装丁と本の造りに惹かれて手にした1冊。
歌曲について著者が語った文章が収められています。

永遠の故郷 夜
著者:吉田 秀和
発行:集英社
Amazonで書評を読む
詩にも音楽にも詳しくない。
取り上げられている歌曲のほとんどを聴いたことがない。
そういう人間が読んで楽しいのか。
楽しいです。
わからないから楽しい。
勉強とは無関係なところで専門書を眺めると面白いでしょう?
あれと一緒です。
知らない言葉で溢れているページをみるのが楽しい。
わかっていなければならないことが書いてあるはずのものがわからないと恥ずかしいし、わかろうと思って読むものがわからないと途方に暮れますが、わからないをわからないのままにしてページを繰っていけるのは楽しいです。
それで、少しでもわかることがあればうれしい、くらいの感じで。
そういう本の中でも、これは美しいものについて語っているものですから、その言葉も美しげなものが多くて、ページのイメージ自体が綺麗です。
観念的に、抽象的な言葉で語られる、詩と音楽。
著者手書きの楽譜。
著者は音楽を聴き、楽譜を読みます。それはそれは丹念に。
音符と記号、音楽の言葉に託された想い、もくろみを読みとっていくのです。
比喩としてではなく、音に色を感じとる感覚を持つ人たちがいるといいますが、著者は音楽から音と同時に言葉を受け取っているのではないかとすら思います。
音楽が、この世の誰よりもその体の中に美しく響いている人がどこかにいたとしても、何も語らなければその人の中に生まれた音楽の美は他の誰にも伝わりません。
語らなくても、美しいものは美しいもののままに存在するでしょう。
楽譜の中には作曲者の想いをこめた音楽が秘められている。
ホールでは、あるいは音源が再生されるあらゆる場所には、演奏家の体内に響いた音楽が演奏として現れる。
そして、それを聴く人の中に、それぞれの音楽の美しさが生まれる。
けれども、聴く人を介して生まれ続ける美は、録音することも叶わず、耳で共有することもできません。
その人の言葉で語られてこそ。
自分が味わった美を、豊かな言葉で語ることのできる人たちが確かにいて、それは時々、もととなったものよりも美しく感じられます。
貝の吐き出す蜃気楼のように、それはもう実在の音ではなく、語る人の記憶と想いとに変形された幻の音楽のよう。
それが批評や評論の読み方としてはどうかと思いますが、私は、決して私の耳が聴くことのないその幻の音楽こそが好きなのかもしれません。
だから、聴いたこともない音楽の文章を読むことに、飽きることはないのです。
ただじっとしているだけで暑い夜に、これでもかというくらいロマンティックに語られる著者の記憶の中のヨーロッパの長い夕暮れの空気とたちこめる花の香りを想像しながら読めば、幻想小説なみの別世界が展開します。
開き直って言えば、わからないからこその読み方と読後感。
Amazonやbk1での書評を読んで、ほんとうはそういう本だったのかと思うような読み方です。
ちなみにbk1での内容紹介はこんなふうでした。
『不世出の音楽評論家が最愛の妻の喪失から不死鳥のごとく甦り、新境地を拓く。「歌の心」をうたい、文学と音楽を結び、世界の誰も書かなかった深みへ至る記念碑的作品集。』
雑誌連載中のものをまとめたもので、今後、「薄明、「昼」、「黄昏」と続く予定とか。
どんな装丁になるのか、それだけでも楽しみです。
私も、若い頃は、吉田さんの本を読んでも、聴いたことのない曲目ばかりでした。で、興味を持った曲があると、LPを探したり、同病(?!)の友人のLPを聴かせてもらったりしてました。当時有名な評論家と呼ばれる人の中には、あまり共感できない人も多くて、当方の音楽の趣味の、羅針盤みたいな人ですね。
評論家にとって、羅針盤のようと表現されるのは、最高級の褒め言葉なのではないでしょうか。
文章を読んでいると、ああ、長く生きてらした方なのだなと思います。
ご冥福をお祈りしたいと思います。