せっかく、ガンダムOOも始まった事なので、この機に過去のガンダム作品を総括してみようと思う。
例によって、カテゴリー毎に100点満点で私的採点してみました。
機動戦士ガンダム
作画:☆☆(2点)
脚本:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
テーマ性:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
演出:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
設定:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
独創性:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
楽曲:☆☆☆☆☆☆☆☆(8点)
キャラクター:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
声優:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
個人的趣向:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
総合:90点
【批評】
今や伝説となった1stガンダム。
私ごときが語るまでもないが、この作品はアニメの歴史を変えた傑作と言えるでしょう。
それまで勧善懲悪が主流であったアニメ界において初めてリアルロボットの概念を導入した作品。
それは製作者側にとっては冒険だったと言えるのかもしれません。
ゆえに、この作品の素晴らしいところは敵味方を含めて全てのキャラクターが魅力的な点にあると思う。
赤い彗星のシャア、昔堅気の職人ランバ・ラル、大西洋に散ったミハル、悲劇のニュータイプ・ララァ等。
そして、ニュータイプとは主人公の存在する世界だけでなく、主人公以外の脇役も含めた人達の存在する世界を認識できる能力の事を指すのでしょう。
終盤、ララァとの邂逅でその能力に覚醒したアムロのコロニーレーザー発射時の絶叫やア・バオア・クー脱出時の仲間への進路誘導等はその最たる例かと。
このニュータイプの能力は人の進化の希望として作中で肯定的に描かれ、アムロとララァの交流を生む事にもなります。
しかし、そこに非ニュータイプのシャアが割って入った事によって大きな悲劇を生む事が描写されました。
ニュータイプは所詮、生身の人間を交えた場合、その能力に限界を来たすのだ、と。
しかし、最終的にはこの能力が人の進化の希望として描写される事で物語は幕を閉じます。
確かに、時としてニュータイプの能力は悲劇も生み得るが、その能力で救えたホワイトベースの仲間もいるのだ、と。
だからこそ、「まだ僕には帰れるところがある」というラストのアムロの台詞が重く響くのです。
機動戦士Zガンダム
作画:☆☆☆☆(4点)
脚本:☆☆☆☆☆☆☆☆(8点)
テーマ性:☆☆☆☆☆☆☆☆(8点)
演出:☆☆☆☆☆☆☆☆(8点)
設定:☆☆☆☆☆☆☆☆☆(9点)
独創性:☆☆☆☆☆☆☆☆(8点)
楽曲:☆☆☆☆☆☆☆☆☆(9点)
キャラクター:☆☆☆☆☆☆☆☆☆(9点)
声優:☆☆☆☆☆☆☆☆☆(9点)
個人的趣向:☆☆☆☆☆☆☆☆(8点)
総合:80点
【批評】
良くも悪くもガンダムシリーズの地盤を作った作品。
この作品において最も魅力的なキャラクターはシャア・アズナブル。
過去の人間関係(特にララァ、ハマーンとの関係)を清算できず、未来に目を向けられない姿は非常に痛々しく共感できるものがあります。
大人になりきれない大人であるシャアに対して容赦なく「大人である事の現実」を突きつけてくる青き激情を持ったカミーユという構図は個人的にかなり好きでした。
また、この作品では初代ガンダムで描写された希望たるニュータイプを主人公の精神崩壊という形で絶望的存在に落とします。
その理由は、生身の人間関係はニュータイプの能力では清算できないという事を描きたかったからではないかと個人的に推測しています。
ニュータイプは人が進化するための希望ではない、と。
ニュータイプとしての能力が肥大したシャアやカミーユの苦悩はそこから生まれるのではないかと。
