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宗教法人 鈴川キリスト教会

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

2025年 5月 18日礼拝メッセージ要旨

2025年05月18日 | 礼拝メッセージ
ルカ9:51ー62 
主イエス様の弟子

鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣

 私たちが、イエス様を自分の救い主と信じてクリスチャンとして生活することは、イエス様の弟子となることです。弟子となることにはどのような面があるのでしょうか?今日の聖書の箇所には、そのことが具体的に書かれています。
 イエス様は、ご自分が救い主として十字架にかかるときが迫っていることを感じて、サマリヤ地方を通ってエルサレムに向けて旅行を始めました。ところが、その地方の人々は、イエス様がエルサレムに向かっておられるのを知り、一行を喜んで受け入れませんでした。


1.自分の生来の気性が取り扱われる。
 その時、弟子のヤコブとヨハネは「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言ったのです。しかし、イエス様は彼らを戒められました。
 イエス様が十字架にかかられ、復活された後に、ヤコブは最も早く殉教死しましたが、ヨハネは長生きして、「雷の子」が後には「愛の人」と呼ばれるようになったのです。イエス様は、生来の気性をも変えてくださいます。
2.困難はあっても有意義な人生。
 イエス様の弟子となることは、私たちが普通に求める、安泰な生活や経済的な祝福を保証することではありません。もちろんそれは与えられますが、第一義的なことではないのです。たとえ困難に直面しても、人間として生き甲斐のある、有意義な人生を歩むことが出来るように、主イエス様が救い主となってくださったのです。そしてそこに喜びを見つけるのです。
3.家族に対する対応。
 イエス様の弟子は、まず神様との関係を最優先順位におきます。そしてその次が家族との関係です。普段はあまりこのことを気にしないで生活していますが、緊急の時にはいつもこの原則をはっきりすることが求めがれます。クリスチャンは、ちょうど戦いの最前線に派遣されている兵士の様な状況に置かれるときがあるからです。
4.焦点のあった人生。
 イエス様は「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」といわれました。これは、焦点のあった迷いのない生き方をするということです。
 これらのことを私たちの生活に当てはめて、点検してみましょう。
分かち合いのために
 あなたが、イエス様の弟子として生活することのすばらしさは何ですか。互いに分かち合いましょう。

今週の聖句
 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ 9:62)

2025年 5月 4日礼拝メッセージ要旨

2025年05月04日 | 礼拝メッセージ
ルカ9:43ー50           
誰が一番偉いか

鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣


 私たちの生活の中には、いつも他の人と比較して考える傾向が根強く見られます。そして、ある時は優越感に浸ったり、あるいは落ち込んでしまったりするのです。このようなことによって私たちの生活は大きな影響を受けるのです。イエス様に従っていた弟子たちの間にも、自分たちの間で誰が一番偉いかという議論が持ち上がったのです。それに対するイエス様の答えは、ユニークなものでした。
1.イエス様の名のゆえに受け入れる。
 イエス様は、神の国での判断原則は、「イエス様の名のゆえに受け入れる」ことだと言われました。たとえ子どものように未熟なものでも、イエス様の名のゆえに受け入れることが重んじられるのです。これはイエス様による救いがどんなにすばらしいものであるかを示しています。
2.一番小さい者が一番偉い。
 イエス様による救いは、私たちを謙遜に導きます。私たちに何か救われる値打ちがあったから救われたのではなく、ただイエス様の愛と恵みによって救われたことであり、私たちに誇るべきことが何もないからです。これをはっきり自覚できている人を、主は重んじてくださるのです。
3.仲間かどうかよりも、イエス様に対する姿勢がかぎ。
 弟子たちは、イエス様の名を使って不思議なことをしていた人を、自分たちの仲間ではないからといってやめさせました。しかしイエス様は「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」といわれました。
 イエス様を信じると、私たちの生活全てのことについての価値判断の基準が変わります。神の国で重んじられることがどんなことかが分かってくるからです。あなたの判断原則はどのようなことですか。

分かち合いのために
 あなたが、今一番大切と思っていることは何でしょうか。それはあなたの生活のどのような影響を与えていますか。互いに分かち合いましょう。

今週の聖句
 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」(ルカ 9:48)

2025年 4月 6日礼拝メッセージ要旨

2025年04月06日 | 礼拝メッセージ
ルカ9:28ー42
救い主の栄光

鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣


 主イエス様が、祈るためにペテロとヨハネとヤコブを連れて。山に登られとき、祈っているうちにその姿が栄光に輝く姿に変わられました。そして旧約時代の指導者であるモーセとエリヤが現れて、イエス様の最後について話し始めたのです。弟子たちは、そこに天幕を張ってとどまろうと提案しましたが、まもなく、雲が彼らを包んで、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声を聴きました。するとイエス様は元の姿に戻っておられました。その後イエス様と3人の弟子たちは山から下りました。そこには、引きつけを起こす息子を持つ親が待っていました。
 これは、イエス様の山上の変貌といわれている出来事ですが、どのような意味があったのでしょうか。

