百花猫乱

 植物園の特設会場に作られている花の回廊です。ビニールハウスの中には、もうすぐやってくる春を先取りした色とりどりの花がびっしりと並べられていて、ハウスの入り口に近づいただけで、中の花いきれがむんむんと感じられます。
 一足先に、春の風をいかがですか。

ポストカード「春のお便り~百花猫乱」のダウンロードはこちらです。

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浅蜊

 買った浅蜊を塩水につけて、いまはじっとしているけれど、しばらくすると貝の足が出てくるよと息子に教えたら、見てみたいと言う。すぐには出てこないから、出てきたら教えてあげると言っても、はじめから見ているのだと言って聞かないので、一緒に観察することにした。
 二人してテーブルの前に座って、ボウルの中の浅蜊をじっと見るのは根気のいることだと思ったが、しばらくすると、塩水の底に沈んでいる貝のあいだのところどころから、小さな泡がぷくぷくと昇り始めた。
 そして、ときどき音はしないがごと、と動く。前にテレビでダイナミックに泳ぐ二枚貝の映像を見たことがあるけれど、そこまでではないにしろ、普段は口を閉ざして石ころみたいに見える浅蜊も水の中でこっそり動いている。
 浅蜊の模様は千差万別で、人間の顔や指紋みたいに、ひとつとして同じものはないのだろうと思う。貝をがらがらとこすり合わせて洗っているときに、そっくりな模様の貝を見つけると、兄弟して捕まってしまったかなどと考える。粋な着物の柄のようなきれいな模様の貝を見つけたときには、中身を食べたあとに殻を取っておこうといつも思うのだけれど、火にかけて貝汁にすると、色がくすんで、どれも同じようになってしまうように思われる。
 ボウルの中の浅蜊たちは環境に慣れたものから順に、固く閉ざしていた口を少しずつ開いていく。五十ばかりの浅蜊が入っているのだけれど、個体差がずいぶんあるように思う。慎重なのはいまだ一分の隙間も開いていないが、いい加減なのは早々と口を開けて管や足を出している。
 入水管と出水管が開いたり閉じたりして、塩水が貝の中に入ったり出たりしているのがわかるようである。そういう貝の動きを息子とじっと観察していたら、貝って可愛いねと息子が言った。可愛いなどと言われては、煮て食べるのが可哀相に思えてしまうかしらと思ったが、そのあといつもどおりに殻を洗って鍋を火にかけたときには、もう何とも思わなかった。


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またたびコーヒー飲んだなら(「ネコカフェ」5分後)

「またたびコーヒー」飲んだらどうなるの・・・カゼクサさんの疑問におこたえしま~す。

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ネコカフェ

ちょっとコーヒーブレイクです。

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京の朝市

 この土曜日と日曜日に平安神宮のあたりで「京の朝市」という催し物が開かれて、平安神宮の門の前と岡崎公園に京都の名産品を売る店がたくさん出て、大道芸の披露なんかもあるというから、近くを通ったついでにのぞいてみた。
 「朝市」という名前がついてはいるが、開催時間は朝の9時半から夕方の4時までで、私が訪れたのは午後3時ごろだったのだけれど、小雪の舞う寒さのためか、岡崎公園内に出ていた店はもう早々と閉めていて、赤や白のテントがぱたんぱたんとどんどん畳まれていた。
 拍子抜けがして、平安神宮の前のほうへ行ってみると、こちらはまだ割合に人出があって、広場の両側に並んだ店も開いていた。門の階段の上に作られた舞台に、鉢巻にたすき掛けの、ちょんまげをした侍がちょうどでてきたとこらしく、前に人だかりができていた。しばらく見ていると、別の侍や髪を結い上げたお上さんも登場して、門の朱に塗られた柱の周りをぐるぐると走り回った。人だかりの中には外国人観光客も多くいたが、とくに外国の人にとっては、ああいう時代劇は面白いだろうと思った。
 私が行ったのは土曜日だったが、日曜日はさらに寒くて大雪が降った。日曜日には太秦の映画村から俳優が来て新撰組なんかをやる予定であったらしいけれど、さぞかし大変だったろうと思う。


