骨董じいの世界

古い「もの」新しい「もの」の中から自然の味わいの「美」を見いだし、自由に「もの」を楽しむ心を持ち続けたい。

山際を登るちいさな才ノ頭峠 越後米沢街道

2014年10月08日 | 越後米沢街道・十三峠

山形県米沢と新潟県関川間の十三の峠を訪れる
才ノ頭峠(さいのかみ) 峠口間の距離は350m 峠の標高は315m

白子沢の入り口の賽の頭地蔵尊 (道祖神)
サエノ神 (堺、境の神)道路の悪霊を防いで行人を守護する
 

集落の生活道路となっている


土地利用の面から街道は山際をとおる


白子沢宿から沼沢宿まで15町

 NPO法人 ここ掘れ和ん話ん探検隊主催
トレッキングより  ( 2014.10.4 )


今は県道になった長い長い桜峠 越後米沢街道

2014年10月07日 | 越後米沢街道・十三峠

山形県米沢と新潟県関川間の十三の峠を訪れる
桜峠(さくら) 峠口間の距離は6500m 峠の標高は435m 

横川ダムの白い森おぐに湖によって消滅した市野々宿
定宿となったのは享保年間(1716~1736)以降
問屋兼宿屋越後屋、馬宿の藤屋、背負子宿の大黒屋、
加賀屋、若松屋ほか数軒の商人宿等があった
イザベラ・バードは黒沢宿に泊まれずここに泊まった

市野々宿の鐙坂への道

鐙坂 街道は誰も通らず舗装も朽ちるだけか


市野々宿にあった石塔

同じく移転した石祠

一部古い街道の形が残っている道 ここしかない

市野々宿にあった仏さま


桜峠の最高点 米沢側には桜の木があった

桜の集落は今はない 桜川にそって街道は白子沢が見えてきた

白子沢の護り神 白子神社

ここが米沢からの桜峠口


白子沢間の宿 馬宿、背負子宿が立ち並んでいた
ここから伊佐領に行く道と飯豊町中津川に行く道があった 

市野々宿から白子沢宿まで1里16町
白子沢宿から沼沢宿まで15町

 NPO法人 ここ掘れ和ん話ん探検隊主催
トレッキングより  ( 2014.10.4 )


小さな峠貝淵峠と苔むした石畳の黒沢峠 越後米沢街道

2014年10月06日 | 越後米沢街道・十三峠

山形県米沢と新潟県関川間の十三の峠を訪れる
貝淵峠(かいのふち) 峠口間の距離は270m 峠の標高は340m

全線民有地で、刈り払いができていないので
峠口の写真のみ 

山形県米沢と新潟県関川間の十三の峠を訪れる
黒沢峠(くろさわ) 峠口間の距離は2600m 峠の標高は423m

黒沢宿は馬継所で背負子宿等があって賑わった
安永4年(1775)に雪崩の多い峠を避け迂回の街道(伊佐領)が
利用されることが多くなり牛馬宿等2、3軒が残るだけになった

黒沢峠敷石道保存会の案内版から一部を記す
峠の悪路改修のため1800mにわたり約3600段の敷石が
延36800人ほどの人々により
天保10年(1839)から慶応3年(1867)に敷かれています

交易の主な品物は米沢からは、青苧、煙草等で、
越後からは塩、塩魚、乾物等が牛馬や背負子で運ばれた
平成8年(1996)に文化庁の「歴史の道百選」に選定
苔むした敷石がブナ林の中を続く
これほど美しく特徴ある街道は、歴史の道百選の中でも唯一のものだ
と紹介されています

石切場 材質は砂岩(石灰石を含む)

苔むした石畳は美しい

 苔むして少々滑る傍を歩く

ブナ林の中の石畳

一里塚 道の両側に塚が残っている

古屋敷 延享3年(1746)に黒沢の伊藤平太郎がここに茶屋(助)を開いた
子孫の平次郎は「平雲海」という海号を持っていることから
湯殿山を熱心に信仰する行者てあったと思われる
慶応元年(1865)には 上杉斉憲が石目の見事な石を
松の御奥に送るよう指示し、さっそく米沢に届け恩賞を頂いた

 人馬によって擦り減り美しい石目ができた

屋敷の中にあった石塔 茶屋の土台石や用水路の後も確認できる

黒沢峠の最高地点

米沢側にも 美しい石畳が続く

うつくしいブナ林も

市野々側の案内板

白い森おぐに湖に架かる潜り橋 不動出生橋をわたると
今は湖底となった市野々に着く

 
小国宿から市野々宿まで2里23町

 NPO法人 ここ掘れ和ん話ん探検隊主催
トレッキングより  ( 2014.10.4 )