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進化する魂

フリートーク
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中国での邦人死刑問題にみる、日本の問題解決力の低さ

2010-04-09 13:22:29 | 政治
<参考>
日本は「日本」を主張せよ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6e598b6caf8c161bc454e4de15c86750

怨念の国 日本
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/70062b17808c11e54ad2171cffa369c8

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中国での邦人死刑執行―感情の問題はあるが理性的に対応を(岡田克也)
http://www.katsuya.net/message/2010/04/08.html

中国での邦人死刑執行―感情の問題はあるが理性的に対応を(岡田克也)
http://news.livedoor.com/article/detail/4708479/

いずれにしても、この問題は理性的に対応しなければいけない問題だと思います。非常に難しい問題であり、感情の問題があることを認識しつつ、しかし、理性的に対応しなければいけないことを、国民の皆さんには申し上げておきたいと思います。


誰が感情的な反応をしているのかわかりませんが、少なくても私は冷静にこの問題を見ています。
感情面から批判の声が上がっていると考える時点で、この外務大臣はどうしようもないなという気がしてなりません。
その程度の現状認識能力しかないのでは政治家として大成しないだろうなと、ちょっと毒づいてもみます。
(個人的に「岡田克也という政治家」は好きですが、「岡田克也という外務大臣」は好きになれそうもないようです。まぁ私が好きかどうかは何も関係がありませんが)

まずもって、この問題について、私のような者には感情的になる理由がありません。
(麻薬密輸が悪いことなのか?というのは別に議論してもいいですが)
麻薬密輸に関係するような人間が社会的に排除されるのには賛同します。
繰返すように、死刑が執行された日本人が死のうが死ぬまいが私は構いません。

ただ、私が問題視しているのは、それと外交は別ですよという話です。

いいですか。
よく考えてください。

そもそも、なぜ国家治安当局は、人を裁くことができるのですか?
何の権限で?
それは、天与のものなのですか、それとも人によって創造されたものですか?

社会的に害をなすといいますが、そもそも「社会」ってなんですか?
その「社会」は、日本と中国で同じなんですか?
日本人の多くは、ジンバブエや北朝鮮と日本では「社会観が違う」と思っているんじゃないですか?

仮にあなたが北朝鮮にいて、体制に異を唱えたことで社会的に害をなす政治犯として収容され、かつ死刑判決されたら、「お前らの考える社会の方が害だろこのやろう!」とか言い放ったりしませんでしょうか。

これは極端な例ですけれども、でも中国が極端な国家でないことはどうやったらわかりますか。
さらにいえば、日本が極端な国家じゃないのはどうやったらわかりますか。

わからないですよ。
明日、神が降臨して、「これまでの世界は全部ウソだよん。おつかれちゃん。」などと言ったらどうしますか。

だから、我々は、精一杯慎重になるべきなんです。
特に、人を裁くということに対して。

死刑執行で治安が収まるなら、どうして共産圏の国々は崩壊したのですか?
歴史上、独裁国家が永続したことがありますか?(現在存在する独裁国家が続くかはわからないが)

ある著名な歴史学者がこういいました。


歴史上、「革命」と呼ばれるものは意外に少ない。
なぜなら、そのほとんどは鎮圧されて「乱」や「蜂起」などで終わっているからだ。
「革命」が成功するかどうかは、革命者達の動機や能力にはほぼ関係がない。
「革命」が成功するかどうかは、現体制それ自体が力を失い、崩壊しかけているかどうかに依る。


つまり、死刑などの刑罰で人心が治まるなら革命など起きない。
死刑や刑罰に社会的安定を保つ力が無いからだ。(ちょっと言いすぎだが)
本当に社会的安定を保ちたかったら、それは人々の理解によってしか成り立たない。
死刑が理解を得るのに有効ならそれでいいだろう。
厳罰化というのは、社会情勢への無理解から発生する発想なのだ。
原因がわからないから、罰則を強化して防ごうとする。
だが、そんなパッチワークでは根本的な問題は解決せず、結局はもぐら叩きになり、いずれ崩壊する。

日本の法律論からして、今回の麻薬密輸に対する死刑は明らかに過剰である。
岡田大臣は、中国の法律に関して口を出すことは、タブー(隣家の夫婦喧嘩に口を出すみたいなもの)だと主張しているのだが、本当にそうなのか。

お友達の親が自分の子供を平手打ちしたら「なぜ、そこで平手打ちする必要があったのか。」「その行為にどれだけの教育効果があるのか」「お前のストレスを発散させるためだけのものではないのか」あたりを問わねばならぬ。

こういうかもしれない。
相手:「そうはいっても、うちは平手打ちしないと子供が言うこと聞きません。」

私:「あなたの子供はそうかもしれないが、うちの子供がそうとは限らないだろう。」
私:「さらにいえば、そこで強制的に介入することに、一体どれだけ意味があるのか。」

相手:「ここであなたの子供を許せば、私の子供も許されると考えるかもしれない。」
相手:「我が家の秩序を保つためには、仕方がない。ここでは流儀に従ってもらう。」

私:「あなたの家は治外法権なのか。」
私:「あなたのやり方が間違っていたら損失ではないですか。」

相手:「あなたはアメリカか。」
相手:「あなたの価値観を押し付けないでくれ。」

私:「いや、それはあなたも同じで、あなたの価値観を押し付けないでくれ。」

相手:「ここは我が家なので、我が家の価値観に従ってもらう。」

私:「あなたの家の中だからといって、あなたの価値観に従うべき根拠はないだろう。」

相手:「それなら、あなたの家の中でも、私の価値観が通ずるということになるがいいのか。」
私:「いやいや、価値観を押し付け合いになるから、価値観の押し付けはよくないといっている。」

相手:「じゃぁ、どうすればいいんだ。」

私:「お互いに協定を結ぼうじゃないか。どうすべきか議論しよう。」

結果としてお互いの得になる解は得られないかもしれないが、お互いにが納得できないまでも、お互いの争いをおさめる知恵は生まれるかもしれない。

こういうことは散々繰返されてきていることで、終わりはないのかもしらないが、こういうことを考え、主張していくことが重要だと私は述べている。


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