社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

長屋政勝「産業連関論」(山田喜志夫編著『現代経済学と現代(講座 現代経済学批判Ⅲ)』日本評論社,1974年)

2016-10-10 11:04:38 | 8.産業連関分析とその応用
長屋政勝「産業連関論」(山田喜志夫編著『現代経済学と現代(講座 現代経済学批判Ⅲ)』日本評論社,1974年)

産業連関分析はそれが日本に入ってきた頃,盛んに持てはやされた。経済計画に導入され,資本主義の構造的矛盾を調整する役割が期待された。こうした傾向に対し,山田喜志夫,野澤正徳は逸早く批判を加えたが,筆者もその一人である。本稿は産業連関論の理論的脆弱性を明らかにすることを課題としている。この課題認識とともに,連関論の理論的骨子を批判的に吟味すること,この理論がいかなる経過をたどって再生産されたのか,連関論を応用した現実の経済計画はどのようなもので,その結末はどうであったか,従来の連関論批判で何が問題とされ,かつそれらは有効な批判であったかが,検討されている。

 産業連関表,産業連関分析の中身とそれらの問題点は,周知のことなので,筆者の批判的論点の特徴にポイントを置いて要約する。

 まず連関表の骨組みは,国民経済を個別資本の簿記的視点,損益計算的思考からとらえ,国民経済活動が経済諸部門の取引関係の総体として把握されていることがまず確認されている。連関表がこの形式をとるために,横欄に関して,中間需要に含まれる物的生産部門(生産的消費)と用役生産部門(不生産的消費)との区別がなされず,最終需要では家計消費のもとに労働者の賃金による生活資料の購入と資本家のそれが一括され,所得分配の資本制的不平等が隠避されている。総資本形成にいたっては更新の投資と生産拡大の蓄積が,また在庫形成も意図せざる在庫と意図された在庫が区別されていない。また縦欄では社会的生産物の価値構成が示されるはずであるが,ここでも生産的,不生産的部門の区別がないので不変資本の価値移転と剰余価値からの控除とが等しく中間投入に含められ,減価償却の項目における補填と蓄積の扱いが曖昧である。会計学上の利潤の費用化や償却基金の積み立てという形での利潤の隠蔽と同じようなことがなされている。以上要するに,連関表は社会的再生産を商品資本の循環と見る見地がなく,これでは社会的再生産の法則的理解が不可能である。

 次いで筆者は,連関分析の論理構成,投入係数をめぐる問題を批判し,最終的にその均衡論的性格を暴露している。連関分析の論理構成における問題点としては,国民経済の諸部門間取引を連立方程式体系にモデル化し,過去の連関表から投入係数を算定し,独立変数である最終需要の大きさを決め,それに対応した経済量を推定する論理は,結論的に言えば,計量経済学の論理的枠組みと同様,新実証主義的思想に立脚したものであるという事情が指摘されている。投入係数をめぐる問題点として,それが客観的反映対象をもたない単なる要約数字であり,これを同次線型の生産関数から導く手法には従来の一般均衡論における限界生産力理論の否定であるかのように見えるが,そうなった根拠は係数算定上の実用性を優先的に担保にしたことにある。したがって連関論の均衡的性格は,レオンチェフの主観的意図とは別に,方程式による形式的な「仮定による均衡」であり,経済実体的内容を失った「虚偽の均衡」である。

 このような欠陥をもった産業連関論は,どのようにして現代資本主義のもとで計画化の有力な道具となったのだろうか。筆者は連関論の半生を回顧している。ここでは連関論の原型とみられる国民収支勘定作成の試み(30年代のドイツ),ソ連での国民経済バランス作成の経験,40年代のアメリカでの発展,40-50年代における主要資本主義国でのその定着,日本での昭和30年代以降の展開を紹介している。とくに紙幅を割いて,日本の中期経済計画で連関分析が導入された経緯を論じている。かなり細かくその内容が記述されているが,筆者が言いたいことは要するにここでも,「中期経済計画とそこに用いられた産業連関モデルも,ありうべき日本経済の姿を各関連方面からの主観的希望をふんだんに盛り込み,方程式体系の形で紙の上に描いてはいるが,問題はそういった主観的理論構成を許すモデルそのものの理論的欠陥と非科学性(である)。連関モデルに関しては,生産構造の実態の変化を解明するという能書きとはうらはらに,・・・やはり連関論の理論構成そのものが現実の社会的再生産を分析し,経済構造を把握するうえでまったく無力なのだということを再確認できるのである」(pp.179-80)ということにつきる。
産業連関論批判に関しては現代経済学内部からのそれが紹介され,興味深い。一般均衡論の伝統を遵守するT.クープマンズらは,連関論が需給の両面にある最適化行動を無視しているので均衡理論に値しないと決めつけ,レオンチェフ流の制限的固定的生産関数にもとづく理論は均衡論モデルとは言えないと断罪する。関連して価格理論の決定的脆弱性も指摘されている。またM.フリードマンは,投入係数不変の仮定に反発を示している。投入係数一定の仮定とその予測力に対しては,上述の一般均衡論的検討から批判するもの,また実際の生産過程との対比でその非現実性を指摘するものとがある。筆者は概略以上のような現代経済学内部での連関論批判に対し,「現代経済学の内部での連関論批判の特徴といえば,それら批判論点があくまで断片的であり,方法論的検討をも含んだ根本的なもの」(p.182)となっていない,と指摘している。

連関論批判についてはさらに,ソ連,東独での批判が紹介されている。ソ連からはT.B.リャブーシキン,C.ニキーチンの見解が,東独からはH.コツオレーク,H.マイスナーの見解が取り上げられている。両者に共通しているのは,一方で連関論が資本制的無政府生産のもとでは幻想である計画化志向をもつがゆえに無効であること,連関表を構成する諸概念が社会的生産を科学的にとらえるものになっていないことへの言及があり,他方で連関分析が技術的な面から実践的便宜さをもつことを評価し,計画化の整った社会主義経済のもとでは技術的有効性を発揮するという期待がよせられている。筆者はこれらの批判は現代経済学の批判水準を超えるものではなく,断片的範疇批判と基礎理論への超越的批判に終始していて,これはマルクス経済学の悲劇であると結論づけている。

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