また、作中で理解不能な行動を取るエキセントリックボーイたるカミーユですが、彼と周囲の人間関係を「家族」という枠で捉えると分かりやすいかと思います。
父=シャア、母=レコアといった感じで。
中盤、レコア失踪時にシャアに殴りかかるカミーユの姿は、正に母を奪った父への怒りを表現していました。
両親を失ったカミーユが求めていたものは、例え、擬似でもあっても家族の絆だったのか、と思うとやるせなくもありますが…。
機動戦士ガンダムZZ
作画:☆☆☆☆(4点)
脚本:☆☆☆☆☆(5点)
テーマ性:☆☆☆(3点)
演出:☆☆☆☆☆(5点)
設定:☆☆☆☆☆☆(6点)
独創性:☆☆☆☆☆☆☆(7点)
楽曲:☆☆☆☆☆☆(6点)
キャラクター:☆☆☆☆☆(5点)
声優:☆☆☆☆☆☆☆(7点)
個人的趣向:☆☆☆☆(4点)
総合:52点
【批評】
「明るいガンダム」を銘打ったシリーズですが、序盤の展開は無理矢理明るくしていただけのように思えました。
特に主題歌の「アニメじゃない」はその無理矢理感が如実に表れており、とてもZガンダムの続編とは思えないノリで拍子抜けしてしまった次第です。
流石に後半はシリアスになりましたが、無理矢理感の強い前半のノリを引きずってしまい、あまり楽しめなかった。
何せ後半も前半のギャグキャラ達を無理矢理シリアスキャラに置き換えただけなのですから…。
Zガンダムのような訳の分からなさは無いので、どちらかと言うと、一般受けしそうなのですが、その訳の分からなさがガンダム特有の魅力でもあるので、ガンオタ的には物足りなくもありました。
ちなみに、『重力下のプルツー』は名シナリオなので一見の価値はあるかと思います。
機動戦士ガンダム0080-ポケットの中の戦争-
作画:☆☆☆☆☆☆☆☆(8点)
脚本:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
テーマ性:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
演出:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
設定:☆☆☆☆☆☆(6点)
独創性:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
楽曲:☆☆☆☆☆☆(6点)
キャラクター:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
声優:☆☆☆☆☆☆(6点)
個人的趣向:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(10点)
総合:86点
【批評】
痛みを知った少年は優しさを覚える。
兄のように慕っていたごく普通の純朴な青年と姉のように慕っていた隣の家のお姉さんが殺し合う。
戦争とはそういう異常な空間を作り出す理不尽極まりないものであるという事を見事なまでに描き切っています。
この作品が泣けるガンダムの筆頭に挙げられる理由は、登場人物が皆、「イイ人」だからだと思います。
ちょっと頼りないが純朴すぎるバーニィを始め、気は強くとも心は広くて優しいクリス、渋くて仲間思いのサイクロプス隊の面々等、ジオンの一部の高官を除けば、本当に「イイ人」しか見当たりません。
だからこそ、戦争の残酷さと理不尽さが浮き彫りにされるのでしょう。
そういった普通に生活している「イイ人」も戦場では兵士となって人殺しをしなければならない、と。
作中でバーニィやクリスの日常生活が描かれたのも、日常と戦場を対比させる事で、戦争の非日常性を視聴者に強く印象付けたかったからなのではないかと思われます。
また、この作品のテーマの一つは「真実と嘘」だったのではないかと思います。
第5話『嘘だといってよ、バーニィ』では、バーニィがシュタイナーに思いやりのある嘘をつき、アルにはひよっこである真実を明かし「嘘だ!」と罵られ、恋人との喧嘩で「嘘を言い通す根性も無いくせに!」と叫ぶ女性の言葉に、遂にガンダムと戦う覚悟を決めたり、と「真実と嘘」をキーワードに物語が回っていたように感じました。
バーニィの最後の嘘は「生きて帰ってくる」という一言。
この時点で彼が死を覚悟していたというのが泣ける。
アルに対する思いやりのある嘘ですな。
そして、バーニィの死後、アルの手元に遺されたビデオレター。
