宗教法人 鈴川キリスト教会

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

2009年3月15日礼拝メッセージ要旨

2009年03月29日 | 礼拝メッセージ
「苦悩したヨセフ」
(マタイ1章18~25節)

               牧師  紺野真和 
 ヨセフは、マリヤと結婚する事が決まっていた。当時、夫は妻を迎えるために、新居を建てる必要があったので、毎日ヨセフは愛するマリヤと共に神様を賛美する生活を思い描き、また将来子供が与えられて楽しい家庭を夢見ながら新居を建てていたであろう。その喜びと希望で一杯であったヨセフに、信じられない知らせが届いた。
 それはマリヤが妊娠しているという知らせである。この知らせはヨセフを喜びの絶頂から、暗黒のどん底へと突き落とした。ヨセフは、なぜ、どうしてと叫んだであろう。自分には身に覚えがない。マリヤが裏切っていたのだろうか、いや清純なマリヤに限ってそんな事が。それでは、誰かに乱暴されたのだろうか。分らない。
しかしマリヤが妊娠しているのは事実であった。その中で、ヨセフはこれまでの準備は何だったのだろうか、またマリヤもきっと悲しんでいる事だろうと想像しただろう。そして彼は神様に対しても、どうしてこんな事を許されたのかと叫んだであろう。ヨセフは悩みに悩んだ。
 私は、ヨセフが悩んだ後に、神様が介入されたとの順番に意味があると思う。神様は決してヨセフをいたずらに悩ませたのではない。神様は悩みの中に置かれたのである。どうしてか。聖書は、ヨブやパウロなど悩みぬいた信仰者の姿を他にも記している。悩む事にどのような意味があるのか。聖書の中に出てくる悩み抜いた信仰者には、一つの共通点がある。彼らは悩み抜き、そして神様と出会い、突き抜けた信仰者になっていった。ヨセフも、この後神様の介入があり、突き抜けた信仰者になった。クリスチャンの成熟の過程には、悩み抜き、神様と出会い、そして信仰が成長していくというプロセスがある。悩む事には意味がある。悩む事を避けないようにしよう。


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2009年2月15日礼拝メッセージ要旨

2009年03月08日 | 礼拝メッセージ
善悪の知識の木はどこに
       
<黙示録22:1~15>
                牧師 鳥居 完次  
 人は、エデンの園にあった「善悪の知識の木」から取って食べたことによって「いのちの木」から遠ざけられた。では、その「善悪の知識の木」はその後どこに行ったのか。

 1.「善悪の知識の木」とは一体どういうものであるのか。それは、本来良いものである。神は人のためによいものを造られ、悪いものはお造りにならなかった。その意味で「善悪の知識の木」には、神の愛が込められていた。つまり、善悪に関して完全な自由を持っておられる神ご自身に全面的に依存する(従う)ときにこそ、人は神の真の自由をそのまま反映させて生きることができることを「善悪の知識の木」は教えているのである。従って、人が神に従わずその「善悪の知識の木」を食べたとき、人は神ご自身の内にある真の自由を失い、自分の感情や周囲の判断に基づいて事の良し悪しを決めるようになってしまった。

 2.「善悪の知識の木」はいったいどこに行ったのか。人間の歴史の中に隠されている。人間はアダム以来あの「善悪の知識の木」を食べ続けているとも言える。これには、神の選びの民イスラエル人も例外ではない。今、私たちに求められていることは何か。今こそ、私たちは「善悪の知識の木」を食べることを自らの意志でやめるべきとき、即ち善悪を判断する主権を、本来持っておられるお方に全面的に返すことである。そうするならば、主は「いのちの木の実」を先取りする権利を聖書のみことばによって与えてくださる。そして、その日(主の再臨)が来れば、文字通り本物の「いのちの木の実」を思いのまま食べることができるというすばらしい約束が与えられているのである<黙22:12~14>


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