ttosiさんはじめ、皆様からのコメントに期待しています。
スノーボードの国母選手の問題で書きたいことは山ほどあったのだが、既に見識ある(?)人々のブログで取上げられていたので、あえて静観していた。
ところが、当Blogのベテラン・コメンテーターことttosiさんに意見を求められたので黙っているわけにはいかない。
できるだけ他のブログで取上げられた内容には触れずに、違った視点から個人的見解を述べることにする。
基本的に下記Blogsの内容に同意しているので、参考にしてほしい。
国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)
(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/02/post-c213.html
一億総ヤクザ(深町秋生)
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100215
「品格」は他人叩き大好き無能者の最後のよりどころ(NC-15)
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20100216/1266252634
ルールと価値観(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/02/post-716.php
さて、個人的見解を述べることにしよう。
私は、今回の問題を、最近の当Blogの流行でもある「日本論ネタ」として語りたいと思う。
(ということで、相変わらず抽象論に終始します。)
まず、「なぜ国母選手は批判されるのか?」という疑問にお答えしたい。
それは、「和を乱す人物」と判断されたからである。
「品格」というのは方便で、実際は和を乱すやつが嫌いなのである。
なぜ和を乱すやつが嫌いなのか?
それは日本人が長らく「和を尊ぶことで生きてこれた」という厳然たる現実を経験的に理解しているからである。
(いつもの繰返しで申し訳ないが)
日本人は、古来より生き残るために和を尊んできた。
しかし、和を尊ぶということは、「個人」よりも「場」を重要視するということである。
「個人」と「個人」との境界線を曖昧にし、「場」に溶け込ませるのだ。
そこに「個人」は独立して存在するわけではなく、「場」との関係性の中でのみ存在できる。
それは、時として「個人」としての人間性を否定することにも繋がる。
西欧諸国にみられる「神の前で平等で自由な個人」という発想が日本にはない。
「個人」が存在しないのだ。
だから「個人」を前提とした仕組みや風習が日本にはなかった。
あるのは、「場」を存続させるためのものだけであった。
しかし、日本人が「和を尊ぶ」のは、それが最善と信じたからではない。
そうしなければ生き残れなかったという、限られた選択肢の中での苦渋の決断の積み重ねであった。
それが人間性を開花させるわけでも、生まれながらの幸福を意味するわけでもなかった。
だから、日本には「はかなさの美学」や「死の美学」、「滅びの美学」が存在する。
長い間、そういった環境に耐え忍ばなければならなかった日本人が生み出した知恵だ。
この意識は、「御恩と奉公」、「エコノミック・アニマル」、「村八分」、「一億層中流」、「出る杭は打たれる」などの日本的文化の底辺にある。
「場」の親密性を共有することが最大の喜びである必要があったから、それが素晴らしいと礼賛する伝統と、そうではないものを排斥する生活習慣が生まれたのである。
日本人が和を尊び、そこから逸脱するのを許さない理由は以上である。
その概念を共有することを求めるのは、品格原理主義者だからではない。
それが日本人であるという彼らなりの信念が埋め込まれているからだ。
彼らは、日本人に対してどこまでいっても「日本人的であれ」と主張しているのである。
バンクーバー・オリンピックに行っても「日本人であれ」、モンゴル人が相撲をやるにも「日本人であれ」、ビジネスやるにも「日本人であれ」だ。
オリンピックでのメダルや結果や、競技が選手に与える影響うんぬんよりも、まず「日本人であれ」だ。
税金やら礼儀やら品格なんてものは建前に過ぎない。
※
今後説明するのが面倒なので「聖徳太子の呪い」とでも言おうかな。
別に聖徳太子のせいじゃないけれど。。
では、次に「なぜ国母問題で意見が対立しているのか?」について説明しよう。
(当Blogを長らくご覧頂いている読者様には、結論が見えているだろうが・・)
国母選手が批判される理由は「日本人的ではなかったから」だということがわかったが、主にネット上(有名ブログ等)では、国母擁護論(というより国母批判派への批判)が多い。
これはおかしい。
国母選手は「日本人的ではない」から批判されているのに、同じ日本人が「そういう批判はおかしい。」と主張し意見対立が起きているのだ。