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にゃあ、すぽ

 みゆちゃんの好きな場所のひとつが、洗濯物を部屋干しするときのスタンドの上である。当然、洗濯物が乾きやすいようにエアコンの風のよくあたる場所に置いているから暖かい。一気に飛び乗ったり、ジャングルジムみたいに下の段からよじ登ったりするのだが、登りきると、あごを上げ尻尾をぴんと立て、上機嫌でこっちを見るので、頭や背中、お腹をなでてやると、ごろごろ喉を鳴らしている。
 物干しスタンドの細い棒の上を上手に歩くのだから、猫の運動神経には本当に感心するけれど、猫も時々は失敗する。干している洗濯物の上にのせた足が滑って棒と棒のあいだにずり落ちると、体勢を立て直そうと不細工な格好であたふたしている。
 この前は、にゃあ、という掛け声とともに飛び上がったのはいいが、着地したのがちょうど足場のしっかりしないバスタオルの上で、そのままタオルと一緒に、棒と棒のあいだにすぽっとはまり込んでしまった。
 その「にゃあ、すぽ」というのが可笑しくて、たまたまその場に居合わせた家族全員が、2歳の息子まで一緒になって、「にゃあ、すぽ、にゃあ、すぽ」と言って大笑いした。もしもこれがプライドの高いネロだったなら、きっと必死に毛繕いをして失敗を誤魔化そうとしたことだろうけど、みゆちゃんは笑われてもなんとも思わないのか、いたって平気な顔をしている。


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家猫ポチ

 実家の外猫ポチは、近ごろ家の中で過ごす時間が長くなっている。以前は、家の中に入れようとしてもあまり入りたがらなかったのに、遠慮していた内猫のネロがいなくなったからか、去年若い雄のタマが外猫の一員に加わったから外の居心地が前ほどよくなくなったのか、老体に家の中の暖かさが心地よくなったのか。
 5、6年ほど前に家にやってきたポチは年齢不詳であるけれど、毛並みなどあまりよくないから、それほど若くはないだろうと思う。猫は、人間ほど寄る年波が顔に出ない。何年か前に20歳で大往生を遂げた散歩道のクロちゃんは、私が相手をしていた頃すでに16、17歳になっていたのだろうけど、そんなことは微塵も感じられず、あとから年齢を知って驚いたくらいだから、ポチもそれなりに年を取っているのかもしれない。家に来たときに比べると、近ごろ、体格が少し頼りなさげになった。
 おじいさん猫だけれど、甘えん坊である。ポチ用のピンク色の毛布をよく両前足で揉み揉みしているから、毛布の手触りからお母さん猫の柔らかいお腹を思い出して、子猫に戻った気分なのだろう。そういうときに背中をなでてあげると、「うにゃー」ととても甘えた声を出す。
 新聞を読む母の横に座ってこっちを見ている目が、照明が薄暗いので黒目がちになって、周りの顔の毛がばさばさしているぶん、よけいに瑞々しくきれいに見える。呼んで欲しいのだろうと思ったので、ポチ、ポチと呼ぶと、いつもはそんなことはしないのに、珍しく机の上に上って私の座っている前にまで渡ってきたが、私の横にはすでにデビンちゃん用の猫ベッドが場所を占めていて、ポチの寝られそうな隙間はなかったので、そのままUターンして、母が机の上に広げている新聞の、ちょうど母が目を落としている記事の上に座り込んだ。
 仕方がないので母は読むのをあきらめたが、みんなに愛されているポチである。


