桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

諏訪神社から前ヶ崎城趾へ

2009年10月11日 23時15分28秒 | 歴史

 柏市の豊四季というところに、源義家公所縁の神社があると知って、久しぶりに歴史探訪に出かけました。



 柏で東武野田線に乗り換えて最初の駅・豊四季で降りました。「とよしき」という駅名は何か由緒ありげで、どんなところなのだろうと前から気になっていましたが、なんということはない駅でした。

 駅前を出ると、県道柏流山線です。大きな伽藍が見えたので立ち寄ってみると、正満寺という浄土真宗本願寺派のお寺でした。
 正保三年(1646年)の創建ですが、創建の地は江戸で、明治九年にこの地に移転しています。



 諏訪神社入口の狛犬。文政年間(1818年-29年)の建立だそうです。
 相方の吽形のほうはちょうど真後ろに太陽があるという時間帯であったため、上手く撮影できませんでした。



 参道入口にあった神馬の像です。



 諏訪神社の創建は大同二年(806年)。今年で千二百と三年を迎えます。
 この世の雑音は鬱蒼と繁る森林に遮られて、境内は森閑と静まり返っていました。聞こえるのはカサコソと散る落ち葉の音だけ。
 参道入口から社殿までは目測150メートル。間に三対の狛犬がありました。 

 


 境内奥深くにある馬を連れた源義家公像です。

 平安末期の永保三年(1
083年)、義家公が後三年の役で奥州に向かうとき、この神社に立ち寄って、軍馬の調達と武運を祈願。戦勝後も立ち寄って馬を献上したという伝承があります。

 神社の入口は柏市ですが、社殿を含む境内のほとんどは流山市駒木にあります。
 訪ねたとき、私は流山市に足を踏み入れているとは考えてもみませんでしたが、駒木という地名から推測できるように、かつて周辺は馬の産地でした。
 県道柏流山線を挟んで、鞍掛という地名も遺っていますが、これは義家公が献馬の際に乗馬の鞍を掛けたことが由来といわれています。
 


「後三年合戦絵詞」(東京国立博物館蔵)の源義家公です。

 


 こちらは拝殿前の狛犬。前肢がガッシリとして、阿形のほうはボルゾイ犬を思わせます。
 北村西望(昭和六十二年没)作。昭和五十七年十月建立とのことですから、晩年の作です。

 この狛犬の建立から遡ること五年前、北村西望さんにインタビューを申し入れて、井の頭公園にあったアトリエを何度か訪ねたことがあります。窓口となったお弟子さんによれば、老齢にて(当時は九十四歳)余分に体調のよい日がなかなかないとの理由で待たされ、結局会えずじまいでした。
 余分に体調がよいとは、ちょっとでも元気な日は制作に没頭したい。そのあとでもなおインタビューに応える余裕があれば、という意味でした。つまりやんわりと断わられていたのにもかかわらず、私は愚直にも日参していたわけです。

 次は前ヶ崎城趾を訪ねるつもりで、駅を目指して戻りました。
 諏訪神社は豊四季駅から至近距離なので、なんの心配もありませんでしたが、プリンタの具合が悪く、この日はいつもなら持って歩く地図を持たずにきていたのが微かな不安材料でした。

 東武線の踏切を渡ってしばらく歩くと、右手にこんもりとした林が見えました。
 私の中では、城趾は小高い丘に林、という固定観念が出来上がりつつあるので、そこが目指す前ヶ崎城趾ではなくとも、なんらかの参考になりそうなところではないか、という気がして寄ってみることにしました。
 ところが、近づいてみると、丘でもなく、なんの変哲もない林でした。引き返そうとしてふと見た電柱に「流山市」という住所表示がありました。

 あらましの位置関係は頭の中に叩き込んできたつもりでしたが、とんでもない方向にきてしまった! と慌てふためいたためか、頭の中の地図は一瞬にして崩壊してしまったのです。
 あとで地図を見ると、このあたりの柏市は虎がガァーッと口を開けたのを、真横から見るような形をしています。口の中が流山で、この地域は行けども行けども流山です。
 前ヶ崎城趾があるのは流山市なのですが、私は柏市だと思い込んでいたのも地図の崩壊に手を貸すことになりました。
 それでも慌てず騒がず、真っ直ぐ南下すれば、やがて虎の下顎の部分で再び柏市域に入り、前ヶ崎城趾に辿り着けただろうと思うのですが、いつの間にか柏の南西方向にあるはずの流山まで流れてきてしまった、と思い込んだのがこの日の私の運の尽きでありました。

 ともかく東へ向かうべし、と思って歩きましたが、先に記したように、住居表示は行けども行けども流山市です。
 運の悪いことに、ガァーッと開いた虎の口の一番奥を目指して歩いていたのです。

 太陽は背にありましたが、一体どの方角に向かって歩いているのか、完全にわからなくなってしまいました。それとともに、いっぺんに疲れが出てきました。
 前の歴史探訪からほんのちょっとの間を置いただけ、という気がしていましたが、実際は三週間近く経過していて、勘のようなものが鈍っていたことも疲れを増幅させたようです。
 若いころなら適宜の間合いは元気の素となるのですが、歳を取ると、間合いを取り過ぎてはいけないようです。

 今週末、関西の友人(♀)が訪ねてくることになっています。
 土曜日は松戸近隣の散策のあと、葛西臨海公園へ。日曜日は小田原の古寺探訪、と予定をしているので、ポクポクと歩くことになります。
 それに備えて、しばらく履いていなかったウォーキングブーツを馴らしておこうと考えたのも、軽率な選択でした。

 私は右足の小指が畸形で、親指ほどの太さがあります。3E4Eという靴を選んでいますが、靴によってはどんな幅広のものを買っても、小指が当たって痛いことがあるのです。履き慣れれば自然と拡がるので、痛みを感じることもなくなるのですが、履き馴らすまで時間がかかります。
 オーダーメイドということも考えぬわけではないのですが、見知らぬ靴職人に畸形の足をまじまじと見られる、と思うと、どうしても腰が引けてしまって、これまで何度も考えながら、結局既製の靴を買い、結局痛い目に遭いつづけているのです。

 季節も関係があるようで、冬期は革が硬くなるのか、新しい靴は禁物です。
 しかし、朝夕は肌寒くなってきたとはいえ、まだ冬には間のある季節です。痛む靴を不用意に履いた挙げ句、疲れ果てて今日はリタイアと決めました。
 幸い明日は体育の日。仕事は休みなので、前ヶ崎城趾訪問は明日に回すことにしました。


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