「そりゃ、あなたの「日本論」が日本人を一般化していることに無理があるってだけの話しだろ?現代では、あなたのいう「日本人的」の例外は腐るほどあるってだけさ。」などといって、この問題を単純化してはいけない。
違うのだ、そんな簡単な話ではない。
私が説明した「日本人的なるもの」は現代でも変わってはいない。
大きく変わったのは「個人」と「社会」なる概念が日本に輸入された点である。
つまり、「個人」と「社会」とが存在しなかった世界に、その2つがしれっと入り込んできたのだ。
西欧的仕組みが「個人」と「社会」を前提としているため、西欧化するということは、自然と「個人」と「社会」を受け入れるということに他ならない。
しかしだ。
ここからが当Blogの問題意識だ。
「個人」と「社会」が存在しないことを前提とした「日本人的なるもの」に、「個人」と「社会」が入り込んだのだ、衝突しないわけがない。
ボタンの掛け違い程度ならよいが、これは仕様の異なる歯車を組込んだようなものだ。
ギシギシと音をたてて、日本のあちらこちらで不協和音が上がっている。
よく考えて欲しい。
「場」を当り前だと思っている人と、「個人」を当り前だと思っている人とが話し合うのである。
社会観どころか、人生観からいってすれ違うこと間違いなしである。
国母問題でいえば、「個人」の自由を尊重する側からみれば、「個人の自由を侵害するようで申し訳ありませんが、制服を支給するので要所で着用いただいてよいでしょうか。」くらいの発想だってできるのだ。
「なに?服装を強要?しかも服装の乱れは許さんだと?!ここは北朝鮮か!?」と、かなり極端な例だが言われても仕方がない。
だらだらと話が長くなる前に、結論を出しておこう。
「では、我々はどう考えるべきなのか?」についてだ。
まず絶対的な答えはない。
これは理解していただく必要はある。
それを前提とした上だが、この場合「両論並立」しかない。
なぜなら、どちらが正しいのか答えはないからである。
例えば、「個人」を尊重するのが近代的な考えのように思えるが、しかし「個人」を尊重した結果の「孤独」に現代人は苦しめられているし、「個人」の利益追求による経済的損失も被る可能性もある。
「個人」を尊重することで100年うまくいったが101年目にとんでもない事態を招く必要だってある(ブラック・スワン)。
たいして利益を上げられないが、生き残れるのは「個人」を認めない方かもしれないのだ。
しかし、両者が相互理解をしながら、より優れた落しどころを模索していく作業は必要だ。
私は「何が正しいかわからないから、何もしない。」というニヒリズムは採用しない。
「何が正しいかわからないから、何が正しいかよりも、何がより自分達にとって有用か。を考えていこう。」これが私の立ち位置だ。
だから、当Blogでいつも主張するように、日本は「個人」と「社会」についての議論を深める必要があると主張している。
答えになったであろうか。
スノーボードの国母選手の問題で書きたいことは山ほどあったのだが、既に見識ある(?)人々のブログで取上げられていたので、あえて静観していた。
ところが、当Blogのベテラン・コメンテーターことttosiさんに意見を求められたので黙っているわけにはいかない。
できるだけ他のブログで取上げられた内容には触れずに、違った視点から個人的見解を述べることにする。
基本的に下記Blogsの内容に同意しているので、参考にしてほしい。
国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)
(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/02/post-c213.html
一億総ヤクザ(深町秋生)
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100215
「品格」は他人叩き大好き無能者の最後のよりどころ(NC-15)
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20100216/1266252634
ルールと価値観(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/02/post-716.php
さて、個人的見解を述べることにしよう。
私は、今回の問題を、最近の当Blogの流行でもある「日本論ネタ」として語りたいと思う。
(ということで、相変わらず抽象論に終始します。)
まず、「なぜ国母選手は批判されるのか?」という疑問にお答えしたい。
それは、「和を乱す人物」と判断されたからである。
「品格」というのは方便で、実際は和を乱すやつが嫌いなのである。
なぜ和を乱すやつが嫌いなのか?