「俺が死んでも連邦軍の兵士やガンダムのパイロットを怨まないでくれ」の一言にとても心打たれました。
どこまでイイ奴なんだ、と。
そして、この作品の最大の泣き所はアルとクリスの別れのシーン。
アルはクリスがアレックスのパイロットである「真実」を知っているのですが、「バーニィもクリスとの別れを残念がると思う」と思いやりのある「嘘」をつくのです。
このシーンでついに私の涙腺も決壊した。
思いやりのあるバーニィの魂がアルに乗り移り、思いやりのある嘘をつかせる事になる。
バーニィの死という「痛み」を通して「優しさ」を覚えたアルの姿がそこにはありました。
ラストの校長先生の話にバーニィの事を想い、堪え切れず泣き出すアルの姿に更に涙しました(泣)。
校長先生の話はどこにでもある一般論なのですが、その一般論の中にバーニィという“かけがえのない存在”が埋もれてしまう事がアルにはたまらなかったのだと思います。
戦争の本質を知り、生命の尊さを知ったアルだからこそ理解できる「痛み」なのではないかと。
また、状況を理解できない友達がアルを慰めるのですが、この演出で戦争の本質を知ったアルと戦争を全く理解できていない友達とを強烈に対比させる事で、序盤、MSを見て大はしゃぎしていたアルの成長を端的に表現していました。
アルの姿は戦争を知らない我々そのものであり、この作品は我々に戦争の残酷さ・悲哀を強く訴えかけているのではないかと思う次第です。
機動戦士ガンダム0083-STARDUST MEMORY-
作画:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ (10点)
脚本:☆ (1点)
テーマ性:☆ (1点)
演出:☆ (1点)
設定:☆ (1点)
独創性:☆ (1点)
楽曲:☆☆☆☆☆☆☆☆ (8点)
キャラクター:☆ (1点)
声優:☆☆☆☆☆☆☆☆ (8点)
個人的趣向:☆ (1点)
総合:33点
【批評】
史上最悪のテロリスト集団の絶対的な悪を絶対的な正義として描写した作品。
この作品の実質的な主人公であるガトーはただのオナニー野郎です。
しかも、周囲に多大なる迷惑を撒き散らしているので非常に性質が悪い。
新しい時代が到来しつつあるというのに、腐れたイデオロギーに固執し周囲に当り散らすその生き方は非常にみっともないです。
また、彼らが執拗に掲げる「大義」ですが、これがあまりにも薄っぺらで空虚です。
と言うのも、彼らの行為がコロニー住民を始めとする一般市民の誰からも支持を受けていないからです。
にもかかわらず、億単位の人間の生命を奪うコロニー落としを身勝手な信念やら大義で正当化するというのは、もはや狂っているとしか言いようが無い。
こういうどうしようもない輩を否定的に描くのであれば分かりますが、この作品ではこいつらを演出面で完全に「勝ち組」にしています。
まず、ガトーの薄っぺらな大義を隠蔽するための噛ませ犬としてひよっこのコウ・ウラキを名目上の主人公に据えました。
また、連邦軍側の登場人物に高慢で悪人面な高官を揃える事で、「連邦軍=悪」を殊更に強調し、デラーズ・フリート側のテロ行為を正当化しようとした。
極めつけは、ガトーの死後、Zガンダムにおける巨悪の象徴であるティターンズの制服をアルビオンクルーに着せるという演出で「巨悪に抵抗した英雄のデラーズ・フリート」という構図を作り出し、彼らの薄っぺらな大義を完全正当化させました。
つまり、この作品は連邦の腐敗を描いたのではなく、ジオン残党の悪を正当化したに過ぎないのです。
この作品においてまともなキャラと言えば、シーマだけでしょう。
デラ-ズ、ガトーといった腐れたイデオロギーに固執する輩に汚れ役を押し付けられた事で彼らの腐れたイデオロギーを批判していましたし、一般市民毒殺を夢でうなされたりと、無差別大量虐殺のコロニー落としを薄っぺらな大義でもって平然と正当化するデラーズ・フリートの連中に比べれば遥かにまともな感性を持っていると言えます。
後のSEEDシリーズにおけるテロ肯定描写の前例を作った事を考えてもこの作品の罪は非常に重い。
この作品が一定の評価を得たという事は日本の戦後民主主義は失敗だったという事なのかもしれませんね。
ガンダムをなめんなよ。
とりあえず、初期ガンダムシリーズの評価はこんな感じです。
その2に続く(と思う…)。