一度、阿羅漢果に到達しました。
今は阿羅漢果の状態ではないのですが、
阿羅漢果の状態だった時を思い出して記事を書こうと思います。
合わせて、過去の記事で自分が勘違いをしていた部分があるので
それも訂正したいと思います。
阿羅漢果ではない状態で
阿羅漢果について書いて大丈夫なのか? と思うかもしれませんが、
阿羅漢果の状態では書けないという事も含めて、
今後の記事で書いていきたいと思います。
1週間程度で記事を書きあげる事ができると思います。
全ての記事を書いたら、もう二度と記事を更新する予定はありません。
今日はこれで終わりにします。
今は阿羅漢果の状態ではないのですが、
阿羅漢果の状態だった時を思い出して記事を書こうと思います。
合わせて、過去の記事で自分が勘違いをしていた部分があるので
それも訂正したいと思います。
阿羅漢果ではない状態で
阿羅漢果について書いて大丈夫なのか? と思うかもしれませんが、
阿羅漢果の状態では書けないという事も含めて、
今後の記事で書いていきたいと思います。
1週間程度で記事を書きあげる事ができると思います。
全ての記事を書いたら、もう二度と記事を更新する予定はありません。
今日はこれで終わりにします。
私も8日深夜に不還果に到達した(と思われる)
ので、不還果の状態について確認しようと思い久しぶりにこのサイトを訪れたところ
ご報告を目にした次第です。
ところで、以前不還果の記事で不還果の段階において
>不還果からは、神と呼ばれる領域に足を踏み入れるので、
>自分の中の“ヒト(自我)”の行う行為にストレスを感じるようになります。
との記載があります。
また、
>ここで表現されている“激しい欲”、“激しい怒り”というのは
>不還果に到達する前に感じていた、“少しの欲”や“ちょっとし怒り”の事です。
>つまり、欲や怒りというものは、不還果に到達すれば消えます。
や
>私がこれまで、欲は薄らぎ、やがて消える、と言ったのは
>不還果に達すれば、欲界への執着が消えるからです。
との記載があります。
私がなんとなくここが理解しきれていないのか、矛盾のように感じてしまうのです。
>不還果からは、神と呼ばれる領域に足を踏み入れるので、
>自分の中の“ヒト(自我)”の行う行為にストレスを感じるようになります。
と、いうことは欲や怒りは少し残っているのでは?と思うのです。
私がまだ不還果ではないからかもなんですが、
少しの欲が残っているんです。
ただ、とても小さく、欲自体にとらわれず、飲み込まれず、容易に離れられる程度のものです。
例えば、私はあるアウトドアスポーツが趣味なのですが、新しい道具が欲しいか、
と自問すれば「手に入るなら欲しい」位のものです。
ただ、欲界への執着はない(だと、上の欲と思われる事は矛盾するのかな?欲界への執着=物欲?)です。
不還果に関する実体験や情報がネット上にはほとんどなく、
判断が難しいので自分は到達したのかまだ分からない部分があり、
細かいニュアンスへの誤解が、間違った理解になってしまう可能性も私にはあります。
何が言いたいか、、、えーとですね、自分でも上手くまとめれてないのですが
>自分の中の“ヒト(自我)”の行う行為にストレスを感じるようになります。
の部分の“ヒト(自我)”は欲や怒りを全く持っていないんでしょうか?
ならば、その自我の行う行為はなんなんでしょうか?欲からくる行為ではないんですか?