それは日本人が長らく「和を尊ぶことで生きてこれた」という厳然たる現実を経験的に理解しているからである。
(いつもの繰返しで申し訳ないが)
日本人は、古来より生き残るために和を尊んできた。
しかし、和を尊ぶということは、「個人」よりも「場」を重要視するということである。
「個人」と「個人」との境界線を曖昧にし、「場」に溶け込ませるのだ。
そこに「個人」は独立して存在するわけではなく、「場」との関係性の中でのみ存在できる。
それは、時として「個人」としての人間性を否定することにも繋がる。
西欧諸国にみられる「神の前で平等で自由な個人」という発想が日本にはない。
「個人」が存在しないのだ。
だから「個人」を前提とした仕組みや風習が日本にはなかった。
あるのは、「場」を存続させるためのものだけであった。
しかし、日本人が「和を尊ぶ」のは、それが最善と信じたからではない。
そうしなければ生き残れなかったという、限られた選択肢の中での苦渋の決断の積み重ねであった。
それが人間性を開花させるわけでも、生まれながらの幸福を意味するわけでもなかった。
だから、日本には「はかなさの美学」や「死の美学」、「滅びの美学」が存在する。
長い間、そういった環境に耐え忍ばなければならなかった日本人が生み出した知恵だ。
この意識は、「御恩と奉公」、「エコノミック・アニマル」、「村八分」、「一億層中流」、「出る杭は打たれる」などの日本的文化の底辺にある。
「場」の親密性を共有することが最大の喜びである必要があったから、それが素晴らしいと礼賛する伝統と、そうではないものを排斥する生活習慣が生まれたのである。
日本人が和を尊び、そこから逸脱するのを許さない理由は以上である。
その概念を共有することを求めるのは、品格原理主義者だからではない。
それが日本人であるという彼らなりの信念が埋め込まれているからだ。
彼らは、日本人に対してどこまでいっても「日本人的であれ」と主張しているのである。
バンクーバー・オリンピックに行っても「日本人であれ」、モンゴル人が相撲をやるにも「日本人であれ」、ビジネスやるにも「日本人であれ」だ。
オリンピックでのメダルや結果や、競技が選手に与える影響うんぬんよりも、まず「日本人であれ」だ。
税金やら礼儀やら品格なんてものは建前に過ぎない。
※
今後説明するのが面倒なので「聖徳太子の呪い」とでも言おうかな。
別に聖徳太子のせいじゃないけれど。。
では、次に「なぜ国母問題で意見が対立しているのか?」について説明しよう。
(当Blogを長らくご覧頂いている読者様には、結論が見えているだろうが・・)
国母選手が批判される理由は「日本人的ではなかったから」だということがわかったが、主にネット上(有名ブログ等)では、国母擁護論(というより国母批判派への批判)が多い。
これはおかしい。
国母選手は「日本人的ではない」から批判されているのに、同じ日本人が「そういう批判はおかしい。」と主張し意見対立が起きているのだ。
「そりゃ、あなたの「日本論」が日本人を一般化していることに無理があるってだけの話しだろ?現代では、あなたのいう「日本人的」の例外は腐るほどあるってだけさ。」などといって、この問題を単純化してはいけない。
違うのだ、そんな簡単な話ではない。
私が説明した「日本人的なるもの」は現代でも変わってはいない。
大きく変わったのは「個人」と「社会」なる概念が日本に輸入された点である。
つまり、「個人」と「社会」とが存在しなかった世界に、その2つがしれっと入り込んできたのだ。
西欧的仕組みが「個人」と「社会」を前提としているため、西欧化するということは、自然と「個人」と「社会」を受け入れるということに他ならない。
しかしだ。
ここからが当Blogの問題意識だ。
「個人」と「社会」が存在しないことを前提とした「日本人的なるもの」に、「個人」と「社会」が入り込んだのだ、衝突しないわけがない。
ボタンの掛け違い程度ならよいが、これは仕様の異なる歯車を組込んだようなものだ。
ギシギシと音をたてて、日本のあちらこちらで不協和音が上がっている。
よく考えて欲しい。
