阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

ペンテコステの日に(その2)

2017-06-16 18:57:20 | Weblog

2017.6.13.ペンテコステの日に(その2)

聖書 使徒の働き2:1~4、41~47

題  ペンテコステの日に(その2)

 

暗唱聖句 使徒1:8

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

はじめに

先週、イスラエルから一つのニュースレターが届きました。その中に、七週の祭りについてのコメントが書かれてありました。それを読んで、考えさせられることがありました。ユダヤ教の教師であるラビ・フォールマン師がこう言ったそうです。「七週の祭りは、律法(十戒)を授かったことを記念する祭りですが、これはイスラエル人が、一つの国として、この世界にデビューしたことを意味するものです。」私はこれを読んで、なぜペンテコステの日に教会が生れたのか、わかったような気がしました。

 

1.五旬節、七週の祭りの意味をラビ・フォールマン師からのヒント

七週の祭りは日本語では五旬節と訳されています。エジプトを出発してから50日目の日です。ですから、ギリシャ語ではペンテコステと呼ばれています。過ぎ越しの祭りから大麦の収穫が始まり、小麦の収穫も始まるようになりました。七週の祭りは小麦の初穂の収穫祭です。イスラエルでは大麦、小麦の束で祭壇を作り、そこに初穂のものを捧げます。家畜も、人間の子どもも、初穂は皆でその周りを行進していました。そしてこの日はなぜか乳製品を食べるのです。チーズが主体の料理が出てきます。そして、ユダヤ教のシナゴーグでは大麦、小麦の収穫を描写したルツ記が朗読されます。しかし、イスラエルではこの日にもっと大切なことを記念として覚えるようにしています。

イスラエルではこの七週の祭りの日(シャブオット)に、イスラエル人は神から十戒を授かったと信じています。モーセはシナイ山で神から十戒をいただき、民のところに降りてきました。モーセの肌は神の栄光で光を放っていたそうです。そのため、人々はモーセを恐れて、近づけませんでした。十戒というのは律法です。律法はイスラエルの国の法律です。

 

法律(=律法)は、その国を形作るものです。法律を見れば、その国がどんな国であり、何を重んじているかわかります。「国の形」となるためには、皆が納得して決められた法律があり、それを守らなければなりません。

 

日本は本当に天皇を崇拝する国だと思います。10日の土曜日に徳島新聞を読みました。今度、天皇が引退されて、上皇になられるそうです。そして今の皇太子が天皇になり、彼の弟が皇太子になられる、そして、年俸が3倍になり、一億円に近い年俸が支払われるようになる予定です。上皇には上皇手当てがあります。

日本はこのような特質を持った国です。

 

しかし、イスラエルという国は全く違う法律(=律法)によって、新しく生れた国でした。

この十戒を神から直接いただいて、それを守ることによって、「神の民」としての国づくりを始めていったのです。神の直属の国民でした。このような国民は他にはいません。

 イスラエル人はエジプトにいた時は奴隷でした。奴隷は人格を持ちあわせていない、主人の所有物です。ですから、自分のアイデンティティという物を持ちあわせていません。そんな奴隷の集団でした。しかし、彼らは、シナイ山で十戒(律法、法律)をもらうことにより、イスラエルという国になったのです。イスラエルという、神のアイデンティティを持った国になりました。

 ここで、神はなぜ、出エジプト(過ぎ越し)から、律法を与える(七週)まで50日待たれたのかということを考えてみます。過ぎ越しから七週目までの50日間に「何があったのか」と言いますと、マナ(パン)が天から降ってきたことです。これは出エジプト16章にあります。

 

ユダヤ教の教師、ラビ・フォールマン氏は次のように考えています。神である主は、このマナを通して、奴隷としての生き方しか知らなかった人々に、神の直属の国の国民として生きるようになるための準備をしたのです。

かっての主人であったエジプトのパロは、イスラエル人の苦情には耳を貸さず、自分の利益のためだけにパン(食べ物)を与えました。しかし、彼らの新しい主人である神は、民の苦情を聞いて、マナを与えてくださったのです。イスラエル人が空腹になり、リーダーであるモーセに文句を言ったので、神はそれを聞いて、憐れんでマナを与えてくださいました。このことは奴隷であった人々に癒しを与え、新しい国の主人の概念を変えさせるためでした。すなわち、「新しい主人である神は恵み深い」ということを知らせるためでした。

 

マナについて(出エジプト16:13~26)

 

このマナにはいくつかの決まりがありました。それは「簡単な法律」と言ってよいでしょう。

①              1日に一人一日分(一オメル)だけ、集める。②余った分を取り置いてはならない。③安息前には2日分を集め、安息日には集めてはならない。

 

