事が出来ました。

私がブログを始めようと思ったきっかけは
今、自分が出来る事で出来る事はないか、と自問自答した結果です。
“正しくありたい”と思っているので
正しいと思っている事をやらない理由がないんです。
わかりますか?この感覚?

こういう精神世界の事は眉唾物もいいとこなので、
何を信じたらいいのか、よくわからないと思います。

私が間違っているかもしれません。
その時は教えて下さい。

私は、私が正しいと思う事を発信していきます。
それを鵜呑みにせず、自分で一度、考えてから
納得してから自分の中に入れていって下さい。

世界の真理に反する教えは
自分の中で噛み砕く時に違和感を感じます。
自分の感覚を信じて下さい。