「場」を当り前だと思っている人と、「個人」を当り前だと思っている人とが話し合うのである。
社会観どころか、人生観からいってすれ違うこと間違いなしである。
国母問題でいえば、「個人」の自由を尊重する側からみれば、「個人の自由を侵害するようで申し訳ありませんが、制服を支給するので要所で着用いただいてよいでしょうか。」くらいの発想だってできるのだ。
「なに?服装を強要?しかも服装の乱れは許さんだと?!ここは北朝鮮か!?」と、かなり極端な例だが言われても仕方がない。
だらだらと話が長くなる前に、結論を出しておこう。
「では、我々はどう考えるべきなのか?」についてだ。
まず絶対的な答えはない。
これは理解していただく必要はある。
それを前提とした上だが、この場合「両論並立」しかない。
なぜなら、どちらが正しいのか答えはないからである。
例えば、「個人」を尊重するのが近代的な考えのように思えるが、しかし「個人」を尊重した結果の「孤独」に現代人は苦しめられているし、「個人」の利益追求による経済的損失も被る可能性もある。
「個人」を尊重することで100年うまくいったが101年目にとんでもない事態を招く必要だってある(ブラック・スワン)。
たいして利益を上げられないが、生き残れるのは「個人」を認めない方かもしれないのだ。
しかし、両者が相互理解をしながら、より優れた落しどころを模索していく作業は必要だ。
私は「何が正しいかわからないから、何もしない。」というニヒリズムは採用しない。
「何が正しいかわからないから、何が正しいかよりも、何がより自分達にとって有用か。を考えていこう。」これが私の立ち位置だ。
だから、当Blogでいつも主張するように、日本は「個人」と「社会」についての議論を深める必要があると主張している。
答えになったであろうか。
皮肉は半分だけです(笑)
advanced_futureさんには時事問題の説明ではなく、時事から見える文化的本質と処方箋を期待したいです。文化的本質の説明は素晴らしいと思います。いつも一歩引いた視点から述べられている。しかしそれだけでは何も変われないのではないでしょうか。空気を変えるためには何が必要でしょうか。自己満足で終わらないためにはどうすればよいのでしょうか。
すみません、これは自分自身への憤りだと思います。
コメントへの回答ありがとうございました。今回の記事も合わせて回答になっていると理解しています。
私は、このような文化的な問題はいつの時代も変わらず存在すると思います。人は変わるものだと思いますので、親子の間でも考え方が異なるように、日々変化するものだからです。でも(本Blogで主張があったことのような気もしますが)、人は失敗しながらも前進する方向に変化していくと信じています。ですので、以下の一文にとても賛同しました。
>しかし、両者が相互理解をしながら、より優れた落しどころを模索していく作業は必要だ。
insight_1975さんのコメントにあるように、処方箋を私も期待しているのですが、advanced_futureさんとしても答えがないところに色々な意見をぶつけ、議論を発展させたいということだとも思っています。そこで、まとまりないですが、少しだけ私見を書いてみます。自然と「個人」が浸透した西欧と違い、「場」を尊重するところに「個人」が入ってきた日本ということを考えますと、西欧とは違った「個人」というものが生まれる可能性が高いと思います。私自身、「場」の重要性を感じている大変日本的な人間ですが、「場」と「個人」が共存することは可能だと信じています(そのときには違う概念となっているかもしれませんが)。ただ、前述したように非常に困難なことだと思います。そこには広い視点、想像力というものが必要になってくると思っています。
外来の知識を盲目的に吸収するのが日本的だとするなら、ここでいう「個人」もまた吸収され変化して日本に溶け込んでいるはずではないか。
これを"古い日本的なもの"と"新しい日本的なもの"との融合過程とだけ見てしまうのはもったいない。
違うのだ。新しい「個人」はもう日本にある。
その「個人」とはなにか?
