葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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杭に縛られた捕虜を銃剣の的「五十年目の伝言」から

2017年04月12日 | 「五十年目の伝言」から
ブログ記事『戦後50周年記念新宿平和文集「五十年目の伝言」』の中に『私の軍隊生活と経歴 小俣佐夫郎』をエントリーしてありますので、是非ご訪問下さい。。
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捕虜処刑
 廟下の線路に八路軍が出没したとの情報で六名で出撃したが既に敵の姿はなく、昼前に帰隊した。
 横井中隊長に呼び出された(久原中尉は日本に帰国)。そこには掘江曹長も下を向いて立っていた。何か日頃の様子と異なり、隊長の口許も厳しいものを感しさせた。それは、本日朝食後に八路軍捕虜七名を処刑したので、兵舎の西側の堀に死体を処理するように、との指令だった。
 初年兵教育も終了し、実技への訓練として兵舎南堀の中で、杭に縛られた捕虜を銃剣の的にさせたのである。捕虜の上半身は蜂の巣のように銃剣で突き刺きれている。顔、頭を利きれているのもあった。初年兵も刺す時ふるえて目をつぶって刺したのだろう。
 杭から縄を切って死体を運ぶ段になって小倉上等兵は、余りのむごたらしさに、「俺には出来ない」と言い出した。だが上官の命令には従わぎるを得なかった従事したわれわれ六名は皆昼食はのどを通らなかった。
 埋めた死体は翌朝は農民の手によって掘り返され、何処かに持ち去られていた。
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