1.イエス様は祈りを大切にされた。
 イエス様は、ご自分でも、弟子たちと一緒にも、よくお祈りされました。お祈りは、この世界の造り主の神様に、お話しすることです。これは、信仰生活の大切な要素です。イエス様は、祈りによって体験できることを、弟子たちにも体験してほしかったのだと思います。
2.イエス様が救い主であることをはっきりと示された。
 イエス様は、弟子たちに、罪と滅びからの救いを、ただ言葉で伝えるだけではなく、実際に神の国の前味を体験させてくださり、確かにイエス様が救い主であることをはっきりと示されました。
3.父なる神様からの確認の言葉。
 弟子たちが雲の中から聞いた言葉は、父なる神様が、イエス様がなさっていることを認めてくださっていることの確認の言葉でした。

 この出来事を通して、イエス様が確かに私たちの救い主となってくださる方であることを確認し、信じましょう。

分かち合いのために
祈りの生活を確保するためにどのような工夫をしますか。互いに分かち合いましょう。

今週の聖句
 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ 5:15)

2025年 3月 30日礼拝メッセージ要旨

2025年03月30日 | 礼拝メッセージ
ルカの福音書9章18-27
神のキリスト

鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣

  さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言いますか。」彼らは答えて言った。「パプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」
 群衆は、イエス様を預言者と見ていました。
 イエスは彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロは答えて言った。「神のキリストです。」
 ペテロは、イエス様は預言者以上の方であり、預言者が預言していたメシヤご自身であると言いました。
 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。
 イエス様が、彼らを戒められたのは、彼ら自身がキリストについてまだ完全な知識を持っていなかったからです。彼らはずっと、イエス様があらゆる暗やみの力に打ち勝たれたのを見てきました。イエス様は、病気を直し、悪霊を追い出され、死人を生き返らせ、罪を赦されました。そして、イエス様が神のキリストであると知った今、この勝利の行進が続いて黄金時代が訪れると考えたからです。
 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして3日目によみがえらねばならないのです。」
  イエス様は、病人を直し、盲人の目を開いて、悪霊を追い出されることによって、確かにご自分がキリストであることをお示しになりました。しかし、黄金時代をもたらす前に、人間が持っている負の遺産、つまり神に対するそむきの罪の処理を行なわなければなりません。
ですから、ここは、イエス様の生涯の大きな分岐点です。これから、弟子たちにご自分が捨てられること教え始められます。
 イエスはみなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして、わたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」
 イエス様は人々に捨てられるのですから、イエス様について来る者も、同じような経験を受けることは必至です。ですから、弟子たちに、自分を捨てなければわたしについて来ることはできないと言われました。
自分が低められ、卑しめられ、貧しくなるという道です。しかし、イエス様は、自分のいのちを失うものはそれを救い、救おうとするものがそれを失うと言われました。
 これは、イエス様が十字架につけられてから、よみがえられるように、弟子たちも、自分を捨てる道を選ぶことによって、復活の力を経験するということです。
 「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」
 イエス様は、ようやくここで、栄光に輝くメシヤの預言について触れられております。キリストは苦しみを受けた後に、はじめて栄光に輝く王として来られるということです。そのときに、私たちの行ないが評価されます。私たちが自分を捨てて歩んできたか、それとも自分を救って歩んで来たか、評価されます。
だから、私たちは、神を畏れかしこんで生活するのです。


2025年 3月 2日礼拝メッセージ要旨 

2025年03月02日 | 礼拝メッセージ
ルカの福音書9:10−17
必要を満たして下さる

鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣

 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのしてきたことを報告しました。それからイエス様は彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれました。使徒たちが帰ってきて報告した後、イエス様は、弟子たちとだけの時間を持ちたいと願われたと思います。
ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来ました。それでも、イエス様は喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになりました。
 そのうち、日も暮れ始めたので、12人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言ったのです。
 しかしイエス様は、「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と彼らに言われたのです。彼ら自身で、食べる物を上げるように命じられています。
 彼らは言いました。「私たちには5つのパンと2匹の魚のほかは何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」それは、男だけでおよそ5千人もいたからです。 彼らには、たった5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。しかし、イエス様はそれをご自分に差し出すことを命じられました。
私たちが、福音宣教のためにイエス様が願われているのは、これです。自分の持っているものをささげる、自分にできることをささげることです。私にはこれだけしかない、これだけしかできない、と思われるかもしれませんが、イエスはそれだけで十分、とおっしゃられます。
 そして、イエス様は、弟子たちに言われました。「人々を、50人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」弟子たちは、そのようにして、全部すわらせました。するとイエス様は、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて祈り、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられました。
人々はみな、食べて満腹しました。そして、余ったパン切れを取り集めると、12かごもありました。
 群衆は満腹しました。この記事を読むとき、どのようにしてパンと魚が増えたのか知りたくなりますが、細かいことは何一つ書かれていません。けれども、ルカは、あえて書いていないのだろうと思います。なぜなら、奇蹟そのものよりも、イエス様が奇蹟を行い、必要を満たしてくださるという事実が大切だからです。私たちが、イエス様に願いの祈りをするときも、ただそれが起こることを信頼して、どのように起こるのかを知る必要はないのです。

 このように、弟子たち自身が、自分の手で、イエスの奇蹟に加わりました。自分で奇蹟を見るだけでなく、自分たちが参加したのです。それで、彼らは、イエス様がどのような方であるかをさらに理解することができたでしょう。