阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

ラザロの墓での確信に満ちた祈り

2018-02-05 19:32:50 | Weblog

2018.1.28.ラザロの墓での確信に満ちた祈り

聖書11:1~2、17~21、32~45(11章全体)

題 ラザロの墓での確信に満ちた祈り

暗唱聖句 ヨハネ11:41

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。』」

 

はじめに

先週はイエス様がペテロのために「信仰が無くならないように祈った。立ち直ったら、兄弟たちを力づけてあげなさい。」と励ましの言葉をかけておかれた所でした。私は一週間、このことを考えながら過ごしました。そして、私たちはイエス様が祈られたとおりに、まねをして祈ることが大切なのだということに気がつきました。私たちが霊的に成長するとは「新しい霊の言葉を覚えて、その言葉を使って祈ることだ」と思いました。

小さい子供は家や保育園で覚えた言葉をすぐ使おうとします。使っているうちに、意味がわかるようになり、その言葉が身について、それなりの成長を見ることができます。言葉を覚えないと、成長が遅いとみられます。同じようにイエス様の祈り方をまねることはイエス様の身丈まで成長していくことです。

 

1. ストーリー

 イエス様がなさった最も大きな奇跡は死んだラザロをよみがえらせたことだと思います。

その頃はイエス様に対する意見が二つの方向に分かれていました。一つは、「イエス様は悪霊によってしるしと奇跡をしている。自分を神の子と言って、神を冒涜(ぼうとく)している」というものです。もう一つは、「イエス様はやっぱり神の子であり、父なる神が遣わされたメシアである」という見解でした。

 そういう時にこのラザロのよみがえりの事件が起こりました。

 

 ラザロはマリヤとマルタの兄弟でベタニヤに住んでいました。ここはエルサレムに近く、エルサレムから3キロ離れているだけです。ある日、彼は重い病気になりました。マリヤとマルタはイエス様にラザロの病気のことを知らせましたが、イエス様は、すぐには来ることはできませんでした。用事があったのか、状況が悪かったのか、それはわかりません。ベタニヤから、遠く離れたところにおられたようです。それから2日経ちました。もう一度、エルサレムのすぐ近くにあるベタニヤに行く決心をされました。イエス様はこの3人の兄弟姉妹を大変愛しておられました。弟子たちに「今ユダヤに行くなら殺されますと」と止めましたが、「ラザロを眠りから目を覚ましに行く」と言って、ユダヤのエルサレムを目指して歩き始められました。

 

弟子たちは、ラザロは眠っているなら、目が覚めると思ってましたが、実はラザロは死んでしまったのです。イエス様ははっきりと「ラザロは死んだのです」とおっしゃいました。間に合いませんでした。なんと、ベタニヤについた時は、ラザロが死んで4日もたっていました。4日もたった死人は決して生き返らないといわれていました。マルタもマリヤもイエス様を迎えて、「もし、あなたがここにいてくださったなら、兄弟は死ななかったでしょう。」と言って、激しく泣きました。みんなが泣いているのを見て、イエス様も涙を流してワーッと泣かれました。イエス様は悲しみや苦しみに対して、深い同情を持っておられたのです。

そして、墓に来られました。石を取り除けるように、言われました。マルタは「もう、死んでから、4日にもなっています。臭くなっているでしょう。」と言いました。イエス様は言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、私は言ったではありませんか。」そこで、人々は石を取り除けました。イエス様は目を上げて言われました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかし、わたしは回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申し上げたのです。」そして、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出てきなさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで、出てきました。彼の顔は布切れで包まれていました。イエスは言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人たちが、イエスを信じました。そうでない人たちもいましたが。・・・

 

2. 御心に調和した祈り

イエス様のしるしと奇跡を見た人々は素晴らしい出来事なので、否定できませんでした。そこで今度はサタンの力を使って奇跡をしていると言いふらしました。イエス様は天の父に祈ることにより、上からの力で、神の御業が起こったと大胆に言い続けられました。

今回も、父なる神にお祈りされています。

ヨハネ11:41~42「11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

 11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

 マルタはもうラザロの肉体は腐っていると思いました。しかし、イエス様は「わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。」と祈っておられます。イエス様はラザロがよみがえると100%確信をもって祈っておられます。

それはなぜでしょうか。それは、4日の間、イエス様は神様と個人的な祈りの交わりをしておられました。そして、ラザロのために特別に祈られたのです。その祈りの中で、ラザロは死んでいた状態ではあっても、いやされ、腐ることもなく、ただ、イエス様の「ラザロよ。出てこい。」という言葉を待つ魂の状態で、待機していたと考えられます。この祈りが神のみ心と一致をしていたために、祈りが聞かれたのです。「腐らないでいた」ということも驚きです。

「いつも、わたしの願いを聞いてくださる」とイエス様は言われました。ですから、いつも個人的な父なる神様との交わりの中で、永遠の神の御心に一致する祈りをしておられたのだと思います。神の目的に一致した願いはどんなことでも聞いてくださるのです。

 

(ヨハネ15:7)「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

 