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ポータブルちゃめ

 父はトラ猫のちゃめをひいきにしているが、ちゃめのほうも父に一番懐いていて、少々大げさに言うと、もう片時も離れたくないというほどである(実際には、ベランダなどで自由気ままに遊んでいるときもある)。
 父が二階の居間へ来て、なかなか下の自分の部屋へ戻らないときなど、ちゃめが迎えに来る。階段へ続く扉の前に座って、早く戻ろうよとじっと見つめている。父が留守をすると、どこへ行ったかしらと探し歩いて、見つからないとつまらなそうにしているから、ちゃめのことが気にかかって、父はなかなか長時間家をあけることが出来ない。
 そんなちゃめのために、父は、買い物かごを少し浅くしたような手提げのついたかごに座布団と毛布を敷きつめて、移動式ベッドを作った。さすがに外出にまでは連れて行けないけれど、二階へ来るときなどは、ちゃめの入ったかごを手に提げて上ってくる。テーブルの上にかごを置くと、ちゃめは毛布の下から顔だけをちょっと出して、丸い目をしてあたりをうかがっている。
 相思相愛の二人であるが、移動式ベッドの中で気持ちよく眠ったちゃめは、父が眠る頃にすっきり起き出して、寝ている父の身体の上を足元から胸のあたりまで歩いてみたり、ドライフードの入った箱をひっくり返してじゃらじゃらと大きな音を立てたりするから、父はこのところ寝不足気味である。


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アシナシイモリの真実

 だいぶ前に、鞍馬山のアシナシイモリという話を書いたけれど、そのあと、よくよく調べてみたら、どうもアシナシイモリという生き物は熱帯地方しか住んでいなくて、日本はその生息域から外れているらしい。
 そもそも、私があの巨大なミミズのような生物をアシナシイモリと認識したのは、砂防ダムの小さな池の砂地にゴムのチューブみたいな身体が半分埋まっていたのを、釣りをしていた少年がアシナシイモリだと言ったことが始まりで、今から思い返してみれば、甚だ心もとない理由による。
 さらに調べてみると、一口にミミズをいえども、いろんな種類があって、私がアシナシイモリだと勘違いした青い縞の入った生き物は、シーボルトミミズという大きいタイプのミミズであるらしい。
 両生類のアシナシイモリだと思い続けていたものが、実はミミズであって、少しがっかりなのだけれど、今までミミズといえば、庭の土をほじくり返したりしたときに出てくるような、ひょろっと細長い、赤っぽい色のミミズしか知らなかったので、30年以上生きていても、身近な生物であるミミズのことさえ、まだまだ未知のことが多いものだと思う。


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川端康成と東山魁夷

 川端康成と東山魁夷。二人の美の探究者のあいだに交わされた往復書簡や言葉をもとに、魁夷の作品を見つめなおすというユニークな展覧会が、京都文化博物館で開催されている。
 東山魁夷の展覧会はだいぶ昔に一度見たことがあるけれど、その頃はまだ子供だったためか、彼独特の青い絵や白い馬のみが、鮮烈に印象に残っていた。だから、今回の展覧会に出されていた魁夷の「青くない」作品は、まず自分にとって新鮮であった。
 それから、魁夷の画面の切り取り方にはっとさせられた。たとえば、「京洛四季」という京都を描いた連作があるのだけれど、大徳寺では寺の塀、桂離宮では敷石というように、素人が思い描くようなその名所の特徴的な風景というよりはむしろ、何気ない一こまが切り取られ、描かれている。そして、その一こまがどれも美しい。魁夷の目が捕らえたその小さな一部分に名刹や離宮の美が凝縮されているかのようである。
 川端康成と親しく交流していた魁夷が、康成の文化勲章のお祝いに贈った「冬の花」という北山杉を描いた作品も展示されていた。私には、杉ばかりが植えられて何の面白味もないように見える北山の風景が、魁夷の目を通せば、こんなにも美しいモザイクの文様のような絵になるのだと思った。
 上の「京洛四季」は、「京都は今描いといていただかないとなくなります」という康成の提言を受けて、魁夷が描いたのだという。山が見えなくなった京都は京都ではない、ということも康成は言っていた。今の京都は、醜い建物が好き勝手に立ち並んで、もはや康成が書き、魁夷が描いた京都ではない。彼らの愛した古都の風情がこの街に戻る日が来ればいいと思う。


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