そういうことではないですか?
皮肉たっぷりのコメントありがとうございます。
褒め言葉と受け取らせていただきます(笑)
私は全く文化的な生活も送っておりませんし、文化論的素養もない(文化○○学的な文系学問とは遠く離れているつもり・・)のですが、確かに気づくと文化論的な話が多いような気がします。
やはり、話をするのが簡単だからですかね。
反証可能性について考えなくてもよいから、科学的厳密性が求められない楽さといいますか。
文学としてはメインテーマで、私にとっては言い訳なのですが、「物語」を語ればいいわけですよ。
しかし「物語」の威力は強烈だから、余計に「物語」にのめり込んでしまう。
内田樹じゃないですが、「物語にしか語れないもの」って言い訳しておきます。
insight_1975さんの2回目のコメントですが、さすがにするどい。
話の展開として、新しい「個人」につなげないとおかしいですね。
ここはttosiさんへのお返事と合わせて述べさせていただきます。
>ttosiさん
コメントありがとうございます。
ttosiさんらしいコメントだなと思いながら読ませていただきました。
insight_1975さんの2回目のコメントの内容と繋げると面白くなってきますね。
もし、私が述べる日本論が正しいのだとすれば、「個人」と「社会」がそのまま日本に入ってくるわけがない。
日本に入ってくるときに変容をしているはず。
こうして国内で衝突しているのは、中途半端なのか、融合過程なのか、それとも変容の仕方もまた変わっているのか。
このあたりの考察が必要だと感じています。
私なりの表現をすると、今の日本には「非個人」と「個人」の混血児が生まれている。
(話としては人間とヴァンパイアの混血でもいい)
混血児は、非個人的な社会構造と、個人的な社会構造との間で揺れながらもがいている。
そういう状況だと考えています。
これは後日エントリ化したいと思います。
有用なコメントありがとうございます。
今後もよろしくお願いいたします。
別々のものが混ざり合うのではなくある方向性をもって融合するという意味ですね。子供が生まれる奇跡的な現象に生物学的な背景があるように、この融合過程にも下絵があるはずだ。私も内田樹的ですか?(笑)
advanced_futureさんのことだから伏線が引いてありそうです。としばらく考えて閃きました。
生まれてくる子供に突然変異でもない限り、子供は親の延長線上にしかなりませんね。わかりましたよ。混血の意味が。白人同士で子供作る限りは白人の子供しか生まれない。日本人と西欧人の子供も日本で暮らせば日本人だけど少し違う。自分が何人か迷いながら生きる。世代を跨げば日本人と同化するが混血の日本人が主とした日本人になるには相当の時間がかかる。その速度は遅々としたものになる。
そういう説明ですか?