もし、お時間ありましたらで結構ですので
ご教授お願いします。
>つまり、欲や怒りというものは、不還果に到達すれば消えます。
と書いたのは適切な表現ではなかったと思います。
正確な表現をすると、欲や怒りへの執着が消える、になります。
ただ、当時の私が伝えたかったのは、
激しい欲・怒りが消えるだけで一来果とあんまり違いがないのではないか(一来果では弱まる)という文章がほとんどで、
実際はかなりの違いがあり、
不還果に到達する前に感じる少しの欲・怒りを不還果に到達した後には激しい欲・怒りに感じるのでそれが消えるということです。
ひろさんがおっしゃってる内容は欲や怒りの定義の問題だと思います。
とても小さく、欲自体にとらわれず、飲み込まれず、容易に離れられる程度のものを欲と言えば欲だし、欲じゃないと言えば欲じゃないと思います。
生きていく上で食事、睡眠、排泄は必要不可欠です。
生きていく上で上記3つが必要最低限な物でも、したいというのは欲になるのか?
悟りを開きたいというのも欲になるのか?
他者のために何かをしたいというのも欲になるのか?
これらの答えはあいまいです。
欲と言えば欲だし、欲でないと言えば欲ではない。
欲しがる事、したい事、それら全てが欲であると定義すれば、それらは欲になるとは思います。
(当時の私はそれを欲ではないと判断して文章を書いてます。)
>ならば、その自我の行う行為はなんなんでしょうか?欲からくる行為ではないんですか?
人は呼吸をしたいから、呼吸をしている訳ではないと思います。
(もちろん呼吸したくて呼吸する時もあると思います。)
人の行う行為で欲を起因としない行為もあります。
何も考えず、ただ、“している”行為もあります。
欲界への執着=欲がある ということではないです。
欲界への執着=欲に囚われている状態。
執着があるというのは、その欲から離れられない状態の事です。
では、離れられる欲は欲なんでしょうか?
おそらく、これは人によって答えが違うと思います。
ひろさんからの質問で答えられえるのはこれで限界です。
納得できないならまた質問して下さい。
可能な限りお答えします。
ありがとうございます。
ただ、一点のみ、確認させて下さい。
>ただ、当時の私が伝えたかったのは、
>激しい欲・怒りが消えるだけで一来果とあんまり違いがないのではないか(一来果では弱まる)という文章がほとんどで、
>実際はかなりの違いがあり、
>不還果に到達する前に感じる少しの欲・怒りを不還果に到達した後には激しい欲・怒りに感じるのでそれが消えるということです。
上記の表現についてなのですが、
"不還果に到達する前に感じる少しの欲・怒り"を客観的指数として"80"とした時、
"不還果に到達した後には激しい欲に感じる"も客観的指数として"80"であるが、それ自体に不還果に到達したものにとっては主観的(悟ってるのに主観的ってのはおかしいっていう突っ込みは無しで笑)には0になるということですか?
今不還果になっている時点から、一来の過去の時に少しの怒りを感じていた時を思い返すと、「あー、あん時はすごい怒ってたな、今となってはなんであんなことで怒ってたんだろうなぁ。」ってな感じに怒りが消えるということですか?これなら今の状態にピッタリあてはまります。
上記の点について、たとえ話でご教授願えないでしょうか。
そこのセンテンスはスルーして下さい。
怒りの量に客観的な数量なんてないですからね。
悟りの感覚について文章化する、という事を普段していないのですごく難しいです。いやはや、申し訳ありません。
一来果から一時的に阿羅漢の体と心になって不還果になりました。
これは、慈悲の冥想と慈経を中心に修行したから、2段階進んだと個人的に考えています。
私には、神通力は、無いと思います。興味もありませんので、試したことも無いです。
正確には、十の障害(十種類の観の汚れ)の状態になったということだそうです。ほとんどの修行者がなるそうです。この経験は、無常・空・無我のどれかを明確に経験すると起こるそうです。明確に経験しているので、もう解脱するしかないと、覚悟を決めることになるそうです。その通りでした。
この時には、集中力が一気に高くなります。そして、体に多くの変化が現れます。変化の一部は残ったままになります。
私も、身内の者が亡くなったりして、縁が切れたら・・・
修行を完成させて、食事をやめるか、出家をするかのどちらかの予定です。
偽物ですね。