わたしたちに必要なことは自分の願いが、神の御心と一致し、祈りが神の御心と調和しているかどうかを確かめることです。自分のお願いしていることが神の御心だということがわかるまでは、隠れたところで祈り続けなければなりません。このことが大切です。確信が与えられたなら、公の場では短い祈りをすることができます。

 

3. 確信に満ちた感謝の祈り

イエス様はお墓の前で祈りました。そこには不信仰なユダヤ人たちがたくさんいました。イエス様は天を見上げて、全能なる神に向かって「父よ」と祈られました。それは、イエス様がなされるしるしと奇跡が神様からのものであることが、彼らにわかるようになるためでした。イエス様は回りにいる群衆の信仰が天の神の力によって大きくなることを願っておられました。祈りの結果はすぐに現れました。4日前に死んで、墓に葬られていた人が墓の穴から出てきて、彼らの前に立っていたからです。

イエス様は「ラザロが生き返るように」とは祈られませんでした。「生き返るように」という祈りは、ベタニヤに着く前に終わっていたのです。墓に着いた時には彼が生き返るという確信に満ちていました。心には疑いがなかったのです。100%、父なる神への信頼に満ちていました。ですから、ここでは「感謝」するだけでした。

「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。」と祈られたのでした。イエス様の心にあったのは感謝だけでした。

神の子供であるクリスチャンに大切なことは確信をもって感謝することです。①祈りの中で御心を確信する。確信が来るまで隠れたところで祈る。②感謝のうちに霊的に養われる。③神の時が来た時に、その願いが成就する。この3段階のプロセスを体験することが大切です。

ラザロが生き返っただけではありませんでした。回りにいた多くのユダヤ人も生き返ったラザロを見て、イエス様が神から遣わされた方であることを信じました。「わたしは回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申し上げます。」と祈られた祈りも聞かれたのです。

しかし、信じない人々もいたことは事実です。

そういう人はいつも祈りの結果を別の目で見るのです。否定的な目で見ます。この時は祭司長とパリサイ人たちが議会を招集して言いました。「私たちが何もしなければ、みんながあの人を信じてついて行ってしまう。そうなったら、ローマ人がやってきて、我々の土地も国民も奪い取ることになる。」ローマ人とイエス様は関係ないのに、ローマ人に支配されるのを主イエスのせいにしています。疑い深い人や悪いことを行う人はこのような否定的な反応を見せることがあることを覚えておき、動揺しないにしましょう。世の中には自分を支持してくれる人が半分、支持してくれない人が半分いると思ったらよいでしょう。

 

4. まとめ

(ヨハネ11:41~42)「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

 11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』

 

①   イエス様はまず父なる神に感謝をささげられました。私たちも祈りの初めは感謝をささげましょう。

②   イエス様は確信をもって祈られた。疑いはありませんでした。なぜなら、それまでもたくさんの祈りを聞いてくださったからです。今までの祈りの答えにも、感謝しておられます。(詩篇103:1~5)「103:1 わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

 103:2 わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

 103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

 103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」

 

③   イエス様の祈りは神の御心と一致していました。私たちも祈っている願い事が、御心にかなうものであるかどうか、隠れた場所で、吟味する必要があります。御心にかなう祈りは聞かれるのです。すぐに答えが来なくても、神の時が来たら答えられます。確信が与えられるまで、隠れたところで祈り続けましょう。

④   栄光を主に帰する祈りをする。恥はわがもの、栄光は主のものです。

神がなさった働き、御業であることがわかるように祈ります。イエス様は天の神がラザロをよみがえらせてくださったことがわかるように「父よ」と呼びかけておられます。その結果、

多くのユダヤ人が主イエスを信じました。しるしと奇跡の結果、宣教の業が進展するように祈ることです。

 

証:ガジマ先生の教会での証

アフリカのタンザニアのガジマ先生の教会では、死人が数多く、よみがえり、その結果、リバイバルが起こっています。その発端は一人の婦人が自分の子供が病気になって、治らなかったので、最後にキリスト教のガジマ先生のところに連れて来ました。ガジマ先生は子供を部屋において祈られましたが、気がついた時には、子供は死んでいました。先生もびっくりしてオロオロしました。村人から殺されると思いました。思った通り、お母さんは半狂乱で叫びだし、村人たちは叫び声をあげて、立ち向かってきました。

しかし、その時、神がガジマ先生に子供のために祈るように導かれました。神に導かれて祈ったとき、祈りが聞かれて、その子供は生き返ったのです。今度は村人から「神様扱い」にされました。

ガジマ先生はすぐさまこの御業は天の神の御業であり、復活のイエス・キリストの働きであることを証ししました。自分が生き返らせたのではなく、イエス様であることを証したのです。それから、この教会に神のご臨在があり、なん百人という人々が生き返っているというのです。終わりの時代には「死人がよみがえる」という予言がありますが、今や、そういう時代です。

私たちの教会にもしるしと奇跡が起こるように祈りましょう。

まずは、主がともにおられることを感謝しましょう。そして、祈りを聞いてくださることを感謝しましょう。主の栄光があらわされるように祈りましょう。恥はわがもの、栄光は主のものです。