ところが聖書によれば、民は、この教えに反して、一日に1オメル以上集めた人もいたし、少なく集めた人もいました。しかし、1日分の食料として十分にあったというのです。また明日のために多く集め、残しておいた分は、虫が湧いて臭くなりました。安息日前には、マナは多く降り、人々は2日分集めるように命令されました。安息日にはマナは降りませんでした。それでも、集めに出かけた人がいました。このマナに関する法律は誰も破ることができないように、神ご自身がコントロールしておられました。そしてこのマナに関する律法を守るようにしたのち、50日目に厳しい十戒をこの民の法律(律法)として与えられました。

 

七週の祭りは、このようにイスラエル人が、奴隷から神の国の民となり、神の支配のなかにはいったことを記念する祝いの日です。そうして、こののちの時代にイスラエルに来られたのがイエスさまです。主イエスの弟子たちはこの七週の祭りの時、聖霊を受けるという経験をしました。

 

2.神の言葉が人となられた(ヨハネ1:14)

 ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

(ヨハネ1:14)「 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

この十戒を通して、神の人格を現わした国を造られた神は、一人子である、主イエスを遣わし、人間の罪を贖うという神の大きなみ業を成し遂げられました。十字架を通して、人類の罪が赦されました。それは神の愛を余すところなく、現わされ、神の恵と愛、憐れみの故でした。主イエスは十字架の前に「真理の御霊、助け主」を送ると約束されました。そして、主イエスは死んで3日後に復活され、「父の約束を待ちなさい。あなた方はまもなく聖霊のバプテスマを受けます。」と約束され、昇天されました。主イエスは見えなくなられましたが、主イエスの代わりに「真理の御霊、助け主、慰め主」である聖霊を送ってくださいました。これが五旬節の日の出来事です。この聖霊は驚くべき出来事として天から降り注がれました。ペテロはじめ弟子たちはこのように証しました。

(使徒2:33)「 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」

(2:41~42)「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

 2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

ここに、聖霊を通して救われた新しい民ができました。この神の共同体は神の恵みと憐れみの性質を宿した共同体として、この世に生れたのです。これが「教会」です。ペンテコステの日には「教会」が生れました。

 

3.聖霊降臨は新しい神の国、教会、異言

主イエスの時代、十戒は613の戒めになり、律法学者たちによって、苦しめられていました。霊的な閉塞も起こっていました。イスラエルの民は律法によっては救いを得ることができなかったのです。主イエスは生前、「聖霊が注がれると生ける水の川が流れるようになる」と説教していました。五旬節の日に待ちに待った聖霊降臨の日がやってきたのです。

エペソ2:14~18「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

 2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

 2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

主イエスは聖霊を注ぐことによってすべての律法の壁を打ち破ってくださいました。心に律法を書き記すことができるようになったのです。ここに、神直属の新しい民を作ってくださいました。これこそが教会なのです。それはイスラエル人だけではなく、異邦人にも同じ恵みを聖霊の恵みを通して与えてくださいました。

 

4.まとめ

①    ペンテコステの日は偶然来たのではなく、神の御計画がいにしえの日からあり、神はこの日を選んで、聖霊を注いでくださった。それは十戒が授けられた日でした。

②    三位一体の神のアイデンティティの一つは言葉です。私たちの神は言葉を語る神であり、言葉を通してご自分の人格を現わしてくださる方です。聖霊の存在を認識できるように異言を語られるというのは理にかなっています。

③    聖霊降臨によって、すべての律法の縛りから解放され、真に自由とされた。そして、神のみ業が大胆に行われた。しかし、無法ではない。神の愛による統治が与えられた。

④    聖霊降臨によって新しい人が生れ、「教会」という神の国が生れた。十戒によってイスラエルは国として生まれた。しかし、神の教会は聖霊によって生まれた愛と恵の共同体です。

⑤    神は「マナを一日1オメル(2.3リットル)集めなさい」と命令されました。私たちは毎日聖霊に満たされる必要があることをマナの採取から教えられています。毎日、マナを集めるように、主の前に出ていく習慣をつけなければなりません。昨日、たくさん祈ったから、昨日満たされたから、今日は大丈夫ではないのです。かといって、「少ししか祈れなかった、どうしよう」ではなく、その主の前に出た人には少しの時間の交わりであったとしても、十分な一日の満たしを与えてくださる恵みの主なのです。

 

この聖霊降臨を通して、霊の解放としるしと奇跡を行う力強い民が現われ、新しい愛と恵みの共同体が起こされてきました。それはイスラエルの中だけでなく、異邦人である私たちにも与えられるようになりました。ただ、聖霊を通して、この恵みが流れてきました。私たちは感謝して受け取るだけで、神の恵みに満たされるのです。なんという驚くべきことがおこったのでしょうか。(使徒2:17)「神は言われる。終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」と。旧約聖書の時代とは次元の違う時代に生きているのです。それこそ、恵みの時代、救いの日に私たちは生きています。この恵みを大切にして、福音を伝えようではありませんか。

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