福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

光と歌の大伽藍 ~ パッパーノ&聖チェチーリア音楽院管のブルックナー

2023-02-02 00:16:21 | コンサート


ハンブルク滞在最後の夜に、愛すべきエルプフィルハーモニーで、このような素晴らしいブルックナーを聴けたことは、本当に幸せなことである。

今宵はパッパーノ&聖チェチーリア音楽院管のハンブルク公演2夜目。初日の昨夜は、プロコフィエフ「古典交響曲」、ラヴェル : ピアノ協奏曲、シベリウス「5番」というプログラムで、ピアノ独奏は、アルゲリッチの代役としてヴィキングル・オラクソンであった。昨夜は驚愕の天才オラクソンに尽きた。それについては改めるとして、いまはまずブルックナーを語りたい。

実のところ、パッパーノには甚だ失礼ながら、今宵の演奏には大きな期待をしていなかった。というのも、昨夜のシベリウスが、わたしには余りにエネルギッシュで力強過ぎたからである。パッパーノの指揮もフォルテになると力んだり、足を踏みならしたりで、シベリウスに求められる透明な詩情、冷たくな張り詰めた空気感などと全く無縁だった。「ブルックナーにも、こんなに力尽くで臨むのだろうか?」と危惧してしまったのも無理はないのである。

ところが、ブルックナーの音楽がそうさせたのか、今宵のパッパーノには、無駄な力みも、これ見よがしな効果狙いも皆無。目の前には、ブルックナーの美にひたすら献身する音楽家が居るばかり。

彼らのブルックナーを、独墺系のオーケストラと大きく隔てるのは、イタリアならではの艶やかに輝くサウンドと陰影のあるカンタービレである。それが、ブルックナー作品の中でも息の長い歌のつづく「7番」の美を最大限に引き出していた。光が眩いほど影も深い。儚く揺れたかと思うと強く押し寄せる歌の波、至福の音楽。

しかし、カンタービレという横軸だけでこの演奏を語るべきではなかろう。今宵の演奏の真価は、プロテスタントの質実剛健とはまったく異なる、贅を尽くしたカトリックの大聖堂のようであった点にある。即ち、まるでバチカンのサン・ピエトロ大聖堂を思わせる巨大で堅牢な造形と大理石のような艶やかな質感に優れていたのだ。ブルックナーの音楽はよく音の大伽藍に喩えられるが、今宵のブルックナーほどそれを感じたことはない。このアプローチが、遠い存在に思われがちなイタリアとブルックナーを一気に結びつけた。

言い方を変えるなら、パッパーノと聖チェチーリア音楽院管は、ブルックナーが、紛うことなきカトリックの音楽家であることを、強烈に印象づけたのである。彼らの演奏から、ライプツィヒのトーマス教会を想起する者はなかろう。

昨年12月に聴いたティーレマン&ベルリン・シュターツカペレとの「7番」とは、まるで違っていながら、それぞれに大きな感動があった。ブルックナーの音楽の仰ぎ見るような偉大さを改めて感じた夜であった。







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「ムツェンスクのマクベス夫人」に打ちのめされる

2023-02-01 10:50:47 | コンサート


ショスタコーヴィチ「ムツェンスクのマクベス夫人」
指揮: ケント・ナガノ
演出:アンジェリーナ・ニコノーワ
カテリーナ: カミラ・ニールンド
セルゲイ: ドミトリー・ゴロヴニン
ボリス: アレクサンダー・ロスラヴェッツ
ジノーヴィ: ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー
ソニェートカ: マルタ・シヴィデルスカ
アクシーニャ: キャロル・ウィルソン

ハンブルク州立歌劇場で鑑賞した4公演のうち、強く印象に残ったのは、1月25日(水)と28日(土)の「ムツェンスクのマクベス夫人」である。このプロダクションを観られただけでも、ハンブルクを訪れた意味があった! 充実したキャストと読み替えなしの正統的な演出(ここ、とても大事!) - しかも、洗練されている ー によって、心よりの満足と興奮を味わった。

どのシーンも絵的に美しい。まさにこれだけでも第一級の芸術作品。そして、時折、背景に投影されるビデオの何と効果的だったことか、と思って、ニコノーワのプロフィールを調べてみたら、彼女は著名な映像作家でもあり、プロデューサーでもあることを知り、成る程と合点した。

歌手では、カテリーナの移ろう心情を圧倒的な声と芝居で表現し尽くしたカミラ・ニールンドに心を奪われた。その声を聴くだけで、カテリーナの寂しさ、心の飢え、愛欲、絶望が胸に響いてくる。この公演後4日経つのに未だに我が胸に余韻が燻っているほどだ。

セルゲイ役のドミトリー・ゴロヴニンも、このどうしようもない男の性を、輝かしくもヤクザな声で歌いきった。立ち居振る舞い、顔つき、全てがセルゲイであった。

また、セルゲイが心を移すソニェートカ役、マルタ・シヴィデルスカは、ポーランドの若きメゾ・ソプラノ(と言っても年齢は知らないが・・)で、その美しさと深く豊かな声で、聴衆の心を掴んだ。そして、ストッキングをねだったり、履いたりするとき、また、セルゲイと抱き合うときに見せた生足の美しいこと! また、この見せ方(演出)が心憎い。 

ところで、アクシーニャ役はどこかで観た姿と思ったら、ヤンソンスによるネーデルランド・オペラのDVD (ライヴ)でも歌っていたキャロル・ウィルソン。はまり役なのだろう。今回は衣服を剥がされるような暴力的な演出でなく、ホッとした。



この優れたプロダクションは、「音による心理描写にかけて、ショスタコーヴィチはモーツァルト以後最高のオペラ作曲家ではないか?」
を改めて思わせてくれた。

「ムツェンスクのマクベス夫人」がスターリンの不興を買ったことで、以後、ショスタコーヴィチにオペラを書く機会の生まれなかったことは、大きな損失だった。でなければ、5年後、10年後にどんな大傑作が生まれていたことか!














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