コメントありがとうございます。
おぉ・・想像力豊かですね。
私も妄想族の端くれですが、insight_1975さんには遠く及ばないようです(笑)
「混血」についてです。
「時間」をさほど意識したわけではないのですが、ただちょっと近いところから発想しました。
私の念頭にあったのは日本における縄文と弥生の融合が2千年たった今も完成していないという問題意識がありました。
日本人が単一民族か否かという議論を待たずして、そもそも日本では土着の縄文と新興勢力の弥の融合すら完全には進んでいないが、それでも我々はそこを意識することはないです。
文化的な部分に目を向けてみても、その土地に依拠した風習というのは情報化社会となった今でも残っています。
県民性についてのTV番組もゴールデンタイムに放送していたりするほどです。
しかし、我々はそういった「ローカルな違い」を許容しながら、しかし共通の認識を共有していると認識しています。
混血の深化とはそのように進むものだという意味でコメントしたつもりです。
>りょうまさん
短いながらも鋭いコメントありがとうございます。
明治維新は日本が持つ数少ない変革の成功例ですね。
あの時代、日本がおかれている環境は切実なるものがあったのでしょう。
ただあの時代に限らず日本人のキャッチアップするスピードの速さは特筆すべきものがあると思います。
ご指摘の通り、あのスピード感は日本らしいといえると私は考えております。
今後もよろしくお願い致します。
南米かどっかの日系三世の若い女性を取材してまして
その彼女は短気で怒りっぽくプライドが高い性格だったんですが
同時に言うのが「この国の人間は考え方も皆違っていて、それぞれ主張があるから疲れる」と
そして何が一番落ち着くかというと…
日系だけで集まって、カラオケをやるんです
「みんな同じ顔~」
って三世どうし笑ってんですね
でも日本語も解らないし日本の歴史も文化も(カラオケ以外は)知らないんですよ
これはね、遺伝子
もう、遺伝子です
私はあれ見てレイシストになりましたから
血の要求が社会を作る
そういう血が、最も生きやすい社会を望む
だからその血が変わらないうちから、机の上の理屈だけで概念やシステムを輸入すると歯車が軋みますよね
逆に言えば
そういう血を持った人間しか生きられない社会を作っておいて
「生きるため」という理由でその価値観を正当化する
そして日本人的価値観はどちらかと言えば「客観性」や「主体性」から遠いですから
頭の良い人間や主体性の強い人間ほど、生きる資格を否定された気持ちになる
※客観や主体という言葉をここで哲学はしませんが
平和で停滞した時代ほどその傾向が強くなります
戦乱や狂乱の時代には、客観的な見方ができて主体的に意思決定できる人間も、しばしば必要になるからです
強い人間を村八分にするのは、いざという時の日本の競争力を奪いますね
あれは、かぶいてるんですよ
そう「かぶき者」です
ああいう自分のやり方やスタイルでしかやらない人間も、いざとなると結構強かったりする
あれはあれで、伸ばさないと…
団長って人は以外とわかってんじゃないかな?
味わい深いコメントありがとうございます。
噛めば噛むほど味が出てきそうです。
>血の要求が社会を作る
>そういう血が、最も生きやすい社会を望む
ヒロシさんのコメントを読んで思うことがいろいろありました。
例えば、ちょっと悪い問題提起かもしれませんが、人間社会というのは一体何層くらいの要素によって構造化されているのか。というあたりです。
遺伝的要因や住環境要因、宗教的要因、文化的要因、経済的要因、家族的要因、生活要因など、どのような影響を受けているのか。
これまでに数多くの人がチャレンジしてきた難題で、一般解を出すことは難しいのだとは思いますが、人間社会を語る上では是非とも知りたいところです。
ただ、個人的に一つだけ確からしいと思っているのは、人間はどこにいようと最適化しようとする、ということです。
「最適化の悪魔」と呼んでしまいましょう。
そうなると、どのような人間社会も最適化の結果である、といえます。
問題は、どのような環境に適応しているのか。ということだと思います。
最適化し切ってしまった組織は硬直化して、環境変化に対応できずに崩壊する。
だから、ある一定の流動性や柔軟性を組織内に確保しておくことは、多様性による耐性の獲得のために必要になるのでしょう。
もし、日本社会が、これから世界が向かう方向と異なるものに適応しているのだとすれば、今後の環境変化に対応するために、「かぶき者」などを許容することは、いえ、「かぶき者」が生まれるのは必然的現象ともいえるのかもしれません。
システムを擬人化するわけではないですが、社会が防衛本能として自ら反社会的要素を認めることは矛盾ではなく、むしろ社会として合理的なのではないか。
などと考えたりします。
問題は、マスコミという拡声器が必要以上に反社会的要素にバイアスをかけるため、社会全体としてのバランスを崩す可能性があるということです。
このあたりは、もうちょっと考えて行きたいと思います。
と、思うところをつらつらと書いてしまいましたが、ヒロシさんのコメントがとても鋭いものだったので、いい刺激になりました。
ありがとうございます。
今後もよろしくお願い致します。